テラーノベル
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ゆうき あきや
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第32話:星乃宮アリスの憂鬱と、おっさんの胃痛〜天使の素顔と、底辺の癒やし〜
限界みそラーメンのダンボールに四方を囲まれた、俺の四畳半要塞。
新調したばかりの三十万円のゲーミングPCのモニターには、通話アプリ『Discord』の画面が映し出されていた。
「……ふぅー、っ、すぅー……」
俺は深呼吸を繰り返し、冷や汗で滑るマウスを握り直した。
現在時刻、午後九時五十五分。
あと五分で、業界の頂点に君臨するトップアイドル・星乃宮アリス(と、その所属する大企業のマネージャー)との、公式コラボに向けた事前打ち合わせ通話が始まる。
「いいか俺、絶対に粗相をするなよ。今回はこの間の勝手なゲリラコラボとはワケが違う。相手は登録者数百万人、バックには超巨大企業(スタプロ)がガッツリついているんだ」
もし機嫌を損ねて公式からNGを出されれば、アリス騎士団(ガチ恋ファン)に八つ裂きにされるどころか、VTuber界隈から社会的に抹殺される。
かつてブラック企業のコールセンターで培った「究極のクレーム対応用・へりくだりボイス」のチューニングを済ませ、ひたすら画面を睨みつける。
そして、約束の午後十時ちょうど。
『ピコンッ』
Discordから、着信音が鳴り響いた。
「ひっ……!」
ビクッと肩を跳ねさせながら、震える指で『通話に参加』ボタンをクリックする。
「お、お電話ありがとうございます! 個人事業主のルシフェルでございます!」
『あ、ルシフェル様ですね。夜分遅くに申し訳ありません。スターダスト・プロダクションのマネージャー、佐藤と申します。本日はよろしくお願いいたします』
まずは運営の人間だ。丁寧だが、どこか事務的で、一切の隙や温かみを感じさせない絶対的な「企業」の声。
「と、とんでもございません! こちらこそ、このような底辺の端くれに公式のオファーをいただき、身に余る光栄の極みでございます! 足を引っ張らぬよう粉骨砕身――」
『ふふっ、そんなに硬くならなくて大丈夫ですよ。……それでは、弊社のアリスに代わりますね。アリス、ルシフェルさんにご挨拶を』
『はーい!✨』
スピーカーから、まるで春の陽だまりのような、鼓膜が一瞬で浄化されるほどに澄み切った天使の声が響いた。
『こんばんは、ルシフェルさん! 星乃宮アリスですっ。先日のゲリラでのASMRコラボの時は、本当にありがとうございました! 今日は公式の打ち合わせということで、少し緊張してますけど、よろしくお願いしますねっ!』
「あ、あぁ……! ほ、本物の星乃宮アリスのよそゆきボイスだ……っ」
俺は三万円のゲーミングチェアの上で、思わず正座になりかけた。
普段はYouTubeの画面越しにしか聞いたことのない、数百万の男たちを狂わせる絶対的な「清楚」の具現化。それが今、大人の監視下のもと、俺のヘッドホンから直接語りかけてきている。
「こ、こちらこそ、先日のゲリラコラボでは大変お世話になりました! あなた様のチャンネルで名前を出していただき、さらには涙まで流していただいたおかげで、私は今、なんとか税金を払える命を繋いでおります!」
『あははっ! 税金だなんて、ルシフェルさんったら相変わらず面白いんですから!』
コロコロと鈴が鳴るように笑うアリス。
あぁ、なんて純粋で眩しい存在なんだ。前回のコラボで彼女が見せた、数字に対するプレッシャーと等身大の涙。あれは間違いなく本物だった。
こんな天使みたいな女の子と、明日食べる飯代(と来年の消費税)の心配しかしていない四十歳のおっさんが、企業のハンコをついて公式コラボなんて、やっぱり何かのバグとしか思えない。
『では、私は次の打ち合わせがありますので、一旦通話を抜けさせていただきます。あとはお二人で、当日の企画内容などについて軽くすり合わせをお願いいたします。ルシフェル様、うちのアリスをよろしくお願いいたしますね』
マネージャーの佐藤がそう言い残し、通話から退出した。
『ポロンッ』
Discordの通話ルームに、俺と星乃宮アリス。
企業という重石が外れ、完全に二人きりになった。
「あ、えっと、アリスさん。改めて、当日の企画なんですが、私のような者があなた様の神聖なチャンネルに公式にお邪魔してもよろしいので――」
俺がガチガチの敬語で喋りかけた、その時だった。
『…………はぁーーーーーーっ』
ヘッドホンから、信じられないほど深く、重く、そして絶望的な疲労感に満ちた「特大の溜息」が聞こえてきた。
「え?」
『あー……やっとマネージャー消えた。マジで息詰まるわ、あのクソメガネ……』
「……はい?」
俺は自分の耳を疑った。
今、スピーカーから聞こえたのは、あの鼓膜を浄化する天使のソプラノボイスではない。
残業を百時間こなして終電を逃し、ストロング系の缶チューハイを片手に愚痴をこぼしている限界OLのような、低くてドスの効いた声だった。
『あ、ルシフェルさん。お疲れ様です、アリスです。……いやー、今日もマジで疲れましたわ。公式の打ち合わせとかダルすぎません?』
「えっと……あの? 星乃宮、アリス……様、ですよね?」
『あー、今の私、配信外なんでその「様」とかやめてもらっていいですか。そういうの胃が痛くなるんで。普通にアリスでいいです。あと、敬語も禁止で。おっさん……ルシフェルさんの方が人生の先輩なんだから、適当に話してくださいよ』
パニックだ。
俺の脳内の処理能力(Core i7)が、全く追いついていない。
「お、おい……どういうことだよ。さっきまでの天使みたいな声は……っていうか、前のゲリラコラボの時、お前あんなに純粋に泣いてただろ!?」
『ああ、あれ? あの悩みも涙も本物ですよ。……でも、あっちはあくまで【配信用のガワ(星乃宮アリス)】を通した涙に決まってんでしょ。百万人に向け毎日アレやってるとね、喉より先に精神(メンタル)が死ぬんですよ』
「ガワを通した涙……!? お前、あの感動のコラボの裏で、そんな擦れっ枯らしみたいなテンションだったのかよ!」
『カチッ』という小さな電子音と共に、スピーカーの向こうで『スーッ、プハーッ』と、どう考えても清楚系アイドルが発してはいけない一服の音が響いた。
「おい! 今お前、絶対吸っちゃいけないもの吸っただろ!!」
『アイコス(電子タバコ)なんで音は出ないし画面にも映んないからセーフです。……はぁ、ヤニが五臓六腑に染み渡る……』
「アウトだよ!! お前、それファンにバレたら大炎上どころの騒ぎじゃ済まないぞ!? アリス騎士団に消されるぞ!」
『だから、絶対にバレないように毎日完璧な「星乃宮アリス」を演じてるんじゃないですか』
アリスの声は、三十万円のPC越しでも分かるほど、深い疲労と孤独を孕んでいた。
『少しでも咳払いをすれば「体調不良か!?」って大騒ぎされ、男のVとちょっとでもすれ違えば「匂わせだ」と燃やされる。……期待に応えなきゃ、完璧な天使でいなきゃって、毎日監視カメラの中で生きてるみたいで。私、もう自分が誰だか分からなくなりそうなんですよ』
彼女の口から語られる、トップアイドルの壮絶なプレッシャー。
百万人という巨大な数字は、彼女にとっての「栄光」であると同時に、決して逃げ出すことのできない「呪い」でもあったのだ。
「……それは、前のゲリラコラボの時に聞いた。だからって、なんで今回わざわざ【公式】で俺を指名したんだよ」
俺は、少しだけ声のトーンを落として尋ねた。
「あの突発コラボで満足しただろ。なんで俺みたいな、毎日税金にビビって喚いてるだけのおっさんを、大企業のハンコ押してまで大舞台に引きずり出そうとするんだ。お前のブランドに傷がつくかもしれないのに」
すると、スピーカーの向こうのアリスは、少しだけ照れくさそうに、ふっと笑った。
『……あのゲリラコラボのあと、運営にめちゃくちゃ怒られたんですよ。「勝手に底辺の男Vと絡むな」って』
「だろうな。スタプロの運営は正しいよ」
『でも私、どうしてもルシフェルさんと堂々と絡める免罪符(公式コラボ)が欲しかったんです』
「は?」
『私たちが「アイドル」という架空の虚像を守るために必死になってる時に、ルシフェルさんは、自分の情けないところも、お金への汚い執着も、市役所のケースワーカーへの恐怖も、全部むき出しにして、泥水すすりながら生きてたじゃないですか』
アリスのアイコスを吸う音が、小さく響く。
『三十万円のPC買って「経費だ!」って泣き叫んでるおっさんを見てたら……私の抱えてる悩みなんて、本当にどうでもよくなっちゃったんです。「あぁ、人間ってこんなに情けなくて、みっともなくて、それでも必死に生きてていいんだ」って。……私にとって、ルシフェルさんとの絡みは、最高のヒーリングなんですよ』
「ヒーリングって……お前、俺の税金への恐怖の叫びで癒やされてんのかよ。趣味悪すぎだろ」
『ふふっ。だから、運営に「ルシフェルさんと公式にコラボさせないと私ストライキ起こしますからね」って脅して、無理やりセッティングしてもらったんです』
呆れる俺をよそに、アリスの声は少しだけ、本来の彼女らしい明るさを取り戻していた。
「……はぁ。なるほどな」
俺は、新調したゲーミングチェアの背もたれに深く寄りかかり、ダンボールの天井を見上げた。
前のコラボで彼女の涙を見た時は「救ってやりたい」なんて少しだけカッコつけた気持ちもあったが、とんだ食わせ物だった。
だが、嫌いじゃない。
俺は税金(社会のシステム)に怯え、このトップアイドルはファン(過度な期待)に怯えている。
住む世界も、被っているガワも全く違うが、俺たちはどちらも、自分より巨大な何かに押しつぶされそうになりながら、必死に息をしているだけの不器用な人間だった。
「……分かったよ。お前のその『息抜き』、公式の場でも付き合ってやる」
『本当ですか!?』
「ああ。どうせ俺の周りには今、リスナーから送られてきた限界みそラーメンが二百食分も転がってんだ。失うものなんて、もう来年の消費税の支払いに対する絶望くらいしかねえよ」
俺がそう言うと、アリスは腹を抱えて、清楚の欠片もない低い声で爆笑した。
『あはははっ! やばい、最高! やっぱりルシフェルさん、最高に面白いです! ……ありがとうございます、おじさん。当日は、いっぱい私のストレス発散のサンドバッグになってくださいね!』
「おい、コラボの目的変わってんぞ! サンドバッグはお断りだ! 絶対に俺を騎士団から守れよな!!」
こうして、VTuber業界の頂点に立つ「清楚系アイドル」と、底辺を這いずる「四十歳のおっさん」という、絶対に交わるはずのなかった二つの運命は、奇妙な共犯関係のもとに結びついた。
俺の胃痛は、アリスの裏の顔への驚愕から、「この公式コラボがバズりすぎて、また来年の税金が爆増してしまうのではないか」という、新たな、そして極めて現実的な恐怖へとシフトし始めていた。
コメント
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いやー、第32話、めちゃくちゃ面白かったです!アリスの「清楚な天使」の裏の顔、まさかの限界OLみたいな感じで、そのギャップに笑い転げました。アイコス吸いながら「マジで疲れた」って言うアリス、めっちゃ人間味があって好きです。ルシフェルさんとの会話も、最初はガチガチだったのに、お互い「仮面」かぶって生きてる者同士の共犯関係みたいになってくのがいいですね。お互いのしんどさを認め合える関係、尊いです。