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「ゲームで離婚するやなんて、勿体ないねえ……」
聡美の姉である真波は箸を置くと、「浮気もギャンブルもしとらんげろ? 仕事一生懸命しとる旦那さんやったら無理に離婚せんでも……まあ」そこで言葉を止め、
「終わったことぐちぐち言ってもしゃあないな」
その通り。
すべて、『終わったこと』なのだ、聡美にとっては。今更振り返るのもあのときああすればよかったと後悔するのもすべて――無駄なのだ。
みんなに分かって貰おうとまでは思わない。ゲーム離婚とは、ゲームがこれだけ人々の生活に浸透しているにも関わらず、ましてや姉の真波は二人の子育ての真っ最中だというのに、人々の共感を得にくい出来事なのだろう。田舎の人間の反応は誰しも真波と似たり寄ったりだ。ゲームで離婚するだなんて信じ難い、『その程度のことで?』という思考が透けて見える。
どれだけ夫の行動が自分を痛めつけたのか。理解出来ないといった反応を受け止めるたび、今度から『夫の浮気』とかなにか嘘をつくべきなのかと、人知れず思い煩う聡美である。だがそんな苦悩を顔には出さず、ただ、娘を可愛がってくれている姪、甥、そして義兄に視線を注ぐ。……座布団のうえで寝そべる美凪。赤ちゃん可愛いねー、笑顔でみんながその顔を覗き込んでいる。
新鮮な反応だ。聡美にとって。正直、こんなに可愛がってくれるなんて、思いもしなかった。お陰で存分に姉とトーク出来る。
姉たちが泊まる客用の部屋にて夕食を頂き。和やかな時間を持つ聡美たちである。
「そんで。二人きりでの生活はその……、大丈夫なが?」
妹を気遣う真波に対し、質問の意図を理解した聡美は、「大丈夫よ」と頷く。「向こうやと二人っきりで大変やけど……、大分、美凪も手ぇかからんようになってきたし、こっちやとじぃじが昼夜逆転で世話してくれとるさけ……」
一呼吸置くと聡美は、
「あんな頑固親父がこんなに面倒見てくれるなんて思わんかった。びっくりやわ。正直、ミルク作っとるとき抱っこして貰えるだけで違うんやて……すごい、お父さんには感謝やわ」
その父はいま寝室で休んでいる。夜中に美凪の泣き声を聞くたびやって来ては抱っこを繰り返すので疲れたのであろう。父への感謝の言葉は口では言い表せないくらいである。――あのお父さんが。
「こんな風に、孫の世話をしてくれるなんて思いもせんかった……」
「ほんとにな」と同調する真波。「あたしたちが男の人大嫌いになったん、お父さんのせいやわいね。ほんに、がみがみ怒ってばっかで……。子どもなんか、騒ぐのが当たり前ながに」
真波が言うのは、自分たちが幼い頃の父のこと。旅館業を営む下平家に婿養子としてやってきた父は、仕事に必死なあまり。台所から子どもたちを遠ざけ。子どもたちが騒ぐたびに叱りつけた。その言動は、トラウマとして娘たちのこころに植え付けられている。
しかしながら、ひとは変わるもので。変わりうるもので。……あんなに、鬼のようだった父は、今は僧侶のごとく。子どもたちを目の前にし、笑ってばかりいる。……
真波の第二子である美保梨(みほり)が女の子で。特に父親から『女の子らしくしろ』とプレッシャーをかけられているのを見抜いた秀雄は、あるとき、美保梨を公園に連れ出し、泥遊びをさせたとのこと。
そのとき、一心不乱に、泥で団子を作るうちに、彼女のなかでなにかが昇華されたらしい。様子が、変わった。思いつめた表情をしていたのが、明るい笑顔を見せるようになった。……その話を何度も何度も繰り返す秀雄の姿に、聡美は、ひとりの母として胸を打たれるものがあった。……誰かのために役立てるなんてなんと、素晴らしいことだろう、と……。
「お父さんがおってよかったね」
「ほんとに」姉妹は視線を絡ませ微笑む。
と、真波は飲み物に口をつけると、「ほんで。男のひとはもう懲り懲りなが? 再婚して子どももうひとり作るとか……」
「やだもうありえんて」笑顔で否定する聡美。「無理無理無理。あたしやってもう、三十二やし、それに、出産に妊娠てものすごく大変やったさけ、もう沢山やわいね。
真波ちゃんは偉いねえ。二人も産んで、子育ても頑張っておって。身綺麗で……」
聡美の称賛の言葉を受けると真波はかぶりを振り、「こっちやと三人四人育てているひともおるんよ。そのひとたちに比べたらあたしなんか全然……」
「えーでも偉いよ。やっぱり」聡美は、いないいないばあをしてあげている甥たちに目を向け、「あんなに素直に従妹を可愛がられる子どもたちを育て上げた真波ちゃんはやっぱ、立派やわ。すごく偉いと思うわ……」
「まだまだ子育ての真っ最中やわいね」真波は肩にかかる髪をかきあげ、「大人になったらどうなるか分からん。反抗期もまだやし」
「子育ては先が長いなあ」
「ほんとに」
仲の良い姉妹はそのように会話をまとめあげた。
畑中市在住の真波たち一家が実家に帰省したのは土曜日のことだった。
車で三時間の距離。
……と聞くと、首都圏に住む人間の感覚としては、なにかものすごい遠出をするのではないかと、そう思えるのだが……緑川在住の市民としては、車で一時間二時間というのは、散歩をする程度のことである。
聡美は幼い頃から、車の運転が好きな父の車でよく、畑中市へと連れていかれた。
お洒落に目覚めた頃からは、ひとり一万円を手渡され、姉とショッピングを楽しんだ。
携帯電話のない時代の話である。待ち合わせ場所と、時間だけを指定され、子どもながらに繁華街を練り歩いた……そのことを記憶している。
聡美が子どもの頃は緑川にコンビニはなかった。いまは二軒あるけれども、いずれも車で行く距離だ。それに、ファストフードのたぐいなどいまだにない。
上京したての頃は、徒歩圏内にコンビニがあることに驚かされた。それに、……夜中までふらついても誰もなにも文句を言われないこと。都会者ならではの自由を謳歌した聡美であった。
真波とは仲の良い姉妹であるが、真波とは六歳年が離れており、気が付いたときには姉は大学進学のため実家を離れていた。神戸の女子大に進学した姉を、誇らしく思い、友達に自慢しまくった聡美。
たったひとりの姉であり、よき相談相手でもあった。姉は、大学卒業後は長女ということもあってか、石川県内へと戻り――緑川に帰るという選択肢はなかったらしい。あそこはなにもない田舎だと、常々姉妹でこぼしていた。ファッションに敏感で、遊べるところを欲する二十代の女性には、緑川は物足りない場所ではある。治安はよく安全ではあるが。
緑川から遠く離れた場所に住む聡美が実家に帰る機会は限られており、よって、地元からさほど遠からずの距離に住む姉・真波と話せる機会も貴重であった。姉は、小学生たちの子育ての真っただ中。頻繁に実家に帰るとは聞いていたが、上の子が進学してからは、土日に帰るのが精一杯といったところだ。
姉と飽くることなく語った日の夜。聡美はそっと布団に入る。……父にも母にも、姉にも恵まれてよかった……。大切な家族を作ってくれたみんなに、感謝をしなければならない。家族が居るのは当たり前でもなんでもない、ありふれた奇跡なのだ。ご先祖様が命を繋いでくれたこそ。母が懸命に命を賭して産んでくれたからこそ自分という人間が存在する。あの偉業なくしていまの自分はなかった。そんな彼女が暗い天井を見上げ、ひとり思うこと。
しかしながら自分は。
横を向けば目に入る愛おしい我が子。……この子から父親を奪ってしまった。それから、なんでも話せるきょうだいを作るということも出来なかった……。
可哀想なことをしているのか。
そっと。すべらかな、桃のような頬を撫でた。この子は、これから先待ち受ける苦悩を知ることなく、ただ、幸福な眠りに浸っている……。この子に、この先どんな未来が待っているのだろう。どんな苦労をするだろうか。やはり、……父親が居ないことに対する差別か。
いけない。
母親がそのように思っていたらその空気は娘に伝染する。……仮に間違ったとしても、後悔なんか顔に出してはいけないのだ。親が子を可哀想だと思い込めば、子どもが自分が可哀想な人間だと思い込む。その負の連鎖を断つのは誰でもない、母親だ。母親である自分がしなければならない。これから先。
父の日が来たらどうすればいいのかとか……授業参観。家族行事。保育園での行事……。
懊悩することはあれど、こうして苦しむのは自分ひとりだけではない。結婚した人間の三分の一が離婚する時代である。離婚は、思ったよりもポピュラーな出来事。……
――大丈夫。きっとうまくいく……。
またすぐに起こされるのは決まっている。夜、すこしでも長く眠れるようにと、夜間だけは授乳せずミルクにしている。それでもこの子は三時間ごとにきっかり起きる。……ちょっぴり悲しいところだ。
でも。
幸せなのだ自分は……。
ひとりではない。断じて。
遠く離れて暮らしていても、こうして、自分のことのように親身になってくれる家族が居る。それだけで、……救われる。
恵まれているのだ自分は。あの父だって……あんな父だって。美凪が泣けばすぐ駆けつけ、抱いてくれる。いっそこの部屋に布団を敷いて寝ればいいのにと思うけれども、流石にそれは無いらしい。父親ならではの気遣いを感じる。――ほら、また、泣く……。
「なぎちゃん。じぃじやよー」
どこでスタンバイをしているのか知らねど。父の部屋は離れているのに、呼び鈴を鳴らされたかのごとくすぐに来てくれる。還暦を過ぎる父だ。夜中に何度も起こされるのは辛いだろうに……。
立ち上がると娘を父に任せ、聡美は礼を言った。「お父さん。ありがとう……」
「なーんも」抱き上げると自分の指をちっちゃな手に握らせる父。「お腹空いたげろ。さー。お母さんがもうすぐ美味しいミルク作ったるさけ。待っとってなぁ」
「……ありがとう」父に背を向け、調乳を始める。そのあたたかな気配がやさしさが、いつまでも聡美のこころを温めてくれていた。
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