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「おはようございます。問診票はこちらにお願いします」
果歩は、比奈子の9ヶ月健診にやってきていた。大きな着替え袋にズシッと体が重くなってきた比奈子を抱っこ紐に乗せて受付に問診票を出した。
「小松さんですね。確かにお預りします。食事調査票もありますか?」
「はい、すいません。今出します」
泣きそうになる比奈子をあやすように小刻みにゆらゆら揺らす。
果歩はバックからA4ファイルを取り出して受付女性に手渡した。
やっとこそ、受付できたと安心して待合室のベンチに座った。
車から比奈子をおろして、抱っこ紐につけるだけでもモタモタして、すぐには動けない煩わしさ。
かといってベビーカーだと場所をとって動かしづらい。
泣いたらすぐ抱っこになるため、結局抱っこ紐で落ち着く。
腰にかかる負担は大きいが1番親子で落ち着くスタイルだ。
ただ移動するだけでも、相当な体力を要する。
普段運動をしていない果歩にとっては重労働だった。
ふと、比奈子のよだれを拭っていると知らない職員に話しかけられた。
視線を合わせてしゃがんでこちらを見る。
「おはようございます。小松さんですよね? 僕、税務課の岸谷智也《きしたにともや》って言います。旦那さんには大変お世話になっているんです。奥さんどう言う人かなと思って様子見に来ました」
少しくるっと天然パーマがかかった若い人だった。俳優の赤楚衛ニにそっくりだった。首から下げた名札を見せて、怪しいもんじゃないアピールされた。
「おはようございます。主人がいつもお世話になっているようでご迷惑おかけしてないですか?」
満面な建前笑顔で対応する果歩。本音はすごく面倒くさいと思っている。
「いえいえ、全然。入ってまもないですけど小松さんは優秀です! 仕事覚えるの早いですし。年下の俺に言われても説得力に欠けると思いますが……」
(結構イケメン男子だな。お母さん、興味持たなきゃいいけど)
だっこ紐に乗っていた比奈子はジロジロと智也を見る。
「そうなんですか。それは良かったです。今後とも主人をよろしくお願いします」
「小松比奈子ちゃん。体重測りますよ〜」
保健師の声がした。果歩はぺこりと頭を下げて呼ばれた方に移動した。岸谷は、残念そうにしながらペコリと頭を下げた。つけていたネクタイを結び直して、持ち場に戻ろうと喫煙所の前を通ると晃が出てきて同じ部署に行こうとする。
岸谷は何も話さない。岸谷の横に行く晃。
「智也くん、どこに行ってた訳? 仕事中でしょう」
「え? ん? トイレっす。そう言う小松さんだってタバコ吸いに行ってるじゃないですか?」
「俺は休憩中」
「都合の良い休憩っすね」
「パワー充電時間と言ってくれ」
「はいはい。奥さん、健診に来てましたよ。しっかり見てきましたから」
「な? なんで、仕事中に行くんだよ。せめて、休憩時間に行けよ。そうやってると課長にしごかれるぞ。まさか、果歩に声かけてないだろうな?」
「小松さんに言われたくないっす。それは秘密です。でも、奥さんは可愛かったっす。確か、俺と同い年って言ってなかった
でしたっけ?」
(ったく、これだから若いヤツは。やってることが自由すぎるんだよ。まあ、人の事言えないけどな)
「秘密って……まあいいけどさ。33歳だったかな? 智也くんもだろ?」
「そうっすね。女性は厄年だって言われてますもんね。はあ、結婚したいなあ〜」
2人はそれぞれのデスクに座り、智也は頬杖をついた。
「結婚はよく人生の墓場とか言われるけどな。感じ方は人それぞれ違うけど人生の中で最低でも1回はしておいてもいいじゃないのかな。俺はアドバイスが役に立つとは思えないけどな失敗してるから」
「確かに説得力欠ける……。でも、小松さんみたいな人でも……2回結婚できるんだから俺もできるな、よし、頑張ろ」
「おい、《《みたいな》》ってどう言う意味だ?」
そう話していると、後ろから重い視線が突き刺さる。何も言わずに来るこの雰囲気は課長の睨みだった。
「君ら、随分、仲良いよね? 俺も混ぜてくれない?」
課長は2人の真ん中に行ってそれぞれの肩に腕を乗せる。背筋が凍った。
「ぜひ、一緒に」
作り笑顔で岸谷が言う。
「そうですね。課長も一緒にいかがですか?」
課長は2人のデスクの上に大量の書類をどん、どんと山のように置いた。デスクの下から覗く書類の山頂は遠かった。
「はい、これ、今日中に処理してね〜。よ、ろ、し、こ。アディオス!」
人差し指と中指を揃えて、ピンッと弾くような仕草をさせる課長の鈴木和彦はご機嫌に元の席に戻って行った。
「鬼だ。完全なる鬼だ。残業確定コースじゃないですか。今日、金曜日だと思って飲み会の予定
入れてたのにキャンセルしないと……」
がっくりとうなだれる智也。
「まぁまぁ、頑張ろう。俺も一緒なんだから」
「んじゃ、小松さん、今日、飲みにいきましょうね。それなら頑張れます」
「げっ……仕方ないな」
晃はカタカタとパソコンのキーボードを打ちながら、課長に置かれた書類を処理していった。
デスクの上に置いていた缶コーヒーは空になっていた。