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8 ◇キス
「あれっ、髪の毛に何か……天羽さん、ちょっと屈んでみてください」
「うん? 頭に何か?」
言われるままに俺は手で頭を払いながら中腰になった。
◇ ◇ ◇ ◇
……と、頬に柔らかいものがくっついた。
どうやら俺は篠原にチューされているようだ。
結構長い間、彼女の唇は俺の頬に触れていて、その柔らかい唇が
離れていくのを少しの寂しさで見送ったあと、彼女と瞳が合った。
気がつくと俺は彼女の唇にキスをしていた。
長い長いキスを。
俺は何をしているんだ。
妻以外の若くて可愛い女子とのキスに、知らずしらず俺は夢中になっていった。
キスのあと俺たちは、しばらく抱き合った。
胸がキュンとしたのは、妻と恋愛していた頃以来のことで……
ヤバイ、オレ!
俺ってやつはこんなに貞操観念の低い男だったのか。
しかもまさにさっき聞いたところだというのに……彼女が専務の娘だと。
危機管理能力も今夜の俺には欠落しているようだ。
甘酸っぱい恋もどきにこの年で落ちたっていうのか?
この成り行きにきっと自分が一番驚いているんじゃないかと思う。
対して篠原は恥じらいつつもどこか落ち着いた風情に見えた。
自分が余りにも平常心を失くしているのでよけいそう見えるのかも
しれないが。
◇ ◇ ◇ ◇
電車に揺られている間、俺たちは先ほどの余韻に浸りつつ、ひと言も
言葉は交わさず……先に降りる彼女を車内から見送り、俺は家路についた。
玄関の前に来た時、 俺は姫苺 に対して初めて後ろめたさを持った。
姫苺 に対して篠原のことは取り越し苦労だとし、姫苺 の話を
真面に取り合わないでいた俺が、まんまと 姫苺 の心配していた
通りになったのだから。
姫苺 ごめん、あんなに注意受けてたのに。
次は気を付けるから…… 姫苺 ごめん。
心で妻に謝り、それから家に入った。
◇報告書
来た……。
来ましたぁ~来ましぃ~た、やっと来ぃ~た ♪
夫が帰宅してから5日後、興信所からの報告が来た。
何なの、仕事遅いじゃないのって思ってたけど、5日目で届くなんて
結構早いほうなんだって。
電話でちょっとね、待ちくたびれたのもあって『もっと早いのかと思ってたんだけど、
通常これくらいはかかるもんなんですか?』って直球で聞いちゃったの。
そしたら、『超多忙な時は丁寧な仕事をさせていただいてることもあって
2週間くらいお待ちいただいたこともあります』っていう返事があって
変に感心しちゃったわ。
❀
現代は不倫の多い時代だから、興信所や探偵事務所なんてさぞかし
儲かっているんだろうなぁ……と、そんな考えがふと頭をかすめた。
丁寧な仕事をと言う通り、私がお願いした立山興信所は思ってた以上の
思ってた以上の……うぅ…えっ……余計な……うぅっ。
それはそれは私をたっぷり泣かせてくれる、丁寧な仕事をしてくれた。
大きく、くっきりとその場面が撮られており、しかもその道のプロは
動画にできそうなくらいの連射で撮っていて、これを見せられたら
どんなに厚顔無恥でも、どんなに心臓に毛を生やしていても、もはや
言い逃れなどできまいというほどの仕上がりになっていた。
夫が詰んだのは間違いないが、諸刃の剣とはよく言ったもので私自身も
また、詰んだのだった。OH,Amore Mio!
頭の中でとっさに意味も知らずにこの時響いた……アモーレ・ミオ。
なんで? 普段使いしてないこんな言葉が? と思いつつ意味を
ネット検索してみれば、「私の愛・恋人」という意味だと書かれてあった。
どうして咄嗟に頭に浮かんだのか?
自分でもたまたま、としか言いようがないけれど、それなら
私はこう言わなくてはならない。
Amore Mio! Good Bye…… Bye-Bye! と。 クスン。
興信所のプロフェショナルスタッフは―――
夫と女がレストランに入るまでの様子、
店内で撮れるものなのか?
すごいと思わせてくれた食事中の様子、
そして食後駅に向けてそぞろ歩くふたりの様子、
などを逐一鮮明な画像で余すことなく撮影してくれていた。
私は興信所に2人の出先での様子を頼んだものの、まさか……
駅までの途上でのキスシーンを見せられようとは夢にも思ってなくて、
身の内に思わぬ衝撃が走った。
彼女は可愛らしく夫の頬にキスを……少し驚いたみたいだったけれど
拒絶しない夫。
そして次にとった夫の行為に私は深く絶望させられた。
私の忠告、お願いは無視されただけでなく、決定打を彼は放っていた。
あきれた……
呆れた……
あなた、何が自分なんか相手にされないだよ!
そもそもやる気満々じゃない。
くっきりすっきり鮮明に写っている連射されたキスシーンの数十枚を
私は何度も何度も丹念に見た。
何度見ても私の見知らぬ女性とキスしている私のよく知る夫の顔、顔。
最低!!
ずるい人だ。
私と婚姻関係を結んだままこんなことをして。
夫の冬也は出張から帰った後も普段通りの彼だった。
興信所に頼んでいなければ、私は彼の不貞行為に気づかずに
いたことだろう。
見てしまったからには、もう知らなかった頃の自分に戻れるはずもなく
翌日から醒めた目で夫を見ている自分がいた。
最初は控えめに、出張に彼女を同伴することを極力辞めてほしいとお願いし、
その後も再度お願いという名の忠告をしたにも関わらず、
夫は止めるどころか真逆の行為をしていたのだ。
何かが 私 の中で炸裂した。
――― シャッターガラガラ、降ろしますぅ~ さよならっ―――
私の在宅仕事は静かでパソコンとちょっとした参考書などがあれば
どこででもできる類のモノなので、その週の土・日、すなわち
夫が休みで家にいる日に私は実家へ避難することに決めた。
夫への理由には、母の体調不良とでも言っておくつもり。
放っておけば、よけい不倫を助長させてしまうんじゃないか?
とも思うけれど、そんな心配は結婚生活を続けようとする人が
心配することだものね。
こんなんで続けられるか?
酷い裏切りに……今の私にはどうするかなんて何も考えられない。
ただただ今は、夫の側にいたくない、それだけ。
冬也、取り敢えず距離的に逃げれるだけ、私は逃げることにしたよ?
目の前にはいない、職場か出先にいるであろう夫へ向けて
私はそう決意表明をした。