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メフィストフェレス
いつの間にか雨は上がっていた。
今はまだ、なだらかな登り坂だ。志麻の足取りもしっかりしているのでお紺はホッとして口を開いた。
「そういえば志麻ちゃん、新しい技は完成したのかい?」
志麻は最初の狼との邂逅の後そんなことを言っていた。
「まだ、でもあと少し」
「ふ〜ん、難しいもんなんだねぇ」
「狼とそれに・・・」
志麻が前を行く登勢の背を見て口籠った。
「良いんですよ、気になさらないで・・・タマも志麻さんのお役に立てて喜んでると思います」
登勢が懐に入れて運んで来たタマの亡骸を優しく撫でた。
「ごめんね・・・私、狼とタマとの戦いで感覚は掴めたの、だからあともう少しで完成すると思う」
「良かった・・・」登勢がニッコリ微笑んだ。「あ、ここからは急な登りになりますから足元に気を付けて下さいね」
*******
宿の提灯の明かりを頼りに、山道を登って行く。
しかし、山道は崖崩れで寸断され、倒木が行く手を阻んでなかなか前に進めない。
出血で多量の血を失った志麻は躰に力が入らず呼吸ばかりが荒くなる。
三人が泥だらけになりながらも漸く山寺のある中腹まで辿り着いた頃は、眉のように細い月が真上に掛かっていた。
「頑張って、あと少しです、そこの小川の橋を渡れば・・・あっ!」
登勢が目の前の状況を見て息を呑んだ。
「橋が無い・・・」
ある筈の丸木橋が、降り続いた雨の所為で流されている。
「どうしよう」呆然と川の流れを見つめた。
いつもは歩いても渡れそうな流れが濁流と化している
「あそこに杉の木がある」
志麻が対岸を見て言った。確かに濁流に根を洗われながら一抱えもある杉の木が立っている。
「私があの木をこちら側に斬り倒す」
「無理よ志麻ちゃん!」お紺が目を瞠った。
「私、小さい頃、庭の柿の木を斬り倒して叱られた事があるの。まさか斬れるとは思ってなくて剣術の『型』通りに斬りつけたらあっさり斬れちゃった」
「え、柿の木を?」
「道場で先生に話したら、『型』とはそういうもんだと言われたわ」
「で、でも、斬れたとしてどうやってあそこまで行くの?」
「川の真ん中に大きな岩が突き出てるでしょう?あそこまで飛ぶ」
「何言ってんの牛若丸じゃあるまいし、失敗したら濁流に呑み込まれて一巻の終わりよ!」
「でも、やるしかないの。このまま西洋の妖怪をのさばらせておいたら、また同じことが起きるわ」
お紺は暫く呆れ顔で志麻を見ていたが、やがて諦めたように呟いた。
「どうせ言っても聞かないんでしょう・・・」
「ごめんねお紺さん、でも私、絶対に失敗しないから。私には鬼神丸がついてるもの」
志麻はお紺に頷くと濁流の際きわに立った。
「志麻さん気をつけて!」登勢が両手を組んで祈るように言った。
志麻は大きく五歩退がると、助走をつけて一気に岩へと飛んだ。志麻の躰は虚空に弧を描いて濁流のぶつかる大岩へと着地した。
お紺と登勢が固唾を呑んで見守っている。
あとは向こう岸に飛び移るだけだが、この岩の上では助走は出来ない。
『鬼神丸、お願い・・・』
志麻は腰の鬼神丸の柄を握った。
『飛ぶと同時に抜刀するから、前に走って』
・・・分かった
志麻は膝を曲げて腰を落とすと、岩を蹴って宙に舞う。
その瞬間、太刀風を起こして鬼神丸が飛び出した。
志麻の躰が前に引っ張られ、川石を蹴散らして着地した。
対岸に降り立った志麻は、振り返ってお紺と登勢に手を振った。
二人は安心したように手を振り返して来る。
「さて、後はこの木を斬り倒すだけ」
・・・手伝おうか?
「いい、あの時の体捌きが新しい技の完成に、とても重要な気がするの」
志麻は木の前に立って呼吸を整え目を閉じた。子供の頃の記憶を思い出す。
「奥伝・・・横一文字」
木の存在を忘れ、全ての想念を捨てて、ただ『型』通りに刀を抜くだけ・・・
やがてゆっくり目を開ける。
躰の力を抜き、フッと吐く息と同時に抜刀した。
志麻の躰が滑るように杉の木の横をすり抜ける。
なんの手応えも無かった。
失敗したかと振り返る。
「あっ・・・」
木はゆっくりと斜めになって行く。
やがて木のてっぺんが対岸に橋を架けるように倒れた。
滝のような水飛沫がお紺と登勢を濡らしたが、二人は手を取り合って飛び跳ねている。
「やったね、志麻ちゃん!」
「志麻さん、凄い!」
口々に志麻を褒める。
志麻は刀を鞘に納めた。
「二人とも、早くこっちに!」
お紺と登勢が倒木を伝ってこちら側へやって来た。
「あっ、血が!」登勢が志麻の肩口を指差した。
浅葱色の単ひとえの肩に、うっすらと血が滲んでいる。
さっきの一連の働きで傷が開いたようだ。
「あまり時間は無さそうね、急ぎましょう」
三人は土手に上がり、山寺へ向けて歩き出した。
山寺にたどり着いた時には、月が西の空に傾いていた。
「ここです」
登勢が山門前の一角を手で示した。雑草の蔓延はびこる中に、猫の横臥した形の石が佇んでいる。
「ここにタマを埋めてやろうと思います・・・」
登勢が懐からタマの亡骸を大事そうに取り出した。
「ソレハ、ワタシヲタオシテカラニナサイ」
聞き取りにくい日本語が聞こえた。
「何者!」志麻が誰何すいかした。
鬱蒼と繁った雑草を掻き分けて、真っ赤なマントを羽織った西洋人が現れた。
「オオカミモタマモシッパイシタヨウデスネ」
志麻はお紺と登勢を庇うように前に出る。
「お前がメフィストフェレスか!」
「ソウデス、ワタシガメフィストフェレス、マタノナヲ『ヒカリヲアイセザルモノ』」
「光を愛せざるもの?悪魔の名前に相応しいな」
「オホメニアズカリコウエイデス。デモ、アナタノイノチ、キョウデサイゴ」
「なに!」
「タマガハタセナカッタヤクソク、キッチリハタシテモライマス」
「タマは死んだ、約束もチャラだ」
「イイエ、タマノタマシイハワタシガアズカッテイル、タマノタマシイヲスクイタケレバ、ワタシヲタオスシカナイ」
「そのために来た!」
「ホウ、イサマシイニホンノオンナケンシヨ、ザンネンネ、アナタハワタシニハカテナイ」
「やってみなくちゃわからない!」
「フム、アナタヲタオセバ、ソノフタリノタマシイモワタシノモノ、イッセキサンチョウネ」
「そんな事、させない!」
「ソウ、セイゼイガンバルコトネ・・・コレイジョウハジカンノムダ、サッサトケッチャクヲツケマショウ」
メフィストがマントを脱ぎ捨てると、腰のサーベルがガチャリと音を立てた。
「ワタシモアクマノナカデハナノシレタケンシネ、コレデケッチャクヲツケル!」
右手でサーベルを引き抜き志麻の前に進み出た。
志麻が知っているサーベルと違って湾曲がある。日本刀より反りが深いのは片手で斬るのに適した形状だと言うことだろう。
「二人とも退がって!」
初めて戦う西洋の剣術に、志麻は攻防自在の正眼に構えを取った。
対するメフィストは、サーベルを右肩に担ぎ左足をズイと出して腰を落とす。
間合いはおよそ二間、まだ互いの剣は届かない・・・筈だった。
一瞬で間が詰まった、メフィストの躰が放たれた矢のように志麻に迫る。
ガッ!
二つの刃が絡まって火花を散らす。
躱す暇もなく力でサーベルを受け止めた志麻は、次の攻撃への対処が遅れた。
メフィストの前蹴りで、三間も吹っ飛んだのである。
腹を押さえて蹲る。
「志麻ちゃん!」
お紺の叫びも虚しく、無情のサーベルが志麻の頭に打ち下ろされた。
キン!
刹那、鬼神丸が跳ね上がってサーベルを撥ね返す。
メフィストは何が起こったか分からず、咄嗟に飛び退って間合いを切った。
志麻がゆっくりと立ち上がると、肩で息を吐きながら鬼神丸を構え直した。
「ソノカタナ、ナニモノデスカ?」
「・・・」
「アナタヨウジュツヲツカウカ?」
「私は妖術使いなどでは無い、この刀は妖刀鬼神丸、私の守刀だ」
「ヨウトウ、マモリガタナ?」
「いつも私を守ってくれる」
「ソウ・・・ダッタラワタシモテカゲンヌキネ」
不敵な笑みを浮かべたメフィストは、胸の前で剣を振り子のように振りはじめた。
やがて、手首を支点にして剣そのものを回し始める。
剣が起こす微風が、志麻の頬にも届いて、それは徐々に強くなって行った。
剣の回転が早くなった。
風はさらに勢いを増し、枯葉を舞上げ志麻の視界を塞ぐ。
「メフィストが・・・どこにいるか見えない」
・・・志麻落ち着いて、あれは妖術よ、メフィストを目で探そうとしないで
「で、でも敵の位置がわからないとどうしようもない」
・・・構えを解いて・・・躰から力を抜くのよ
「それじゃ敵の攻撃を受けてしまう」
・・・大丈夫、目を半眼に閉じてどこにも視点を定めないで・・・見えている所を全部均等に見るようにするの
「わ、分かったわ・・・やってみる」
志麻は剣をダラリと躰の横に下ろした。瞼を半分おろして視界全体を均一に観る。
枯れ葉が渦を巻いて視界を覆った。
「余計わからなくなったわ!」
・・・落ち着いて、心を無心に、さっき杉の木を斬った時みたいに
「う、うん」
志麻はもう一度目を半眼に閉じる。
舞っている枯葉の他は動くものは無い。
と、視界の右上に光るものが見えた。
その時にはもう志麻の躰は浮いていた、否、浮くという表現は適切ではない、両方の足の裏に紙一枚ぶんの隙間ができる感覚といったら分かりやすいだろうか。いずれにしろこの瞬間に志麻の新しい技は完成した。
剣を頭上に立てて光の下を潜っていた。
ギャァァァァァァ・・・!!!!!!
絶叫が上がった。
サーベルを握ったままの腕が腋の下から斬り離されて、ドサリと地面に落ちた。
ウウウ・・・・・・
メフィストが倒れて呻いている。
志麻は鬼神丸の切先をメフィストの鼻先に付けた。
「タマの魂を解放して、おとなしく故国へ帰るんだ」
メフィストが悔しそうに唇を噛んだ。
「ウウ、ワタシノマケデス・・・アナタナマエハ?」
「黒霧志麻・・・」
「シマ・・・ネ」
メフィストはヨロヨロと立ち上がり、落ちている右手を拾った。
「ワタシモヨーロッパノキシノハシクレ、イサギヨクタチサルネ」
脱ぎ捨てたマントを羽織って、猫石の上に立った。
「シマ、ワタシガサッタラ、コノウエニタマヲオキナサイ」
そう言うとメフィストはマントを翻した。
猫石の上から忽然とメフィストの姿が消えた。
グッバイ・・・と言う声だけが、風に乗って聞こえて来た。
「志麻ちゃん!」
「志麻さん!」
二人が志麻に駆け寄った。
「あんた、西洋の妖怪に勝ったんだよ、凄い!」
「良かった・・・本当に良かった・・・」登勢が洟水を啜る。
「それよりタマを猫石の上に・・・」
志麻が促すと、登勢が大事に抱えていたタマの骸をそっと猫石の上に置いた。
暫くはなんの変化も起きなかった。
「あいつ、嘘を吐いたんじゃないだろうね、だから妖怪の言うことなんか・・・」
「あっ!」
「ん?どうしたお登勢ちゃん?」
「今、タマが動いた!」
「え、どこどこ・・・なんだ、動いてないじゃないか、気のせいだろ?」
「いいえ、確かに・・・」
タマの尻尾がピクリと動く。
「あっ、動いた!」お紺が目を瞠る。
ビャァ・・・
嗄れた声でタマが鳴いた。
「タマぁぁぁぁ!」
飛びつくようにして登勢がタマをヒシと抱きしめる。
「ほ、本当に生き返った!もう絶対に離さないからね!」
タマは甘えるように何度も登勢の胸の中で鳴き声を上げた。
「良かった・・・」声が途切れる。
「志麻ちゃん!志麻ちゃん!どうしたの!志麻ちゃん!」
志麻はドタリと仰向けに倒れて動かなくなった。
「ど、どうしよう志麻ちゃんが死んじゃったぁ!」
お紺が動転して慌てている。
タマが登勢の腕から飛び降りて志麻の顔を舐めた。
ブルっと志麻が身慄いをする。
「お紺さん、寝息が聞こえます」
登勢が志麻の口元に耳を寄せて言った。
「え・・・?」
お紺がホッと息を吐く。
「あぁ、吃驚した!そりゃ疲れるさねぇ、昨日から戦いっぱなしなんだから・・・」
「暫く寝かせといてあげましょう」
「うん」
いつの間にか月は太陽と入れ替わり、雑草だらけの山門前を東雲色に染めていた。