翌朝、学校へ行く前に典晶は、スマホを手に縁側に立っていた。庭先には紋白蝶を追いかけるイナリがいた。低い垣根の向こうには小道があり、さらにその向こうには夜叉ヶ池が見えた。
耳に当てた携帯から、コールが聞こえる。
「………」
一回、二回、三回……。コール音は続く。
典晶は落ち着きなく縁側を行ったり来たりする。
何度かコールが鳴り響いたとき、電話が取られた。
「あの」
言葉を言いかけた典晶だったが、その言葉を遮るように女性の電子音声が続いた。
留守番電話サービスだった。典晶は落胆して通話終了ボタンを押そうとした。
『もしもし……?』
スマホから気怠そうな声が聞こえてきた。
「那由多さんですか? 俺です、典晶です」
数秒後の間。電話の相手、那由多は「ん?」と不機嫌そうな声を出した。寝起きなのだろうか、電話の向こうから聞こえる声は半分微睡んでいるようだった。
「すいません、まだ寝ていましたか?」
『………ああ、典晶君か。いや、大丈夫だよ』
「そろそろ学校に行く時間だったので、もう起きていると思っていました」
『早起きだな、君は』
ようやく那由多の声がハッキリしてきた。
典晶は腕時計を見るが、時計の針は八時を指そうとしている。那由多の行っている高校は始業の時間が遅いのだろうか。
「いえ、もう八時ですけど」
『………へ?』
再び沈黙。きっかり十秒後、那由多の叫び声がスマホから響き渡った。
『ヤバイ! 遅刻だ! ヤバイよヤバイよ! ハロ! どうして起こしてくれなかったんだよ!』
『もう、お兄ちゃんってば! 私だって朝は忙しいのよ!』
『だからって、起こす事ぐらいできるだろう! 隣の部屋にいるんだからさ!』
『那由多! 高校生なんだから、もう一人で起きなさい!』
けたたましい音が聞こえてくる。なんだか、黛家の朝の一場面を垣間見た気がした。那由多の声の中に、ハロが登場した。だが、帰ってきた声は、『お兄ちゃん』と那由多のことを呼んでいた。あのハロと、那由多の呼んでいたハロとは別人なのだろうか。
暫く那由多の独り言を聞いていたが、程なくして息を切らした那由多が電話口に戻ってきた。
『ああ、ゴメンゴメン。朝はいつもこんな調子なんだよ。朝一で俺に電話してくるって事は、やっぱり何か問題があったのかな?』
ドタバタと足音が響き渡り、『行ってきます!』と声が響き渡る。
「いえ、そういうわけじゃないんですが……。やはり、凶霊を避けて通ることはできないと思いまして……」
『宝魂石集めをしている上に、学校に凶霊がいるんだからな。無理もないか』
那由多の声が少し沈み込む。
『生徒達に影響は出ているのか?』
声音が変わった。
「黒井真琴のいたクラスに在籍している生徒達は、何人か登校拒否になったりしているみたいです。今はそれで済んでいますけど、次はどうなるか……」
溜息をつきながら、典晶は縁側を意味も無く歩き続ける。
『そうか……。え? ちょっと待てよ、典晶君から電話なんだよ……』
声が小さくなる。遠いところで、「おはよう、典晶君!」と明るい女性の声が聞こえる。やはり、声の主はハロだ。
「ハロさんがいるんですか?」
『ああ、そうなんだよ。こっちの世界じゃ、コイツ、俺の妹って事になっていて……。まあ、色々と複雑な理由があるんだけどさ。凶霊の話に戻るけど、典晶君は彼を救いたいのか?』
「できることなら、ですけど。俺、宝魂石を集め初めて、幽霊は悲しい人たちのなれの果てなんだなって、よく分かったんです」
『救いたい気持ちはよく分かるけど、救えない幽霊だっている。それが凶霊だ。………土曜日かな。そこなら、何とか時間が作れそうだ。学校には忍び込める?』
「え? 来てくれるんですか?」
『だって、その為に俺に電話してきたんだろう?』
那由多の声は笑っていた。
「何とかなりますか?」
『ああ、大丈夫。何とかできると思うよ』
「ありがとう御座います」
典晶はホッと息をつくと、縁側に腰を下ろした。
鮮烈な夏の朝日を受けて、銀色に輝くイナリがピョンッとジャンプして紋白蝶をぱくっと咥えた。
「ああ! バカ! イナリ!」
今度は典晶が叫ぶ番だった。イナリは紋白蝶をモグモグと咀嚼すると、こちらを振り返り一目散に逃げてった。
「おい!」
腰を浮かした典晶。『お~い、どうした?』と那由多の声が聞こえてくる。
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