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落ちた内臓を口に入れてみて、男はまずいとこぼした。人間も動物なのだからてっきりそこそこの味かと思いきや、そうではないらしかった。男は屍の山から上体を起こして、内臓を吐き出した。唾液混じりの水分が含まれたそれがべちゃ、と音を立てる。
男の容姿はうつくしい、とのくだらない五音でしか表せれない。滅多にないような左右で色の違う玉が眼孔にはめ込まれていたし、白蝶貝の粉をまぶしたようなきめ細かく、日焼けを知らない肌を持っていた。テーブルなんかに肘をついてみて、口角を不気味すぎない程度にあげて、相手のことを上目遣いで見やって、お願いを口に出せばいとも容易く叶えてもらえるほどに。
「社長」
髪の長さがばらばらな男がつぶやくようにして言った。いちばん後ろ髪の短いところで胸のあたりだろうか。切りそろえる気はまだ、ないらしい。彼は切っ先が丸い剣に着いた血を振り払い、鞘に収める。一度きりしか使えない剣を何度も、何度も使っているのが見て取れる。
「そろそろ慣れてもらわなくては」
社長と呼ばれた男が死体の山からゆっくりと降りる。投獄により痩せこけた死体の骨が一歩、一歩と降りるたび音を鳴らした。
「せっかくのお気に入りなんだ。なにをしても、壊れないままでいるように」
剣の収められた鞘を持つ男を抱き寄せて、そう言ってやった。男の本心からくる言葉ではなかった。もしも地獄が存在していたのなら、今の言葉で舌を抜かれていただろう。ああ、実に愚かで仕方がないことだ。この男の幼いとも大人びたとも言い難い、もしくは両方のよい所だけをもって作られたかんばせを傷付けることができようか!
「……はい」
凝り固まっていた男の顔が、撫でてやる事にほんのわずかに紅潮する。銀色の瞳が一瞬目を合わせ、そしてすぐに横に伏せられる。
ごくん、と唾液を喉へ追いやる音が聞こえた。
───
二重の窓から銀の世界を少年は眺めている。身体に見合わない小ささの薄い毛布を肩にかけて、どうにもならない寒さを凌いでいた。
少年は一日前、いや二日前?にいた病室の暖かさを懐かしんだ。人口縮小法──一般層の病気や疾患の治療を、極度に制限する法案。医者によくここまで生きていたものだ、と驚かれるほどに病巣へと成り果て、真綿で首を絞められるように柔らかな、確実に死へと向かう痛みを打ち消す方法はない。
母親の癇癪で切られ、ひと束のみ残った黒く長い髪が肩から落ちる。そうだ、少年は母親に無理やり家へと連れ帰られたのだ。病院になんていたら家庭に一切関心のない、そして帰ってこない医者の父のようになると癇癪を起こされた。静止する声にお世話になりました、と軽く感謝をして、酷く痛む胸を抑えながらエンジンがかかった車へと乗り込んだのを覚えている。
何も体が震えるのは寒さだけではなかった。視線から感じる、「お前はもうすぐしぬんだぞ」の言葉。死んだら、どうなる?永久歯が音を鳴らす。少年の医者か看護師になる夢は、どうなる?
「死にたくない」
口からいつの間にか零れていた。生存本能。人として備え付けられたそれが、高波を打つ心臓の拍動と共に強まる。
ふと、視界の端になにかが見えた。
「不潔な臭いがするな」
その容貌と声のとても似つかないなにかが少年のベッドのシーツを摘む。
「だっ……だれ……」
「ハイドレンジア。リンドブルムやミドルネームのバクテリウムはつけなくてもいい。少し前に会社を立ち上げた。これで十分?」
それは少年を一瞥してから、綺麗な桜色の爪の先を退屈そうに眺めていた。
「お前が目についてな。せっかくだから死なないようにしてやろうかと」
「目につくって……誰もいなかったはずだけど」
死なない、という言葉に反応したのか頭まで被っていたブランケットを外して、彼はこの奇妙な男を見やった。その反応を待ちくたびれていたと言わんばかりにハイドレンジアは微笑む。
「俺の手をとればの話だが」
彼は少年に左手を差し出す──ためらいもなく少年はその手をとって見せた。黒革のグローブがぎゅう、と音を立てて握られる。
「契約成立だ」
入社おめでとう、と社交辞令のように何の抑揚の持たぬ声で囁く。
「社員がもうひとりもいないんだ。お前には、すこし高い地位を与えてやってもいい」
「ひとりもいないって……あの、僕……そこまで頭は回らないし……」
すっかり立ち上がり、外から鍵のかけられたドアノブを回そうとするハイドレンジアがぴたりと止まる。使えなかったら捨てるだけと笑う。
「……それ、鍵がかかってて」
「わかっている。木製だな」
その痩軀と棒のような長い脚のどこにその力があるのか、回し蹴りを繰り出すと廊下の壁が見えた。埃が舞い、少年が軽く咳き込みながらあわててブランケットで鼻や口を覆う。その様子を見て、ハイドレンジアは彼の手を引っ張り部屋の外へと連れ出す。
締め切られた少年の部屋と違って、暖炉でもついているのかいくらか肌寒くはない。男は壁を背にして座り込む、咳嗽の中にある少年の頭を撫でてやった。
数十秒としないうちに治まってきたので、背を押してやりながらふたりはリビングへ向かってみる。
「豪華な屋敷だ。俺の白痴の血族には劣るがな」
「うん……」
きちんと防寒されているのか、何層かの窓から覗いた銀世界があろうと寒さは感じられない。暖かさで眠くなってきたのか、少年がふらつき始めたので彼らはソファに座る。ポンプを音楽に熱帯魚の踊る水槽を見て、男はふと思い立ったように立ち上がり、近くにあった電気ポットをコンセントに繋いだまま吹奏の中へと放り込む。嫌な臭いと音がして、本日の公演は閉幕ですと言わんばかりに水面へ浮き始めた生き物を見た。興味深そうにその様子を眺め、それらが死んで飽きたのかまた少年の元へと戻る。
「世間知らずのお前は知らないと思うが、今起きている戦いは均衡を崩している……戦争で負けた者、特に宣戦布告した張本人はどうなると思う?」
人差し指をピンと立ててハイドレンジアは顔を向けると、寝息が聞こえるのにため息をついた。そういえば、この少年の名前を聞いていない。起きた後に聞けばいい。
男もひとつ、あくびをしてからその双眼を閉じた。
───
起きろ、という言葉で目が覚める。天井の照明を睨みながら少年は目を覚ますと、どこから引っ張り出してきたのか、厚手のコートやら防寒具が床に放り投げられているのが目につく。
「……これは」
「お前を連れて帰らねばならないからな」
そう言いながら男は葉巻の煙を吐き出す。その臭いに眉間にシワが寄る。なにか植物の香ばしいもの、オイルライターを使ったのか少しの油と、むせかえるような濃い鉄。いや、この鉄臭いのは別のところから漂っているはずだ。記憶では玄関の方の扉を開けると、ひゅうと息が詰まる。
「可哀想に」
葉巻を踏みつけて潰し、少年の両肩に手を置いた男は左耳に囁いた。
「寝ている間にレギオンが来て、お前の両親ふたりとも殺されてしまった」
嘲笑、まるで快楽殺人鬼が家に帰ってきた子どもを殺す前に、ハローと気さくなあいさつをするような声色であった。
「さぁ、さいごのお別れをしよう。一生に一度しか見れない死に顔だ」
男はくすくすと笑いながら少年を突き飛ばす。身体がよろめいて、酸化しかけの血液の海がもう直前だ。刃物でつけたような大量の傷痕から脂肪と骨が覗いていた。遺体の首は逆方向へと折られていて、まるで介錯をつけたような。
「ちが、こんなの、父さんと母さんじゃない」
「なぜ?ほら、ここに名が刻まれているだろう」
生物であった肉塊の手からお揃いの指輪を手に取って見せる。死体が邪魔だったのか男は足で壁にふたつを寄せると、へたり込んでいる少年の手にしっかりと金色の指輪を握らせた。内側に刻まれたもののスペルを何度も見て、やがて間違いでないとわかるとふるふると震え始める。男は汚すなよと声をかけてから、少年に抱擁を交わしてやった。背中を拍動より少し遅く叩く。しゃくりあげる音や鼻をすする音が何十分も続いたのち、少年も男に抱きつく。何度も擦った目は充血していて、それがまだ続こうとするので男は痺れを切らして少年を抱き上げる。リビングのソファに座らせてやって、コートやブーツを着つけた。
「まだ泣き止まないのか」
深くため息をつきながら自身の身支度を済ませる。
「歩けるか」
少年が首を横に何度も振ったので横抱きで抱えた。男の肋が浮いた硬い胸に頭を預けてくる。顔を上に向かせてやって、ハイドレンジアはその頬にいくつか触れるだけの口付けを落とした。
玄関の粘度の高い池を白いヒールが踏んだ。マットで底についたものを拭うと、鍵のかかっていない出入口に手をかける。
新たに降り積もった雪を踏みしめ、男は振り返る。
「……化け物、か」
この少年の両親と対峙した際に言われた言葉を今思い返した。懐のジッポライターを取り出し、火をつける。そのまま屋敷の方へ放り投げると、通行人が遠くから来ているのに気づく。影すら見られないよう少し駆け足に市街地を抜けることにする。
雪国でのキャンプファイヤーが見られないことが残念だった。
───
身体に降りかかり、落とせなかった雪が列車内の室温に溶け始める。揺れの衝撃と共に時々蛍光灯がきれて、また灯った。
ハイドレンジアは街中で貰ったチョコレートを口に入れる。ひどく甘い味がして、隣のまだ鼻をすすっている、そして切符の買い方さえも知らない少年の顔を掴む。もう片方の手で口を開けさせると、互いの唇と唇を合わせて口内にある溶けかけたチョコレートを唾液ごと少年の口腔内へと流し込んだ。
「……!?」
「飲み込め。俺の口には合わなかった」
わけのわからない状況に困惑する少年を上に向かせたままにしていると、やがてごくんと音を立てて飲み込まれたのを確認して、手を離し、ハイドレンジアは自身の唇を舌で拭う。チョコレートの箱を少年の膝に置いてから、どうせ寝れるわけもないのにまた目を閉じてみた。薄く目を開けて少年を見やると、甘味のいくつかに手を伸ばしたようで、機嫌がいいのか足をぱたぱたさせている。体温で指についたものを少年が舌で舐めようとした時、ハイドレンジアは少年の頭を下げさせながらも屈んだ。途端に、破裂音が聞こえる。
「伏せていろ」
鼻をスンスンと鳴らしながら火薬の臭いを感じ取る。彫刻が施されたリボルバーをベルトから抜き取り、少年のコートの衣嚢へ入れた。
「な、なにが……」
「俺を追う連中のひとりだ。近くに来るだろう」
革靴の音がひとつ、ふたつ、みっつと鳴り響く。連結された扉の荒いすりガラスに影が映る。大きなスーツケースを片手に、紳士服を着た男と子供の銀色の視線がぶつかり合い、銃口が即座に向けられる。終わりだと言わんばかりに破裂音をもって弾丸が繰り出されると、狭い車両内で蛇行して弾を避けようとするハイドレンジアの腕を掠めた。片方の瞳と同じ紅い血が流れていることから、彼は人間ではあるらしい。逃げる選択はないのか男の懐へ彼は勢いよく飛び込むと、篭手へ仕込まれている隠し刃を展開させる。彼を狙っている連中だけあって、相当な手練れらしく鳩尾を狙った突きは見事にかわされ、仕込み刃のほうの腕が封じられると投げ飛ばされた。進行方向やハイドレンジアの体重が軽かったのも相まって、向こうの連結部の扉に身体が打ち付けられる。ガラスは衝撃に耐えられず粉々に砕け散り、彼もまたその衝撃でかは、と息を漏らした。男のリロードの間に自身の服や髪に散ったガラスを振り払う様子もなく、彼は吹雪の吹き込む外──車両の上へと移動する。
「どの家からの刺客だ」
「教えても意味はないだろう。いまからでも降伏すればまた、初代の生まれ変わりとして迎え入れてやると血族のかたがたはおっしゃっている……」
激しい吹雪の中にいる標的を見つけようと男は目をこらす。
「まあ、うみ腐っていて、つまらない勧誘だこと!」
──後ろ。槍先が肩を狙っていたのをなんとかいなすが、痺れが残る。奇妙なことにハルバードを手にしているそれから流れる血は見当たらない。ひとつ発砲するが斧の面が弾丸をたたき落とす。ならば、と距離を取ろうとせず接近戦を試みて、軍用のナイフを振り上げる。接近戦では、銃よりナイフの方が早いのだ。ぎりりと音を鳴らして両者の腕が震えた。互いに別車両へと飛び退き、次の攻撃のタイミングを伺い合う。車両が揺れる。吹雪が弱まり、影が確認できたと同時に彼らは武器と姿勢を構えた。
───
列車の床へ落ちたチョコレートを拾い集めては口へ運ぶ。ハイドレンジアを狙っている男は少年に手は下さず、一瞥してから心配性なのかリロードを終えると、足早に去ってしまったようで。泥がついて少し生臭いホワイトチョコレートを口腔内へ放り込むと、コートの裾で手を払ってから、ポケットの中の重たいリボルバーに触れる。冷たく無機質な金属だ。何個か先の車両が大きく揺れたので、怯えながらもそちらの方へと歩いてみることにした。少年なりに音を立てず、身を隠しながら車両を次々に移動する。床板のきしむ音に飛びのいて頭と身体を座席や壁にぶつけたり、ねずみに静かにして、とジェスチャーを送ったりしながらも最も怪しいと感じる車両へようやくたどり着く。扉のガラスは割られており、揺れと共に破片が線路へと落ちていく。
彼は目を見開いたあと、即座に姿勢を低くする。この吹雪の中でなかったら意味がないほどの行為だが。
さて、ハイドレンジアが明らかに劣勢な形となり取っ組み合いへ移行しており、コルセットで締められた腹部には軍用のナイフが突き刺さっていた形跡が見られる。腹部を貫いた刃が刺さらぬように、これ以上裂傷からの出血をしないように力加減をしながら顔に突き刺さるすんでのところで止めている。ハイドレンジアに馬乗りになった刺客が一斉に力を込めたのか彼の手をほどき、頭へ振り下ろす瞬間に少年はリボルバーを抜く。銃本体とは相まって、引き金は呆気なく落ちる。
「……おや」
途端に手からナイフを床に落とし、頭から血を流しながらぐったりとした男を蹴ってどかすと、少しおぼつかない足取りで彼は立ち上がる。ぼた、ぼた、とシャツへ口から垂れる血を拭うと、少年を手招きした。重い反動に不快感を示しながら近づくと、頭を撫でられる。
「今回ばかりは助かったよ」
「……あの、き、傷……」
「もうじき塞がる」
座席へ倒れるようにして座ったハイドレンジアの後に続くように、少年も座る。拳銃を受け取られてから子どもはしきりに自分の手と目の前の遺体を見るものだから、彼は口を開いた。
「そんなに怖いか」
ゆっくり頷かれると、酸化した血液の付着した手のひらがほとんどおろしたてのコートに触れ、肩を抱き寄せる。
「俺を守るというしかたのない口実で殺めたのだから、どうだっていい。そう思えばいいのさ」
慰めにでもなると思っているのか少年の顎をクイッと向かせ、頬にキスを残す。死後硬直の最中にある遺体を眺めて、もうすぐで終点だということを察した。
「そういえば、あのまずいチョコレートは。床に落ちていたが」
「ええと……全部、食べたけど……」
「汚い」
終点を知らせるアナウンスが響くと、乗り込み口が開いていく。駅のホームへ降りてからハイドレンジアは数回手を叩くと、傍から生えてきた肉々しくうごめく触手がかつて人間だったものを掴み、また牙の並んだ口らしき器官に放り込まれ、咀嚼される。いくつかの触手が床の血液を丁寧にぬぐい取るのを見届けてから、彼らはさらなる目的地へと歩いていく。
───
この方舟の中であまりにも贅沢なバロック様式の屋敷はハイドレンジアの親族が彼への寵愛がすぎるがあまり贈られたものらしい。屋敷、というより規模が少し小さな城といったところか。中に入ってみると、エントランスこそシャンデリアや紅いカーペットは敷かれているが、廊下の道は外装とは相まった現代的な雰囲気を感じさせる。
「あらためて、我が社へようこそ。事務室へ案内しよう」
子どもの帽子を外しながら彼は薄暗い蛍光灯と下にある廊下に歩いていく。慌てて追ってみて、その最中に死体安置所と書かれた看板が目に入る。
「死体を一時的に保管する場所だ」
足音が止んだことに違和感を覚えたのか、ハイドレンジアはそう教えた。土葬はしない、と思い出したかのように言うと少年の手を引いて明滅する看板のもとへ連れ出す。それぞれにタグがついた鍵束を取り出すと、数秒待ったあとに扉は解錠される。シンプルなデスクの上にはほこりが薄く積もっていて、ここに座る人はどこかにいってしまったのだろうと思う。
触手が一枚の紙や古書をもって天井から伸びると、ぱし、と音を立てて掴まれる。
「カーネリアン、か」
座面が青いオフィス用の椅子を引き出して、彼は隣に子どもを座らせた。なにもかも簡略化されて一枚になった住民票にはカーネリアン・モロゾフとの記載がされている。当の本人は地面をブーツで蹴って、ゆっくりとチェアの回転を楽しんでいる。回転を止めてもう一度子どもの名を口にしてみたが、首をかしげるばかりで退屈そうにしている。ハイドレンジアは古めかしい、だがそれ以上表紙も傷つくことのないだろう本に似たなにかに目をやって、それがひとりでにぱらぱらとページをめくったり巻き戻されるのを眺めていたが、思い出したかのように目を瞑ると、呟いた。
「グヴォーツィカ」
頬杖をついて左手の小指だけをぴんと立てて差し出す。二度と持ち主の手の中に収まることのないだろうボールペンを興味深そうにかちかちと鳴らしていた少年が差し出された手に気づいたのか、目線をやるとハイドレンジアのもう片方の手で同じような手の形にされる。
「指切りげんまん、だ」
互いの小指と小指が組み合わさって、窓は締め切られているはずなのに髪や壁のポスターが揺られた。その揺れが収まり、手をほどくとハイドレンジアはすかさず住民票に三二三二年、五月十三日死去と表記する。少年が覗き込んでみているので、いままでのお前は死んだんだよと告げた。
「これからはグヴォーツィカと名乗るといい」
「……?」
「俺が俺のことをハイドレンジア、といったろう。それと同じだ。……ああ、なんでこの名前になったか気になるのか?この力の源が示した名だから、でワケはお気に入りに入るかな」
彼がまた手を数回叩くと、ひとつカードが差し出され、カーネリアンあらためグヴォーツィカに手渡される。社員番号と名と会社の名くらいしか刻まれていない粗末なプラスチック製だろうカードを受け取って、ポケットへしまい込んだ。
───
グヴォーツィカは剣を構えて戦場に降り立っていた。戦場、とは言えども後ろの方なのだから、他にあまり生き物の気配は感じられない。普通の刀剣とは違い先の丸い刃は扱いにくい。ハイドレンジアの父親の首を斬り落としたことのあるその剣は一度きりしか使うことのない代物らしいが、資源が不足しているし、なにより自分を救ってくれたあの人から贈られたものなので、捨てるに捨てきれなかった。
いま戦っているものはUterus社、ということを教えてもらった。彼らが生物兵器である毒ガスを使ったせいなのか、顔や喉にぴりぴりとした焼けるような痛みを感じる。
彼はでっぷりと肥えたハエが飛び交う、人間まみれの地面にはいつくばっている味方の社員を見てみた。低いうなり声が聞こえたので、あわてて駆け寄るが、明らかに助かる外傷ではなかった。内臓もおそらく、機能しているかどうか。
「ごめん」
ひと声かけると、その兵士はどこからその体力がくるのか無い四肢をうごめかせ喚く。彼自身にも身体能力のテコ入れがされているとはいえ、押さえつけるのには一苦労する。ポーチから鎮痛剤入の注射器を取り出すと、薬効が早く回るだろう首筋へ針を突き刺す。整理整頓は苦手なので薬やあまり落としたくないものが泥だらけの地に落ちる。急激な薬効で暴れるのをやめた隙に剣を構え、そして振り下ろす。首と別れた頭と目があって、肩が震えた。慈悲や誰かを守るためとどれだけ理由をつけたとしても、人を殺すのはいい気分ではないのだろう。薄くも刻まれた隅からは罪悪感を示している。ただ、それは今日は帰ってあの人と眠れるのだろうか、いっしょにいられるのだろうかなんて考えてしまう自己への嫌悪からくるものなのかもしれない。
グヴォーツィカは介錯のために散らばった荷物をベルトから下げているポーチに入れる。古めかしい、煮沸消毒をして繰り返し使えると文献で見たことのある奇妙な注射器はプレゼントであるし、もしもの時のサプライズなので忘れてはならない。血液のような液体が中を満たしている。数回使ったことはあるが、中身がなくならないのは自然と補充されているからなんだとか。この方舟の外にはびこるレギオンからは形状こそ違うが、このような特異性のあるものが作れるらしい。作るためにはレギオンを必ず動けない状態にしてから、と聞くが“コレ”の場合はワケが違って、元となったレギオンはグヴォーツィカの主人となった男──ハイドレンジアのもとへ自ら来て、そして彼の糧となり、こんな無機質なものになることを選んだ、と聞かされた。実際レギオンに遭遇したことはあるが、おとぎ話のようにありえない話だ。一秒でも油断すれば次には腸がこぼれ落ちているほどの凶暴性をもつそれが、どうやって不死性を捨て、実質的な死を選ぶ選択を取るのか。いずれ彼はその理由を嫌でも知るだろう。
途方もなく歩いていると、山積みになった遺体が目に入る。その上には骸の醜さとは真逆の男が座っていて、思わず息をのむ。
「社長」
剣に付着した血液を払って、鞘に収める。彼は積雪のように積もりに積もって死体の丘となったそこからゆっくりと降りると、うつむいたままのグヴォーツィカの元へと向かってくる。安っぽい言葉ばかり吐かれていても、どうしてもこの心臓は止まるのを知るどころか高く脈を打ってしまう。目の前のうつくしい男は青年がほしいと感じてしまう言の葉や行動をつらつらと並べる。お気に入り。大切なもの。ハグ、頭を撫でる、話を聞いてくれる、そばにいてくれる。
そんな行為を繰り返されるたび、骨ばった左手の薬指に、生きているかぎり指輪がはめられることなんてなければいいななんて思ってしまうのだ。
コメント
1件
読み終えました……すごく重くて、でも綺麗な世界観だなって思いました。死体の山に座るハイドレンジアの美しさとグヴォーツィカの幼さが印象的で、最初のチョコレートの口移しのシーン、心臓がドキッとしました。指切りの約束も、契約なのにどこか優しくてずるいです。これからどうなっていくのか気になるし、グヴォーツィカがもっと苦しむのかな……でも見届けたいです。続き、楽しみにしてます🌙