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木の器に注がれたスープは、白い湯気をゆらゆらと立ち上らせていた。
匙を受け取ると、私は小さく息を吐き、そっと口に運んだ。
「…あったかい」
舌に広がるのは素朴な塩気と、野菜のやさしい甘み。荒れ果てた空腹がどんどん満たされていく。
私は匙を握る手が止まらずにもう一度口に運んだ。温かなスープの温もりが私の味覚を誘う。
「美味しい?」
リオが身を乗り出して尋ねる。
「……うん!すごく」
その答えに、少年はぱっと笑顔を咲かせた。 その笑みは、森の中の光そのものみたいに澄んでいて、思わず胸が痛む。どうしてこんなに懐かしく感じるのだろう。
一方で、青年は黙ったまま腕を組み、私を観察するようにじっと見ていた。
敵意ではない。ただ、慎重に測るような眼差し。
「記憶がない……それが本当なら、すぐに追い出すわけにもいかないな」
低い声が落ちてくる。
「だが、ここで暮らすなら嘘は許さない。いいな」
私は匙を置き、小さく頷いた。
「……ありがとう。迷惑をかけて、ごめんなさい」
彼は短く鼻を鳴らしただけだったが、リオが楽しげに口を挟む。
「ねえねえ、じゃあお姉ちゃんの名前は僕がつけてあげる! いいでしょ兄ちゃん!」
「勝手なことを……」と呟く兄をよそに、リオは瞳をきらきらさせながらこちらを見つめた。
――記憶のない私に、新しい名前。 心細さの奥に、不思議な期待が芽生えていく。
この小さな家で、私は何を見つけるのだろう。
何を思い出すのだろう。
リオは小さな顎に手を当てて考え込む仕草をした。
「えっとね……森で見つけたから、“モリ”ってどう?うーん、でもちょっと普通かな」
「……ふふっ、」私は思わず笑ってしまう。
その様子があまりに真剣で、怖さや不安がほんの少し和らいでいく。
「じゃあね、髪が白くて光みたいだから……“シラユキ”!」
「おいリオ、それはおとぎ話だろう」 青年が苦笑する。
「えー、じゃあ……あっ!」
リオの瞳がぱっと輝いた。
「“ルナ”はどう? 夜のお月さまみたいにきれいな髪をしてるから!」
ルナ――。
その音を聞いた瞬間、胸の奥に光が入るような感覚になった。
懐かしいような、でも初めて触れるような響き。まるで心のどこかに眠っていたものが呼び覚まされるように。
「……ルナ」
私は小さく繰り返した。口にした途端、その名前が自分にぴたりと馴染んでいくのを感じた。まるで、空白だった大きなピースに何か一つ、埋まったかのように…
「うん!気に入った?」
リオが不安げにのぞきこむ。
私は微笑んで頷いた。
「うん。ルナ……私の名前、そう呼んでほしい」
リオはぱっと笑顔を咲かせ、兄の方を振り返る。
「兄ちゃん! 決まりだよ! このお姉ちゃんは“ルナ”!」
青年は一瞬だけ黙り込み、やがて諦めたように肩を落とした。
「……好きにしろ。ただし“ルナ”。名を得たなら、それを大事にしろよ」
その言葉は妙に胸に響いた。 名前を持つ、それだけで自分の存在が認められる。もう、空白の存在ではなくなったのだ。
――私は、ルナ。
新しい私の物語が、静かに始まった。