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言葉に詰まるほどの緊張感。
もしくは、絶対的強者から放たれる圧迫感か。
眩い朝陽が降り注ぐ中、少年と魔女が向かい合って立っている。
森に囲まれたここは秘密の集落だ。魔女が身を寄せるための村落ながらも、実際には魔眼を持たない者も少なくはない。
なぜなら、魔女の子供はただの人間だからだ。
正しくは、魔眼が遺伝しない。
確率で言えばゼロではない。むしろ、イダンリネア王国と比較すると高いとさえ断言出来る。
それでも、生まれてくる赤ん坊達はその多くがただの人間であり、魔眼所有者の方が希少だ。
ゆえに、これから始まる模擬戦のギャラリーは、その半分以上が単なる人間に他ならない。
「ハクアさんが招集したんですか?」
声の主はウイル・エヴィ。
今まさに殴り合おうとしているのだが、賑わう外野について問わずにはいられなかった。
殺し合いではないのだから、革鎧は身に着けているものの、武器の類は所持していない。
陽射しを受け、灰色の短髪が銀色に輝く一方、対戦相手の赤い髪はそれ以上に神々しい。
地面に届きそうなほどには長く、その色艶は赤い花さえ霞むほどだ。
今日は白衣を着ておらず、黒一色の上下で大人らしさを演出している。
「ここは里の端っことは言え、遠目からでも丸見えだもの。誰かが気づけば、後は芋ずるよ」
ハクアは冷静だ。
この地の長だからか。
千年を生きる長寿だからか。
もしくは、この状況に慣れているからか。
何にせよ、周囲を同胞達に囲まれたところで怯むつもりなどない。
「おにいちゃん、がんばてー」
黄色い声援はパオラだ。
今日の髪型はシンプルなポニーテール。瑠璃色の長髪が綺麗に束ねられ、尻尾のように踊っている。
灰色のワンピースも揺らしながら、慕うウイルを応援中だ。
少女の隣には真っ白な本が浮いており、辞書のように分厚いものの、表紙と同様に中のページは全て白紙だ。
本来ならば観客はこの二人だけのはずだった。
しかし、野次馬が興味本位で集ってしまったのだから、これから始まる手合わせは娯楽に成り下がってしまう。
そうであろうと、ウイルとハクアが戦うことには変わりない。
真っ青な空を見上げながら、そして綿菓子のような塊を眺めながら、少年は小さく息を吐く。
「朝っぱらから手合わせ頂いて、ありがとうございます」
「先ずはあんたの本気を見せて頂戴。一応、把握してるつもりではいるのだけど、兎にも角にも弱すぎて、イメージがぶれちゃうのよね」
挑発じみた発言だが、彼女の本心そのものだ。
ウイルを侮ってはいない。
そもそも、そのような思考自体が無駄だ。
身構える必要もなければ、本気を出す必要すらない。
その証拠に、これから戦うにも関わらず、ハクアは自然体のまま直立を維持している。
正しくは、左足へわずかに重心をずらしており、左手は気怠そうに腰へ添えられたまま。
見下すような視線を向けながら、さっさと来いと促した以上、後は少年の動向を見守るしかない。
「それじゃ、お言葉に甘えて……」
「小細工なんかいらないから、本気で殴って来なさい。フェイントとか緩急とか、そういう小細工はいらないから。私も真正面から受け止めてあげる」
「わかりました。行きます!」
戦いと言うよりは身体測定か。
修行一日目。
一年間の初日。
天高くに定めた目標を目指し、ウイルは地面を爆ぜさせながらスタートを切る。
一瞬だ。まばたきすらも許容しない。
両者は次の瞬間には顔を突き合わせており、観客達が見守る中、少年の握りこぶしが対戦相手に叩き込まれる。
「う⁉」
言われた通り、手心など加えてはいない。前進も含めて、動作の全てが全力だった。
その結果、ウイルは眼前の光景に息を飲む。
右手がハクアの衣服にすら届いていない。
なぜなら、彼女の左手の人差し指一本に阻まれてしまった。
「まぁ、こんなものね。次、パオラ、里を一周走ってみなさい」
「あい!」
観客だけが唸るような歓声を上げる中、その後の反応は様々だ。
ハクアはさっさと歩き出し、次の生徒へ声をかける。
名を呼ばれた少女は勢いよく右手を挙手するも実はいまいちわかってはいない。
ウイルだけがポツンと立ち尽くす。予想以上の力量差を見せつけられてしまったのだから、心の中は大騒ぎだ。
(こ、こんなにか~……。うう、冷や汗すらかかせられないなんて。初日から落ち込む必要なんてないんだろうけど、さすがに唖然としちゃうな。考えてみたら、今までの手合わせってハクアさんはずっと回避に徹してたから、今回みたいのって初めてなんだよな。ふ~む、今の僕は指一本ってことか。い、一年で足りるのかなぁ、心配だなぁ……)
不安にかられようと、何も解決はしない。
せっせと走り出した少女を眺めながら、ウイルは一呼吸置くと保護者らしく追いかける。
一方、自分達は見世物ではないと言わんばかりに、ハクアは野次馬達を追い払い始める。右手で散れ散れと命令すれば、彼らは日常へ戻らざるをえない。
その際にギャラリーから二人の子供達へ応援の声が投げかけられたことから、パオラは嬉しそうに加速する。
「大丈夫? まだ一日目なんだし、無理しなくていいからね」
「ふぁい!」
ウイルとしては心配だ。
いかに彼女が超越者だとしても、今はまだ無理をさせたくない。鍛錬とはそういうものだと理解してはいるものの、細すぎる手足を目の当たりになれば自然な配慮と言えよう。
(ダメそうだったらおぶって戻ろう。ヒョロヒョロ過ぎて、足なんか今にも折れそうだし……)
親心を抱きながら、少女の真後ろに陣取って走ること十数分。信じられないことに完走してしまうのだが、ゴールで待っていた魔女は二人を迎えつつも平然と言ってのける。
「案外かかったわね。当面はミファレト荒野で魔物狩りに専念してもらうわ。パオラ、魔物を殺す勇気、ある?」
「あい!」
「ちょ、ちょっと待った!」
威勢の良い返事が響くも、ウイルは保護者として遮らなければならない。
パオラは純粋だ。
純粋過ぎる子供だ。
ゆえに、その手を魔物の血で染めることに抵抗を覚えてしまう。
「ぱ、パオラ、本当のいいの? 大きなトカゲを殺すことになるんだけど……、刃物を、包丁みたいなものを使って生きてる魔物を殺すんだよ?」
「だいじょぶ!」
「なんで……そう言い切れちゃうの?」
「おにいちゃんといっしょにいたい! いっしょにつよい、なりたい!」
その返答がウイルを黙らせる。
同時に、納得させる。
もはやこれ以上の問答は必要なく、パオラが覚悟を決めているのだから、兄として出来ることは背中を押すことくらいだ。
もしくは、支え合いながら腕を磨くことか。
なんにせよ、少年は静かに頷きながら、青色の頭を撫でることしか出来ない。
「はいはい。じゃれてないで次行くわよ。パオラは少し休んでなさい」
「おなかへた!」
「えぇ……、燃費悪すぎでしょ、その体……」
ウイルに対しては強気なハクアだが、実はこの少女の扱いには悪戦苦闘中だ。子育ての経験がないということもあるが、内に秘めた才能が眩しすぎるため、扱いに困っている。
その上、病人のような容姿が非常にやりづらい。
生まれながらの超越者ではあるが、今は単なる子供だ。
そうであるがゆえに、慎重な対応が求められる。
空腹を訴えようと昼食まで我慢させても良いのだが、体を作るためにも間食を許容せざるを得ない。
真紅の長髪を揺らしながら周囲を見渡すと、ハクアの魔眼が適任者を捉える。
「サタリーナ、ちょっと来なさい」
「お呼びでしょうか?」
名指しと言うこともあり、残ったギャラリーの中から、一人の女が歩みを進める。
その黒髪は首の位置で横一線に整えられており、すらりと長い背丈はウイルよりも長身だ。
フードの付いた灰色のローブ。
太目のベルトが腰に巻かれた結果、本来はゆとりのある服装ながらも、彼女の蠱惑的な体のラインを強調している。
彼女の瞳も、やはり魔眼だ。
落ち着いた佇まいと静かな顔立ちを、ウイルは知っている。
初顔合わせは四年前まで遡る必要があるのだが、以降もこの集落で何度か出会っており、少年にとっても信頼を置ける存在だ。
「悪いんだけど、この子に干し肉か朝食の余りでも食べさせてあげて」
「かしこまりました。話には聞いております、この子がハクア様の隠し子ですね」
「ちっがうわよ! どこも似てないでしょう? 何を見たらそう思えるわけ?」
「髪が長いところとか」
「はいはい……。ほんと、あんたといるとペースが乱される。腕も立つし忠実だからそばに置いてるけど、時々、後悔するわ」
ハクアが愚痴るも、サタリーナと呼ばれた魔女は意に介さない。パオラと手を繋ぎ、自宅に向かって歩き出す姿は姉妹どころか親子のようだ。
その光景を眺めながら、ウイルはハクアに近寄りつつも申し訳なさそうに問いかける。
「サタリーナさんにあんなこと頼んじゃっても大丈夫なんですか?」
その疑問は当然だ。彼女は里長の側近ではあるものの、パオラとは今日初めて会ったばかり。親切心につけ入るようで、ウイルとしても委縮してしまう。
「ここんとこ平和だし、暇を持て余してるでしょうから構わないわ。それに、今日からあんたが魔物を狩ってくれるんでしょう? 逆に食料過多を心配しちゃうわ。そんなことよりも問題はあんたよ。と言うか、時代のせいなのかしら? ほんと、兵士の練度がだだ下がりしてて困っちゃう。マリアーヌ様、いかがしますか?」
ハクアに悪意はないのだが、少年にとってはほとんど悪口だ。事実を淡々と述べているだけなのだから、反論の余地などなく、肩を落としながら相槌を打つしかない。
「う~む、私にもわからんちん。あ、だけど、根性だけはいっぱしだと思うよ? 実力が伴わないだけで」
「うぐ、それもけなしてるだけです……。はぁ、初日から心折れそうだなー、自信なくしちゃうなー」
「うるさい。一度頼まれた以上、みっちり鍛えてあげるから。感謝なさい」
(不敵な笑みがコワイ……)
命の危機を感じつつも、逃げ出すわけにはいかない。強くなるための理由が明確に存在する以上、一日一日が大事だ。
それを理解しているからこそ、子供のようにだだをこねるつもりもなく、今は二人の会話に耳を傾ける。
「ハクアもさ~、ぶっちゃけるとみんなほどの才能はなかったわけじゃん? だけど、今はすっごく強いわけだし」
「私には時間だけはありましたから……」
「今回はたったの一年ぽっきりだしな~。魔物を倒しまくっても、たかが知れてるしね~、なやましい」
ウイルの現状を把握出来た以上、次のステップは育成方法の確立だ。
実は、これが最も難しい。
期限が定まっていなければ。
もしくは、成果に目標値が存在しなければ。
彼女らが悩むことはなかった。
手頃な魔物を狩り続けるだけで、腕力も脚力もスクスクと向上してくれる。
しかし、そのやり方では間に合わない。少なくとも、ハクアはそう看破しており、だからこそ代替案を模索する。
「魔物狩りと並行して、それ以外の時間は私との模擬戦に徹する、といった感じでしょうか?」
「そだね~、私もそれぐらいしか思いつかないや。ウイル君はどう? こうしたいっての、ある?」
「い、いえ。僕はエルさんと一緒に魔物を倒しまくってたら、気が付いたらこんな感じだったので、どうこうと言うのはないんです」
その後も三人は意見をぶつけ合うものの、最適解は見つからない。要望に無茶があるのだから、当然と言えば当然だ。
ゆえに、試行錯誤しかありえない。
実戦形式がベターであろうと結論付け、ウイルとハクアは模擬戦を再開する。
もっとも、実力差も相まってその光景は鬼ごっこのようだ。
殴りかかるも、空振りに終わる傭兵。
あくびをしながら、攻撃を全て避ける魔女。
当たらない。
当たるはずがない。
赤ん坊と大人が戦っているのだから、勝敗以前の問題だ。
軽食を済ませたパオラが満足そうに戻るも、少女の目には戦っているのか遊んでいるのか、それすらの判断も困難だった。
三十分ほどが経過した頃合いで、汗だくのウイルが膝から崩れ落ちる。全力疾走と同等のカロリーを消費したのだから、傭兵と言えども披露困憊になってしまう。
「もうバテたの? 情けない……」
見下ろされ、見下されながらの発言に対し、少年は言い返すことも出来ない。指導役が手厳しいことは重々承知しているため、息を荒げながら体力の回復に務める。
「おにいちゃん、げんき?」
「ヘトヘトみたいね。情けないお兄ちゃんなこと」
「なちゃけない」
(言いたい放題言いおって。しかもパオラまで。だけどまぁ、事実ゆえに沈黙しか選べない、うぐぅ)
地を這う姿は無様かもしれないが、動けないのだから仕方ない。
ここが底辺だとしたら、後は這い上がるだけだ。そう自分に言い聞かせながら、大地の暖かさを頬で感じ続ける。
「ウイル君ってやる時はやる子なんだけどね~、根性もある方だし。な~にが足りないのかな? あ、やる気が空回りしてるのか」
白紙大典の発言はフォローなのかもしれない。
しかし、慰めるには至らず、少年の顔からは汗以外の雫がこぼれ落ちる。
先ほどまでとは打って変わって、ここにいるのは四人だけだ。野次馬は日常に戻っており、森に隣接したこの空き地には彼らの声しか響かない。
ゆえに、他人の目を気にせずに話し合いが続けられる。パオラだけは状況を理解出来ておらず、倒れているウイルが珍しいのか、はしゃぎながら突き続ける。
「あさですよー、おきてください」
「起きてますよー。起き上がれないけど」
「マリアーヌ様、やはり魔物狩りに重点を置いた方が良いのでしょうか?」
「どうかな~? 今のウイル君に丁度良さそうな魔物ってこの辺りにいたっけ?」
四人の会話が交錯する中、魔女の赤髪がそよ風に揺らされる。その長さゆえ、揺れ幅は決して小さくない。
長髪を自由に躍らせながら、ハクアは静かに空を見上げる。
(あいつはこの子のどこに可能性を見出したのやら。結局は私が手を焼く羽目になっちゃったじゃない。本命が見つかったから、そのついでに世話してあげるけど……)
心の中で愚痴ってしまう。
この女にとって、ウイルはもののついでだ。本命はパオラであり、この少女に注力したいだが、二人は仲睦ましい家族ゆえ、片方をぞんざいに扱うわけにはいかない。
風が止んだタイミングで自然とため息がこぼれてしまう。前途多難だと改めて痛感したのだが、だからなのか、異変の察知に出遅れた。
「な、なんで……」
声の主はウイルだ。唇を震わせながら、ゆっくりと立ち上がる。体はさらなる休息を求めるも、事態がそれを許してはくれない。
その視界には、本来ならば森を形成する木々だけが映り込むはずだった。
心綺楼のように揺らめく何かは、幻でもなければ見間違いでもない。
火の玉のようなそれは、全体像で捉えた場合、体の部分でしかない。そこから両手両足が生えており、それは頭部に関しても同様だ。
炎の髪を燃やしながら、女の顔が楽しそうに歪む。
「ガん首揃えて何をしてるのかナ? 困っているようにも見えたけド、もしかしてワタシを倒す算段でも企ててル? ソれとも、アルジの方?」
氷よりも冷たい声だ。発生源が炎の化け物なのだから、矛盾を感じずにはいられない。
だとしても疑うことは困難と言えよう。その存在感は人間とは似ても似つかず、それは姿形からも明解だ。
本来ならば怯まずにはいられない状況なのだが、少年は怒気と共に一歩を踏み出す。
「オーディエン……、なんでおまえがここに?」
「イつものことだけド、気づけなかったでショ? マぁ、そんなことはどうでもいいカ。アれから少しは育ってくれタ? モうしばらくは待ってあげるけどサ、退屈は嫌いなんだよネ」
言い終えるや否や、魔物ははしゃぐように笑い出す。彼らとの会話が楽しいのか、単なる笑い上戸なのか、居合わせた四人に見抜けるはずもない。
オーディエン。一見すると人間のようだが、胴体部分が火球の時点で魔物以外の何者でもない。
顔の作りは人間の女性そのものだ。黙っていれば美人でさえあるのだが、口を大きく釣り上げ笑うことから、他者に与える圧迫感は異形と言う他ない。
里の片隅に魔物が出現したことを受け、魔女達が騒ぎ出す。見たことも聞いたこともない容姿な上、その存在感は陽炎のように薄い。加勢が必要なのか、避難すべきか、その判断すらも困難だ。
周囲がざわめきだした中、里長のハクアはあえて沈黙を選ぶ。オーディエンの思惑を見抜けていないということもあるが、想定外ながらも状況が動き出した以上、この魔物を利用したいという欲が湧き上がった。
誰もが面食らう一方、ウイルだけは立ち止まらない。ズカズカと近づくと、笑い声を遮るように怒りをぶつける。
「おまえだけは! いつか必ず、僕が倒す! だから、さっさと消えろ!」
「相変わらず威勢がイイネ! 元気そうで何よりだヨ。イつかと言わず、試しに今から戦ってみなイ? 君のお母さんを殺し損ねて以来、刺激が足りなくてネ」
チープな挑発だ。
そのはずだが、少年が理性を失うには十分過ぎた。遺恨の原因を嘲笑うように掘り返された以上、敵わぬ相手だとわかってはいても、その事実さえ失念してしまうほどには思考が真っ白になった。
「わかった、今から殺してやる」
ウイルの殺意は本物だ。怒りに震え、声も刺々しい。本来ならばそれだけに留まるはずだが、この少年の変化はそれ以上だ。
炎の揺らぎで背景を歪ませるオーディエンとは対照的に、ウイルは別の何かで同様の現象を引き起こす。
体の輪郭付近で物の見え方がグニャリと曲がっているのだから、オーディエンだけでなくハクアもまた、驚きを隠せない。
闘志が湯気のように舞っているのか?
殺意が具現化した結果か?
わかることは一つだけ。正解がどちらであろうと、もしくはどちらでもなくとも、これから起こる出来事は避けられないということだ。
既に距離が縮まっていたということもあるが、その発進に対しオーディエンは成すすべない。回避はおろか防御さえ間に合わない中、少年の拳が女の左頬を激しく殴打する。
振り下ろすような一撃によって、炎の魔物は地面をえぐりながら吹き飛ぶも、ウイルの怒気は一向に静まらない。
追いかけ、追い付き、砕くように蹴り飛ばす。
その結果、オーディエンは森の中へ弾かれるのだが、当然のように追撃は継続だ。
多数の木々がなぎ倒される中、少年は鬼の形相で駆け抜け、オオカミのように飛びかかる。
もはや、お構いなしだ。そもそもこの魔物には手加減など必要なく、燃え盛る後頭部を躊躇なく掴むと、怒りをぶつけるようにその顔面を何度も地面へ叩きつける。
本当ならば、手足の一本でも引きちぎりたいところだが、オーディエンの四肢は火球から生えており、厳密にはそれらは繋がっておらず、言わば宙ぶらりんの状態だ。
ゆえに引っこ抜くことは諦め、頭部の破壊に専念する。
打ち付け、殴り、踏み抜くも、怒りは最高潮のまま。原動力を失わない以上、苛烈な暴力は周囲の自然を巻き込みながら振るわれ続ける。
それでも、この結末は必然だ。
「ソれでこそだヨ」
「ぐぅ⁉」
オーディエンの左脚を踏み潰そうとした時だった。
片時も目を離していなかったにも関わらず、ウイルは魔物を見失ってしまう。
眼下に倒れていたはずのそれは気づけば頭上に浮かび上がっており、声に反応して視線を上へずらすも、嘲笑うように後方から背中を殴打されてしまう。
その威力は凄まじく、少年の意識は途絶えかけるも、殺意を糧に歯を食いしばって耐え抜いてみせる。
もっとも、戦況は最悪だ。
体は自由に動かないばかりか、地面への落下すらままならない。大地と水平にどこまでも飛ばされるのだが、森を戦場に選んだ以上、先ほどのオーディエンと同様にいくつもの樹木とぶつかってしまう。
それでも、なぎ倒されるのは木々の方だ。いくらかの減速に寄与するものの、ウイルが地面をこするタイミングは、森を抜けた頃合いだった。
「おにいちゃん!」
その光景がパオラに悲鳴をあげさせる。
ウイルの姿は痛ましい。見た目ほど重症ではないのだが、出血の量が多すぎた。頭部や腕から滲むように血があふれ、吐血すらも止まらない。
今は静かに苦しんでいたいのだが、走る少女の姿が視界に映り込んだ以上、対応せざるをえない。
「ごほっ、ぐふ……、き、来ちゃだめだ」
「やだ!」
戦闘は継続している。それが一方的であろうと、戦いは戦いだ。
ましてやこれは殺し合いであり、このままではパオラを巻き込んでしまう。
それをわかっているからこそ、静止を求めたのだが、今回ばかりは言うことを聞いてはくれない。
傷だらけの兄へ駆け寄るパオラ。出来ることなど何もないのだが、本能がそうさせるのだから、止めることなど不可能だ。
そのはずだった。
ウイルが思い描いた最悪のケースが、正夢のように実現してしまう。
「ソういえば、コのニンゲンって前にもいたよネ?」
初めからそこにいたかのように、オーディエンが立ちはだかる。そればかりか、少女のポニーテール部分を掴んで持ち上げてしまったのだから、誰もが凍り付いて動けない。
「いたいいたい!」
「チいさい上に肉が少ないネ。ナんだか死んでるみたいだけド、コれでも生きてるのカ、スごいスゴイ」
もはや絶望的だ。パオラがいかに暴れようと、魔物はその手を離さない。
静かな里に悲痛な叫び声だけが響く中、大人達は必死の形相で突破口を探るも、答えなど存在しない以上、どこまでも無駄な労力だ。
今にも壊れそうな玩具を持ち上げ、見定めるように笑う魔物。
ウイルを助けたいにも関わらず、たどり着くことさえ出来ない少女。
あまりに対極的だ。強者と弱者が向かい合ってしまった結果なのだから、受け入れ難くとも諦めるしかない。
(オーディエン、やり過ぎよ……)
冷静な人間が一人。ハクアだけが魔物の遊戯を見抜いているのだが、それでも気が気でない。
ほんのわずかでも力加減を誤れば、パオラはおろかウイルでさえあっさりと殺せてしまう。オーディエンはそういう次元の魔物であり、だからこそ、ハクアとしても焦らずにはいられない。
多数の視線を集めながら、炎の魔物が少女をさらに持ち上げ、互いの目線の位置を合わせる。
「ハクアー? コれ、今にも壊れそうだけド、ソんなに大事なニンゲンなノ?」
「あんたには関係ないことよ……」
今はそう返答することしか出来ない。真実を告げても良いのだが、現在の空気がそれを許すはずもなく、パオラの悲鳴は今なお継続中だ。
「いたい! はなして! はなしてぇ!」
「スごいすごイ。コれが子供、だったかナ? 小さいのニ、ヨく動ク。ダけどちょっとだけうるさいヨ。ニンゲンの数を減らしたくはないけド、少しくらいならいいカ」
助けを求める声に対し、誰もがその場から動けない。オーディエンから放たれる無邪気な殺気はそれほどに恐ろしく、その実力差は見る者に絶対的な恐怖を植え付ける。
この状況に、ハクアもいよいよ困惑せざるをえない。
(まさか、本気? く、止めるしかない……か。私達が本気でぶつかったら、ここら一帯がどうなるかもわからないのに……)
この魔女もいよいよ覚悟を決める。可能かどうかで言えばやれる自信はあるのだが、ためらう理由は命がけということと、里や森にどれほどの被害が出るか予想すらも困難だからだ。
そうであろうと、やるしかない。パオラを見殺しすることは出来ないため、オーディエンの凶行を阻止することは最優先事項だ。
「おにいちゃん! たすけてぇ!」
誰かが手を差し伸べなければならない。
ゆえに、ハクアがその役割を果たそうとするも、異変は突然訪れる。
それに気づいたのはオーディエンであり、恐ろしくも美しいその顔が、引きつるように笑い出す。
「コれは……? ウイル、マさかキミの仕業かイ?」
見た目の変化は一切ない。それでも、魔物だけは違和感を覚えており、実はパオラについても同様だ。
「いたくない! えい! えい!」
髪を掴まれ、吊るされているにも関わらず、少女は笑顔を取り戻す。それどころか、魔物の細腕をポコポコと殴っており、可愛らしい仕返しながらも、はらわたは煮えくり返っている。
何が起きた? 観客達が呆然とする中、オーディエンだけが仕掛け人に気づけている。
振り向いたその先では、ウイルが漆黒の殺意をまといながらゆっくりと起き上がる最中だった。周囲の空間を歪ませる姿は、魔物以上に異質と言えよう。
「パオラを、離せ」
「コれってアレでしょウ? コの前見せてくれた能力の応用だよネ? アぁ、素晴らしイ、本当に最高ダ。ヤっぱりキミを選んで正解だっタ。ワタシの予想を必ず越えてくれル!」
ジョーカー・アンド・ウォーカー。ウイルの天技であり、その性質は魔物とエルディアの気配感知だ。
以前はそれだけの能力だった。
しかし、今は異なる。エルディアだけを対象に、彼女に作用する重力を操作出来る。
つまりは、重力加速度を高め、より強い力で地面へ引っ張ることが可能だ。
もしくは、その逆か。
今回の場合、重力加速度をゼロに書き換えたことで、パオラを無重力状態へ移行させた。
そうすることで髪を掴まれようと問題なくなり、オーディエンは突如として重みを感じなくなった。
「ここからはまた僕が相手してやる。だから、パオラを返せ」
「ン~、ドうしようかナ」
本気のウイルに対し、魔物はなおもおどけてみせる。そういう性分ということもあるが、人質の有無が悪ふざけを増長させてしまう。
もっとも、隙だらけなその姿を、彼女が見過ごすはずもなかった。
赤色の閃光が駆け抜けると同時に、オーディエンはさらなる違和感に苛まれる。
具体的には右腕だ。肘から先がそこにはなく、当然ながら人質についても見当たらない。
「やれやれだわ。ウイル、これで心置きなく戦えるわね?」
オーディエンの虚をつけるほどの実力者。それは現在のところこの魔女以外にありえない。ハクアはもぎ取った右腕を捨てながら、保護した少女を胸にかかえる。
「ありがとうございます」
「さっさとぶっ飛ばして来なさい。まぁ、まだ勝てないでしょうけど。ちなみに、終わったら修行を再開するからね」
「わかりまし……、え?」
歩き出した矢先に、ウイルは振り向かずにはいられなかった。
指導役は相当にスパルタだ。そう痛感しつつも覚悟を決める。
「おにいちゃん、がんばて」
「おう!」
ここからは第二ラウンドだ。
相手が手負いであろうと、お構いなしに全力をぶつける。オーディエンが片腕という好機を活かし、先ずは手数で攻め込む算段だ。
それでも、実力差までは埋まらない。両手から繰り出される無呼吸連打は並大抵の威力ではないはずだが、魔物はその全てを左手だけでさばききってしまう。
「イイネ! ダけどまだまだ遅いヨ」
魔物の笑顔は崩れない。余裕の表れであり、残された左腕が隙間を縫うように走ると、対戦相手の腹部をあっさりと殴打する。
撫でるような打撃だが、その威力は絶大だ。ウイルは一歩、二歩を後退すると、唾液と血液を口から垂らしながら膝から崩れ落ちる。
「アれ? モう終わリ? ア、大丈夫そうだネ」
そうであるとウイル自身が実演してみせる。腹部を抑え悶絶していたものの、演技だったのか、あっという間に跳ね上がり、女の顔を蹴り上げる。
もちろん、それすらも当たりはしない。そればかりか、空ぶった右足を掴まれ、地面に叩きつけられてしまう。
その衝撃はもはや地震だ。集落だけでなく、周囲の森林さえも揺らし、その結果、鳥や猫達が慌てふためく。
いかに丈夫な傭兵と言えども、今回の破壊エネルギーには耐えられない。絶命すらも怪しまれるが、ウイルは瀕死ながらもかろうじて生存を許される。
とは言え、ここらが潮時か。今の一打が少年の体から活力を奪いきってしまう。
もはや起き上がるさえ困難な上、今すぐにでも治療が必要だろう。
「オかげで満足できたヨ。ウん、退屈しのぎとしては十分かナ」
敗者を見下ろしながら、オーディエンは満足そうに感想を述べる。
そのついでのように右腕の断面から炎を吹き出すと、それが形となって右手があっさりと再生された。
勝ち誇っているわけではないが、その姿は紛れもなく勝者のそれだ。
眼下の敗者は起き上がることすらままならない。それどころか、苦悶の表情を浮かべている。
「キミはアレだネ。モっともっと伸びてくれそうダ。ウん、ワタシの目に狂いはなかっタ。時間はかかりそ……」
まるで演説のように空を見上げた瞬間だった。女性と見間違う両脚が、足払いによって崩される。
当然ながら、オーディエンはそのまま転倒するはずだったが、それよりも早く、さらなる追撃がその顔に打ち込まれる。
「まだ……」
終わってなどいない。
意識を失ったわけでもなければ、降参を宣言したけでもないのだから、戦闘の継続は必然だ。
怒りをまとった渾身の拳が、女のような顔に埋没する。腰をひねり、目一杯の力を宿した会心の一撃だ。
歯を食いしばり、殺意をまとったウイル。
殴られてもなお、笑顔を保つオーディエン。
舞台の上で両者はぶつかる。この演目の台本は既に決まっており、演者が書き換えることなど出来やしない。
そうであると主張するように、魔物は無傷のままだ。姿勢を崩した状態で殴り飛ばされたのだが、細腕で地面を引っかきながら、勢いを易々と相殺する。
その上、器用に体勢を立て直し、転倒すらも回避してみせた。
「アぁ、実に愉快。キミはやっぱり、ソうじゃないト! 諦めることを知らないニンゲン。ダからキミを選んダ!」
「く、鼻血すらも出してはくれないか……」
この結果が両者の優劣を物語る。
わかってはいた。ウイルもそこまで愚かではない。
それでも、多少なりとも傷を負わせられるのでは、と淡い期待を抱いていた。
残念ながら、事実はどこまでも非情だ。
目に見えるほどの殺意をまとおうと。
実力以上の力を発揮しようと。
その差はまだまだ埋まらない。
「オ礼に、本気をほんの少しだけ披露しようかナ」
「……え?」
冗談のような発言は、嘘ではなかった。
ウイルは瞬き一つしていないにも関わらず、対戦相手を完全に見失ってしまう。
遠方に立っていたはずのそれは既にそこにはいない。
では、どこだ?
その答えを、ギャラリーの一人でもあるハクアだけが看破する
(空を飛べるって本当に便利ね。あんな遠回りな軌道を描いて……、はしゃいじゃってまぁ……)
ワンテンポ遅れて、ウイルもその位置を把握し終える。
視認出来ずとも、現在の居場所は天技によって察知可能だ。おそるおそる左隣へ顔を動かせば、吸い込まれそうなその瞳と視線が交わってしまう。
既に、真横で立っていた。
この傭兵はその軌跡すらも追えなかったが、今更驚きはしない。勝てない相手だと理解した上で殺し合いを申し込んだのだから、苛立つように拳を打ち込むだけだ。
「このっ!」
乾いた打撃音がこだまする。握り拳を女のような左手が受け止めた際の衝撃波だ。パンと鳴り響いた炸裂音が両者の髪を激しく揺らすも、二人は怯むことなくにらみ合う。
「コこまで這い上がっておいデ」
見下すように。
示すように。
オーディエンが嬉しそうに口を開くと、対照的にウイルは苦痛に顔を歪める。
受け止められた右手が掴まれた。少なくとも野次馬達の目にはそう映るも、実際はそれ以上だ。
ギシギシと軋んだ音がそこから鳴っており、つまりは魔物の握力がウイルの右手を握り潰そうとしている。
「あ、がぁ! く、くそ! なんて馬鹿力!」
押すことも引くことさえも叶わない。まるで右腕の手首から先が空間に固定されたかのように、ピクリとも動いてはくれない。
その上、現在進行形で拳が圧縮されている。押し寄せる苦痛はすさまじく、その正体は折りたたんだ指四本の骨折だ。
「イタイよネ? クルシイよネ? ダけどキミは諦めなイ。素晴らしいヨ、最高ダ! ファファファファファ!」
甲高い笑い声が少年の悲鳴を飲み込む。
強者と弱者という絶対的な光景は、この地の人間に絶望を植え付けるには十分過ぎた。ハクアには優秀な部下達がいるのだが、彼女らさえも恐怖から目を背けることしか出来ない。
これこそが魔物であり、人間を駆除する存在だ。
その事実に誰もが心を折られる中、ウイル以外にもう一人、闘志を燃やす者がいた。
「おにいちゃんをいじめないで!」
駆け寄り、枝のような腕で殴りかかる。パオラの腕力では子供同士の喧嘩にさえ負けるだろうが、彼女の勇敢な姿は紛れもなく本物だ。
オーディエンの両脚をコツコツと殴るも、当然ながらかすり傷すら負わせられない。それどころか、その体を一ミリメートルもずらせていないのだから、無意味な加勢と言えよう。
そのはずだった。
「アイタタタ、コれは参ったネ。今日のところは逃げるとしよウ」
棒読みの演技であろうと、オーディエンは負けを宣言した。
言動を一致させるようにウイルの右手を解放すると、笑顔のまま浮かび上がる。
その姿は決して敗者ではないのだが、少女はとても満足げだ。
「もうくるな!」
「ファファファ、マたいつか、遊びに来るヨ」
吠えるパオラと苦しむウイルを見下ろしながら、オーディンはゆっくりと上昇を続ける。
その高度はどこまでも上がっていき、雲に届く頃合で音よりも速く北へ立ち去るも、残された者は今なお動けない。
生き延びることが出来た。
アレは何だったのか?
様々な感想を胸に抱きながら、人々は救いを求めるように里長へ視線を向ける。
この状況下で、ハクアだけは冷静さを失わないでいた。
「あいつは我々には危害を加えない! 狙いは王国だけ! だから安心して! それでも敵であることには変わりない……。だから、私は長としてここに宣言する! 今日からこの子達を、ウイルとパオラを対抗手段として鍛えるということを!」
他者を鼓舞するような演説が、魔女の里を大いに沸かせる。
その効果は絶大だ。観客からは恐怖心が払拭され、安堵共に笑顔が戻る。
ハクアという魔女の信頼と実力があってこそだ。
そして、立ち向かった二人の子供の勇敢さもそれに拍車をかけている。
今回は負けた。
常に負け続けた。
それでも諦めることだけはしない。
だからこそ、ここまで強くなれた。
これからも成長を続ける。
砕かれた右手を回復魔法で癒されながら、ウイルはゆっくりと立ち上がる。
「クタクタなのでお昼ご飯まで昼寝してもいいでしょうか⁉」
「ダメに決まってるでしょう。さぁ、修行の続きをしましょう」
その後、少年の悲痛な叫び声が繰り返し響くのだが、その度に笑い声が誘発されるだけだった。
「おにいちゃん、がんばてー」
「た、助けてー!」
「手足の一本くらい折れたところで我慢なさい」
ここからが始まりだ。
強くなるため。
光流武道会で優勝するため。
そして、魔女を人間だと認めさせるため。
少年は戦わなければならない。
この一年間はハクアが相手を務めるのだが、その苛酷さは少年にとっても想定外だった。
「単なる手合わせじゃ絶対に間に合わないわ。だから、あんたには一日に数回は死にかけてもらう」
「い、意味がわかりません!」
「わからなくても立ち上がりなさい」
「助けてー!」
成長には痛みがつきものだ。そう実感しつつも、ウイルの瞳からはほろりと涙がこぼれてしまう。
教えを乞う相手を間違えたと気づいた時には、もう遅い。
朝から晩まで、戦うことだけを考えなければならない。
そういう意味では、傭兵らしい日常だ。何も変わらない。毎日を全力で駆け抜ければ良い。
ウイルは十六歳から十七歳へ。
パオラは九歳から十歳へ。
その年月をこの森で過ごすことになる。
起きる。
食べる。
戦う。
そして、眠る。
その繰り返しだ。それ以上でもそれ以下でもない。指南役に何度も殺されかけながらも、己を鼓舞するように起き上がる。
舞台上に立たされた者の宿命なのだから。
◆
「いるんでしょう? 出て来なさい」
女の声が、真っ暗な森の中を走る。
誰もが寝静まった頃合いだ。昆虫の合唱さえも、聞こえてはこない。里からも幾分離れており、その静けさは不気味は孤独感を増長させるほどだ。
月明かりでは光量が足りておらず、ゆえにこの地は闇よりも黒い。周囲には数え切れないほどの樹木が群生しているのだが、それらを視認することさえ困難だ。
ここは迷いの森。住人は魔女と小動物くらいなのだが、今宵は新たな客人が招かれている。
しかし、周りを見渡したところで完全に無人だ。
野鳥も。
猫も。
人間さえも見当たらない。
正しくは、その魔女だけが立っており、腐葉土の甘い匂いを嗅ぎながら、腰に手を当て待っている。
無人だ。
そのはずだが、先ほどの発言が独り言ではないと証明するように、もう一つの声が静かに生まれる。
「アんな感じで良かったのかナ?」
「ええ、名演技だったわよ。あんたらしくて、それこそ憎たらしいくらいに」
半日ぶりの再会だ。
赤い体をメラメラと燃やす魔物。
真っ赤な髪を大地へ垂らす魔女。
両者の間に挨拶など必要ない。友人でもなければ仲間でもないのだから、いがみ合っている方がお似合いだ。
「ワタシはたダ、特等席で鑑賞したいだケ。ソのためだったら何だってするヨ? 困っているキミの顔を見たら、ソれこそすぐにでモ」
「はぁ、あんたって本当にわからないわね。あの女の部下なんでしょう? 敵に塩を送っても構わないの?」
無人のはずの森で、会議が始まった。
出席者はたったの二人。
されど、この大陸の命運を握る、最も重要な二人。
「モちろん、アルジには内緒だヨ? バれたら殺されちゃうからネ。ファファファファファファ」
「そう。死んでくれても構わないのだけど。ところで、あんたから見てあの子はどう映った? パオラっていう小さな女の子」
「ン~? タだのニンゲンでしょウ? ウイルの時とは違って、何も感じなかったヨ?」
オーディエンの率直な感想だ。その言動は嘘を積み上げることで成り立っているのだが、今回に関しては本音を披露する。
「あんたも所詮は魔物ってことね。私の見立てだと、あの女を殺すのはパオラよ。残念ながらウイルじゃない」
「フ~ん、サガシモノが見つかったんだネ。素晴らしイ、実に愉快!」
「愉快愉快うるさいわね、本当に……。ねぇ? そろそろ教えてくれない?」
「何をだイ?」
「あんたの本当の目的を」
ハクアにとって、今回の議題はこれだ。
オーディエン。セステニアという人外の存在によって選出された、右腕とも言うべき魔物。その信頼は厚く、彼女の封印を解くべく何百年も暗躍しているのだが、ハクアだけは見抜いている。
この魔物は別の思惑によって動いており、だからこそ、結界の謎を解き明かした今なお、セステニアは自由を取り戻せてはいない。
「モちろん、アルジ様を解き放つことサ」
「嘘おっしゃい。だったらさっさとすればいいじゃない。それとも、水の魔物だけは倒せそうにないのかしら? いいえ、あんたくらいなら、相性なんてお構いなしにぶっ倒すでしょう?」
「マぁ、ウん、ソうだネ。正直なことを言うト、ヤれちゃうかナ」
水の魔物に火の暴力は通用しない。この世界における摂理であり、ハクアとオーディエンも重々承知だ。
それでもなお、この魔物は豪語する。
無理やりにでも焼き殺すのか?
身体能力だけで殲滅するのか?
そこまではハクアにもわからないが、オーディエンが今回に限っては嘘をつくとは思えないため、素直に信じる。
「だけど、あんたは倒さない。これ以上、封印を解かない。なんで? ううん、さっきの言い回しで何となくわかった気がする」
「ヘ~、教えて欲しいナ」
「前から変だとは思っていたの。王国や私達を滅ぼさないばかりか、時に協力さえ惜しまない。あんたには、あんた達にはメリットなんかないはずなのに。だけど、あんたは探し続けた」
白紙大典を。
セステニアを殺せるほどの逸材を。
その成果が四年前に実を結んだと、オーディエンは歓喜に震えた。この思想は、本来ならばありえないはずだ。
「ソして見つかっタ。ウん、メでたしめでたシ。ア、始まったばかりカ。ファファファファファ」
「あの女を今度こそ殺すためのピースは揃いつつある。なのにあんたは片棒を担いだ。今回も、あの子達を奮い立たせるために一役買った。傍観者らしくないことをしてまでも……」
「オっと、ワタシは傍観者なんかじゃないヨ。ムしろ介入を惜しまなイ。モちろん、舞台に上がるつもりなんてさらさらないけどネ。サっきも言ったでしょウ? 見てみたいんダ、ソの光景を……ネ」
「それよ。意味まではわからないけれど、想像は出来た。あんたは、ウイルを成長させて、いつの日か、セステニアと戦わせようとしている」
「セいか~イ! ソの通りィ!」
「何でそんなことを? 理由は?」
「ソんなノ、楽しいからに決まってるでしょウ? 最全席で鑑賞したイ。タだそれだけのことだヨ? 不思議なことかナ?」
「さっぱり理解出来ないわ。だけど、そう……。本心が聞けて安心したわ。そういう意味では、やっぱり私達の利害は一致していたのね」
「ソうだネ。何にせヨ、強者を見つけないといけなかっタ。千年前、キミ達は尻尾を巻いて逃げ出すことしか出来なかったからネ。アレはアレで楽しかったけどサ」
この瞬間、ハクアは眉をひそめてしまう。その口ぶりではオーディエンがあの場にいたということになるのだが、彼女らはこの魔物を目撃してはいない。
「どういうこと? あんた、あの時、あそこにいたとでも言うの?」
「オっと、今のはナシで、ネ? コのことハ、アルジすらも知らないことだかラ」
「そう……。どうせ問い続けても無駄でしょうから、別の話をしましょう。良いことを教えてあげる。女の感でしかないのだけど、あの女は近い将来、必ず滅ぼされるわ」
「ウイルにやれるかナ?」
「いいえ、それはないと断言出来る。パオラの方が何倍も可能性があるわ。だけど……、もしもパオラさえも敵わなかったとしても、それでも問題ないと断言出来るの」
「ドういうことだイ? ワタシにはさっぱりわからないけド」
「この時代で、一度に二人も見つかったのよ? だったら、きっとそういうことなのよ。あの子達すらも届かなかったとしても、すぐに次が現れるわ。いいえ、もうどこかにいるのかも……」
「エっと、ツまりハ……」
「二人が敗れても三人目。もしくは四人目さえも……。単なる感だけど、確信のような気さえしてるの。昨日、パオラと出会って、そう感じた。あの女、セステニアの命運が尽きたってね。単なる偶然なのか、この世界の周期的な何かなのか、理由まではわからないけど、この時代なのよ。ついに動き出すの」
根拠は一切ないにも関わらず、魔女ははっきりと断言する。
曖昧だ。
憶測とすら呼べない論法だ。
それでも、炎の魔物は腹の底から喜び出す。
「ツいについにツイニ! 役者が揃ウ! 現れル! コの日をどれほど待ちわびたカ! アルジよ! モう間もなくでス!」
「喜び勇んでるところ悪いのだけど、まだ先のことよ。パオラの修行も今日からだし、後何年かかることやら……」
「フふん、たかだか数年、イくらでも待ってあげるサ。マぁ? ソれまでは退屈凌ぎに付き合ってもらうけどサ」
「私を巻き込まないでよ? あんたはあんたで好きに動いてくれて構わないけど」
「ワかってるっテ。ウイルなのかナ? アのおチビちゃんなのかナ? ソれとも、マだ見ぬニンゲンなのかナ? アぁ、楽しみだナ~」
「私はパオラだと思ってるけどね。あの子は本物よ。魔物のあんたには見抜けないようだけど。間違いなく、天然の超越者だしね」
「天然超越者……、カッコいいネ。アの時のニンゲンもそうだっタ?」
「王のこと? そうよ。だからあの女に対抗出来た。あのお方がいらっしゃらなかったら、私達は逃げることさえ出来なかったもの……」
「最初からそうじゃないとダメなのかナ?」
「そうでしょうね。だから、ウイルはハズレなの」
「ソうかナ~? コの点だけは、ワタシ達は相容れないようだネ」
「他も含めて全部でしょうに……」
「ニンゲンで言うところの努力、モしくはそれ以外のやり方デ、壁を越えたニンゲンは天然に勝てないノ?」
「私を見ればわかるでしょう? そういうことよ」
「キミは兎も角、ソこだけはやっぱり賛同出来ないナ」
「さりげなく罵倒してくれちゃって。自分で言いだしたことだから構わないけど。言っておくけど、命をかければあんたをどうにか出来るつもりよ?」
「ファファファ、心にもないことヲ。キミの命をワタシなんかに使ってもいいのかナ?」
「ち、そこまで気づいてたの……。もういい、帰る。訊きたいことは聞けたし」
「ソうだネ、ワタシもお腹いっぱイ」
話し合いは終了だ。
もとより、二人は違う立場の存在であり、こうして手を取り合っていることが本来ならばありえない。
もう二度と交わることはないのかもしれない。
そんな間柄だからか、立ち去る際も眼すら合わせようとはしなかった。
「それじゃ」
「バイバイ」
やり取りとしては十分だ。
友人でもなければ、仲間でもない。本来ならば敵同士ゆえ、これ以上の馴れ合いはそれこそお断りだ。
暗躍する者同士、道が交錯した時だけ、互いを利用すればよい。
夜の森が静寂を取り戻す。あっという間に足音さえもいなくなり、その静けさは明日の到来を待ちわびるかのようだ。
ウルフィエナ。
地獄のような理想郷。
人間と魔物が争う世界で、今日も明日も血が流れる。
勝つために。
生きるために。
もしくは守るために。
その少年もその内の一人だ。戦わなければ前に歩けない。
だからこそ、血と汗を流してでも抗い続ける。
少年の名は、ウイル・エヴィ。
その行く末は不確定のままだ。
一年後の結末はおろか、明日の過ごし方さえ誰にもわからない。
勝てるのか。
負けるのか。
取り戻せるのか。
力不足を嘆くのか。
少年の手には脚本が渡っておらず、客席も気づけば無人と化した。
そうであろうと、立ち止まりはしない。その先は自分の手で切り開くのだから。
世界の名はウルフィエナ。
その物語の、小さな小さなその一節。