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時は現代。特筆すべき歴史的事件もなく、人々がただ日々を忙しなく往来するだけの、凡庸な時代。
だが、それも少し前までの話である。
10年前、突如として“ツカイマ”と呼ばれる不可思議な存在が各地に出現した。彼らは契約を結んだ少女たちに超常的な力を授け、「魔法少女」へと変貌させるという現象を引き起こした。
その事例は瞬く間に全国へと広がり、魔法少女の数は増加の一途をたどる。そうして、かつて想像もしなかった時代が到来した。
しかし、力の拡散は同時に新たな問題も生み出した。魔法少女となった者の中には、その能力を犯罪目的に用いる者も少なくなかったのである。
これに対処すべく、各自治体の認可を受けた魔法少女による戦闘行為を法的に容認する体制を整備した。
一方で、学術的な観点からも魔法少女の研究は少しずつ進展しているものの、ツカイマの正体や発生源についてはいまだ一切の解明がなされていない――
日本の首都・東京――その一角にひっそりと佇む、幻莨町にて。
「急げ急げ急げ急げぇー!!!」
朝の通学路に、間の抜けた叫び声が響きわたった。
フランスパンを器用に横咥えしたまま、必死の形相で疾走する一人の少女の姿があった。
彼女の名は、木原 ハナビ。十四歳。
眼鏡の奥ではの瞳が焦燥に揺らめき、頭の両側に結われた桜色の三つ編みが、朝の風を切って軽やかに舞う。
そんな彼女は見た目通りどこにでもいる冴えない女子中学生。ただし、「ちょっと頭がおかしい」という一点を除けば、である。
それはそうと、なぜ彼女はこれほどまでに必死に駆けているのか――。
「起きたら午後4時ってどゆこと!?!? 体内時計が職務放棄してるよ!!!」
そう、彼女は「寝坊した」なんて可愛い言い訳では済まされない、もはや全世界でも類を見ないレベルの大遅刻の真っ只中にいた。
授業? とっくに終わり、帰りのホームルームすら同じであろう。
いっそ全てを投げ出して「ご愛読ありがとうございました」状態に突入しようかと本気で迷ったが、
無断欠席だけは避けたい。なんとしてでも。その一点だけで足を必死に動かしている。
「もう…最近こんなんばっかぁ!!!!」
不運というか自業自得を嘆くハナビの嘆声はさておき、こういう王道シチュエーションで“何も起こらない”なんてことはない。
案の定、「コーナーで差をつけろ」よろしく全速力で曲がり角へ突っ込んだその瞬間――
「あっ…!?」「えっ」
衝撃。直後に痛み。じん、とした感覚が引きながら視界が戻る。
前方に目を向けると、藤色の髪を高く束ね、ハナビと同じ制服を身に着けた少女が尻餅をつき、額を押さえていた。
「ごめん、大丈b…」
差し出そうとした手が、少女の顔を見た瞬間に固まる。
「ごめんなさい…私もちゃんと前見てなくて…え、えっと、どうかしました?」
ハナビの凝視に困惑したのか、少女は心配そうに立ち上がる。
「……好き…」
「え?」
――そう、あまりに彼女の顔がどストライクだったのだ。
澄み渡る空色の大きな瞳に、しなやかに伸びた睫毛。均整のとれた目鼻立ちが一段と引き立っている。
もともと美少女厨だったハナビだが、この少女の整った顔立ちは、今まで見たどの子より鮮烈だった。
「あ、あの、ちょっと急いでるのでもう行きます…ちゃんとお詫びできずごめんなさい…!!」
「え、あ…」
そのまま走り去る少女。
見送ることしかできないまま、ハナビは彼女の姿を脳裏に焼き付けつつ、ふと視線を落とすと
路肩に何かが落ちているのに気がつく。
「これ…あの子の学生証?」
どうやら小さな衝突の拍子に落としていったらしい。
裏返して顔写真に目を留めると、さきほどの少女が、端正な面差しをわずかに強張らせたまま写っていた。
―氷河 フブキ。それが彼女の名前のようだ。
「…って、学年もクラスも一緒じゃん…あの不登校の子かな?」
――ハナビのクラスには、入学式以来一度として姿を見せていない生徒がいる。
クラスメイトの顔ぶれなら把握しているつもりだが、少なくともハナビはこの少女に覚えがなかった。
「ま、家帰って連絡してみるか」
記載されていた彼女の電話番号らしき数字に視線がとまり、ハナビは小さくそう呟く。
褒められた動機ではないものの、また彼女に会えるかもしれない――そう思うと、胸の高鳴りを隠し切れなかった。
ちなみに無断欠席については、後日先生にめっちゃ怒られたらしい。
「ただいまー」
人気のない家の中に、ハナビの軽やかな声がよく響く。
帰り道でスーパーや本屋に立ち寄っているうちに、思いのほか時間を食ってしまった。
気づけば、外はすでに太陽が沈んでいる。
「どこやったっけ。あ、あったあった」
買った漫画でごちゃついたバッグの底から、今朝拾った品をそっと取り出す。
番号を一桁ずつ慎重に押し込み、ハナビは受話器を静かに手に取った。
「―あの、氷河さんちですか? フブキさんっています?」
「……フブキの知り合い? 何の用ですか?」
話器の向こうから返ってきたのは、中年の女性と思しき声だった。
おそらく、あの少女の母親なのだろう。
どこか棘のある物言いにわずかな違和感を覚えながらも、ハナビは言葉を続けた。
「落とし物を届けたくて。フブキさんの生徒手帳なんですが」
「……はぁ、あの子ったら…ホントにいつもいつも…」
溜息まじりにこぼれる、ぐちぐちという効果音がつきそうなほど嫌味に満ちた声に、いくらハナビでも思わず顔をしかめた。
「あの、フブキさんと代わってもらっても?」
「あぁ、はい。今呼びますから。」
かすかに少女を呼ぶ声が聞こえ、
続いて受話器を持ち替えるざらついた音が耳に飛び込む。
「……はい、フブキです。あの…今朝の方で間違いないですか…?」
「覚えててくれたの? あらやだ嬉しい」
「え」
フブキが思わず間の抜けた声を漏らし、ハナビは内心で“しまった”とわずかに焦りを覚えた。
「冗談はさておき。僕、同じクラスのハナビ。フブちゃんって、ずっと学校来てないよね?」
「フブちゃん…? う、うん。学校はずっと行ってない…けど…」
彼女の可憐な声に、思わず情が滲んでしまったものの、なんとか冗談めかして切り抜ける。
ハナビの妙に距離の近い物言いに戸惑うフブキをよそに、会話はそのまま続いていった。
「えっと…どうして同じクラスだって分かかったの…?」
「ごめんだけど、生徒手帳ちょっと見ちゃった。じゃないと連絡つかなかったし」
ただ、ほんの少しでも関わりを持ちたいだけという本音を胸の奥に押し込み、体裁のよい建前でそっと蓋をする。
さすがに最初から好意を全開にしてしまえば、かえって距離を置かれてしまうだろう。
「そっか…ごめんね…。えっと、どこで受け取ったらいいんだろう…」
「じゃあ、明日学校来てくれればすぐ渡すから!!」
「へ?」
ようやく本題に入ったと思ったのも束の間、話は一瞬で途切れてしまった。
というより、その“本題そのもの”がフブキにとっては大問題なのだ。
「じゃあねー」
ほどなくして回線がぷつりと途切れ、無機質なツー、ツーという音だけが虚しく残る。
一方的に通話を切られ、呆然と立ち尽くすフブキに、母親が声をかけた。
「今の子、誰? あんたお友達なんていたの?」
「い、いや…今朝ちょっと話しただけ…。生徒手帳、拾ってくれたらしくて…」
不意に母に声をかけられ、胸がきゅっと縮む思いを抱えながらも、フブキは取り繕うように返事をした。
「そう。まぁ、あんな子と仲良くするワケないわよね。さすがに、人ぐらいあんたでも選べるでしょう」
「………うん」
自分やハナビを見下すような物言いに、胸の奥で複雑な感情が渦を巻く。
それでもフブキは、ぐっと唇を結んだ。
「あぁ、それで、明日の家庭教師なんだけど…」
「…お母さん!」
これ以上話が進めば、この話題を切り出す機会を失う――そう直感したフブキは、反射的に声を上げた。
怪訝な表情でこちらを見つめる母の視線に怯みながらも、ようやく重い口を開く。
「えっと…明日、その落とし物を受け取りに学校へ行かなきゃいけなくて…その…家庭教師は…」
「……あら、そう。じゃあキャンセルしておくわね」
「…え、あ、うん。いいの?」
予想外の返答に、フブキは目を見張った。
あまりにも“母らしからぬ”言葉だったのだ。
「別にいいわよ、一日ぐらい。でも、受け取ったらすぐに帰ってくるのよ?」
だが、その後の母の物言いを耳にして、フブキは結局、母の心境の変化への期待を手放すことになった。
「あなたは、お姉ちゃんみたいにならないでちょうだい」
「――それがあなたのため、でしょ……分かってる」
「…いい子ね、フブキは」
いつも通りの会話。だが、どこか精神を蝕むような不快感が残る。
気づかれぬようそっと溜息をつき、フブキは母に背を向けた。
「どうせ、明日だけ。それからは、きっといつもと一緒」
感情を押し殺した声でそう自分に言い聞かせ、勉学に励むべく部屋へと向かう。
今のフブキの望みは、ただ母の期待に応えること。それだけだった。
――はずなのに。