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子犬たちが産まれてから、一か月が経った。
牧場の朝は相変わらず忙しい。羊の放牧、柵の修繕、餌の補充。だが、その合間に、陸翔の足は自然と小屋へと向かっていた。
母犬ミルクはすっかり落ち着きを取り戻し、四頭の子犬たちはそれぞれの個性を見せ始めていた。やんちゃな長男、甘えん坊の三番目、慎重な二番目——そして、末っ子の女の子。
彼女は、少し臆病だった。兄弟たちがじゃれ合っている輪の外から、じっと様子をうかがっていることが多い。けれど、目が合うと、そっと近づいてきて、陸翔の膝の上にちょこんと座る。
その左目は、澄んだ蒼だった。空の色を閉じ込めたような、静かで深い光。
陸翔は、気づけば彼女を目で追っていた。何かが気になる。何かが引っかかる。産まれたばかりなのに、どこか力強く生きようとするものを感じた。
自分はどうだろう。将来のことを考えるたびに、何かが引っかかって、前に進めない。何かを選ぶことが怖くて、ただ流されているだけのような気がしていた。
でも、この蒼い目の女の子となら——。
この子と歩むことで、自分を変えられるかもしれない。そんな思いが、胸の奥に静かに灯った。
その様子を見ていたハリスが、ある夕方、静かに言った。
「陸翔、お前がこの子を気にしてるのはわかってる。だから、この子の所有権はお前に譲る。名前も、お前が決めろ」
陸翔は驚いた。犬を「自分のもの」として持つのは初めてだった。責任の重さが、胸にずしりとのしかかる。
「……名前、か」
その夜、陸翔はノートを開き、いくつもの名前を書き出してみた。風、空、ソラ、カケル、ブルー、スカイ……どれもしっくりこなかった。
ふと、自分の名前を見つめた。
「陸翔……翔ける、か」
翔ける——その言葉が、心に引っかかった。兄・陽翔の「翔」も、同じ字だった。空を翔けるように、自由に、まっすぐに生きた兄。
「……レレ、ってどうだろう」
マオリ語で「翔ける」という意味。音の響きも軽やかで、呼びやすい。何より、自分の名前の一文字を含んでいる。
「レレ。……うん、悪くない」
翌朝、陸翔はその女の子の子犬の前にしゃがみ込み、そっと名前を呼んだ。
「おはよう、レレ」
レレは一瞬首をかしげたあと、ゆっくりと尻尾を振って陸翔の膝に顔を寄せた。
その瞬間、陸翔の胸の奥に、何かが灯った。
それからの日々、陸翔は四頭の子犬たちの世話に明け暮れた。ミルクの食事、子犬たちの健康チェック、排泄の処理、遊び相手。忙しく、手間もかかったが、不思議と苦ではなかった。
特にレレとの時間は、特別だった。彼女は臆病で、初めての音や動きにすぐ身をすくめたが、陸翔の声には敏感に反応した。目を合わせるだけで、何を求めているのかが伝わるような気がした。
ある日、納屋の片隅で古びたビデオテープを見つけた。兄・陽翔が残したアジリティー競技の記録だった。
画面の中で、犬と人が一体となって障害物を駆け抜けていた。スピード、正確さ、そして何よりも、楽しそうだった。
「兄ちゃん……これ、やりたかったんだよな」
陸翔はレレの頭を撫でた。レレはじっと画面を見つめていた。
「お前となら、できるかもしれないな」
その言葉に、レレが小さく鼻を鳴らした。まるで「うん」と答えてくれたように。
夕食の席で、陸翔はぽつりと口を開いた。
「アジリティー競技、やってみたい」
父は驚いたように目を見開いたが、すぐに頷いた。
「いいじゃないか。陽翔の夢だったな」
母も、静かに微笑んだ。「レレとなら、きっと素敵なチームになれるよ」
家族の空気が、少しだけ変わった気がした。兄の名前を口に出すことが、ようやくできた。レレが、そのきっかけをくれた。
風が、また吹いた。今度は、陸翔の背中を押すように。