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死ねたちゅーいだぞぃ。口調迷子。
二十五歳という年齢は、マフィアの幹部として修羅場を潜り抜けてきた中原中也にとって、それほど特別な響きを持たなかった。相変わらず横浜の闇を統べ、敵を粉砕し、時折、腐れ縁の男と酒を酌み交わす。フョードルとのあの地獄のような戦いが終わってから、そんな「平穏」が日常になりつつあった。
雨の降る土曜日。中也の足取りは心なしか軽かった。 手元にあるのは、高級スーパーの袋。中身は奮発したタラバガニと、なぜか太宰が「これを入れると人生の深みが増すんだ」と強く主張していた味の素だ。
「……ったく、あの野郎、また勝手に入り浸ってやがんだろうな」
中也は自分のセーフハウスの前に立ち、慣れた手つきで鍵を開ける。 最近の太宰は、探偵社の寮に帰るのが面倒だと言っては、中也の隠れ家の一つに居座っていた。スペアキーを渡した覚えはないが、あの男にとって物理的な錠前など、あってないようなものだ。
「おい、クソ太宰。言われた通り蟹と味の素買ってきてやったぞ。さっさと準備しやがれ」
返事はない。 玄関には、脱ぎ捨てられた砂色のコートもない。 リビングに入ると、空気はひどく冷え切っていた。暖房をつけた形跡も、生活の匂いもない。
「……まだ仕事か?」
中也は買ってきた袋をカウンターに置いた。 キッチンには、数日前に二人で空けたワインの瓶がそのまま立っている。太宰がふざけて描いた、中也の似顔絵もどきの落書きがコースターに残されていた。
その日は、太宰は来なかった。 次の日も、その次の日も。
三日が過ぎた頃、中也は流石に違和感を覚えた。 探偵社に連絡を入れても、国木田が「あの唐変木なら三日前から無断欠勤だ。いつものことだろう」と忌々しげに答えるだけだった。
だが、中也の直感は、それとは違う「何か」を告げていた。 太宰は、中也の部屋に私物を一切残していなかった。あんなに入り浸っていたくせに、本の一冊も、着替えの一着も置いていない。 まるであらかじめ、いつでも消えられるように準備していたかのように。
「……あいつ、何考えてやがる」
中也は一人、太宰に指定された「味の素」を蟹に振りかけながら、味のしない食事を摂った。 二十五歳。もう、子供じみた追いかけっこをする歳でもない。 けれど、胸の奥にざらりとした、嫌な予感だけが澱のように溜まっていく。
四日目の朝、一本の電話が入った。 発信元は、武装探偵社の江戸川乱歩からだった。
『……素敵帽子くん? ああ、結論から言うよ。多摩川で見つかった。……いや、今回のは「いつもの」じゃない。連れがいたんだ。心中の相手。……たぶん、君も知らないような、どこにでもいる綺麗な女性だよ』
中也は受話器を握りしめたまま、言葉を失った。 心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。
『太宰はね、君にだけは「日常」を見せていたかったんだろうね。二十五歳まで生き延びて、平和な横浜を君と一緒に歩いて……。でも、彼はやっぱり「そっち側」の人間じゃなかった。駆け落ちなんて、彼らしいふざけた幕引きだと思わないかい?』
乱歩の声は、どこか突き放すようでいて、酷く哀しげだった。
中也が現場に着いた時、雨はやんでいた。 野次馬と警察の規制線の向こう側。 多摩川の濁った流れのほとりに、二つの遺体が横たわっていた。
白布から覗く、見慣れた茶褐色の髪。 その横には、乱歩の言った通り、どこか幸薄そうな、けれど美しい女性が横たわっている。 二人の手は、赤い糸ではなく、冷たい水に濡れた紐で固く結ばれていた。
中也はゆっくりと歩み寄った。 警察官が制止しようとしたが、その場にいた森鴎外が目配せをして止めた。
太宰の顔は、驚くほど穏やかだった。 今まで見たどんな眠り顔よりも、安らかで、満足げですらあった。
中也は膝をつき、太宰の頬に触れた。 冷たい。 味の素を振りかけた蟹を一緒に食おうと約束した、あの夜のぬくもりはどこにもない。
「……駆け落ち、だと? 笑わせんじゃねぇよ」
中也の声は、怒りに震えていた。 けれど、その怒りは向ける先を失い、自分の内側を切り裂くだけだ。
「あんなに、普通に過ごしてたじゃねぇか。二十五にもなって、落ち着いたふりして……。俺の部屋で、ふざけた落書きして……」
太宰は、中也に「未来」を見せていた。 フョードル戦が終わった後の、戦いのない、穏やかな二十五歳の生活。 蟹を食べて、くだらない喧嘩をして、朝を待つ。 そんな普通の人間のような幸せを、中也にだけは信じ込ませていた。
だが、太宰治にとって、それはただの「お遊び」に過ぎなかったのだ。 死ぬまでの、ほんの短い暇つぶし。 あるいは、中也という光に、最期まで自分の「闇」を悟らせないための、最高傑作の演技。
「……卑怯なんだよ、お前は。いつも、いつも……!」
中也は太宰の頬を、叩くこともできず、ただ優しく、呪うように撫でた。 その指先には、もう二度と戻らない体温の記憶だけが残る。
太宰は、中也を遺して逝った。 愛する女と心中するという、最も彼らしい「嘘」を纏って。 中也の中に「共に生きた日常」という消えない傷跡を残したまま。
一週間後。 中也のセーフハウスには、まだ蟹の空き缶が置かれたままだ。 味の素の瓶も、カウンターの隅で埃を被り始めている。
中也は、太宰が残したあの落書きのコースターを、灰皿の中で燃やした。 炎が、下手くそな中也の似顔絵を飲み込んでいく。
「二十五か。……長生きしすぎたな、お前も俺も」
中也は、一人でワインを煽った。 喉を焼くアルコールの刺激が、自分がまだ生きていることを教えてくれる。
太宰治は、もういない。 横浜のどこを探しても、多摩川の底を浚っても、あの厭世的な声が「中也」と呼ぶことはない。 残されたのは、太宰が最後まで演じきった「平和な日常」の残骸と、味の素のピリつくような、安っぽい後味だけだった。
「……次は、俺が奢る番だったのによ」
中也は、空になったグラスを床に転がした。 カラン、という虚しい音が、静まり返った部屋に響き渡った。