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無事に電話がつながって欲しい
「雪日、ママとずっと一緒にいようね」
ケージの掃除をした後で、移動用キャリーの準備をしながら、結葉は自分をまん丸な目で見上げてくるハムスターの雪日に声をかけた。
こうしていると、かつて想の妹・芹から譲り受けた初代のハムスター・福助のことを思い出す。
雪日は偉央が連れ帰ってきたハムスターだけど、結葉の中では何故か想や両親の思い出と繋がって。
監禁生活のなか、結葉の心が平常に保てていたのは、雪日の存在があったからに他ならなかった。
今日は足枷が外されているから、いつもより心も身体も軽く感じられる結葉だ。
ただ、偉央は結葉が思うほど甘くはなくて――。
部屋の暖房がいつも以上に高めに設定されて稼働しているのは、結葉が下着以外身につけることを許可されていないからだ。
部屋中を探してみたけれど、足枷が外されたと同時に結葉の服はこの家の中から消えていて。
そればかりか偉央の服もクローゼットに一着も残されていなかった。
結葉が下着姿では外には出られないと偉央には分かっているのだ。
でも――。
結葉はこのチャンスを逃す気はない。
お風呂場からバスタオルを持ってきて、膝の上に載せたまま、黙々と雪日を連れ出す手筈を整えている。
このマンションは、下に降りれば日中ならば女性のコンシェルジュが二名常駐しているはずだから。
結葉はそれに賭けることにしたのだ。
もしも今日に限って男性コンシェルジュだったら……と考えると怖かったけれど、それはそれで開き直ろう、とも思った。
頭の中でエレベーターに乗り込んでロビーに向かうまでの道のりを何度も何度も思い浮かべて。
結葉は雪日を移動用キャリーに移すと、使い捨て懐炉とともにトートバッグに入れた。
身体にしっかりバスタオルを巻き付けて、書類を束ねるクリップで留めて。
キッズ携帯は、もしも偉央から連絡があった時に備えてロビーまでは持って行こうと雪日のキャリーが入っているトートバッグに押し込んだ。
時計を見ると午前九時四十分。
診察が始まって間もない時間帯だから、きっと偉央は診察室に詰めているはずだ。
ギュッと拳を握り締めると、結葉は結婚して初めて。明確に偉央の意志に逆らった。
優柔不断で流されやすい結葉だったけれど、終わりの見えないこの監禁生活だけは――どうしても耐えられなかったから。
***
結葉は雪日の入ったトートバックを抱えて玄関を抜ける時、出がけに服装をチェックするために壁に取り付けてある大きな姿見の前を通った。
そこにはブラジャーとショーツ、そしてスリップのみの上にバスタオルを巻つけただけの自分の姿が映っていて、正直この格好で外に出ることに怯みそうになった。
(コートの一着でもあれば良かったのに)
そう思いはしたけれど、あの用意周到な偉央がそんな失敗をしているはずがなくて。
(頑張らなきゃ)
結葉は雪日の入ったトートバックを持つ手にギュッと力を込める。
そーっとドア扉を開けて、首だけ出す様にして共有スペースに当たる内廊下を見る。
このタワーマンションの内廊下は、ホテルの廊下みたいにカーペット張りになっていて、歩いても足音がしない仕様になっている。
結葉たちの住む部屋は廊下の突き当たり――エレベーターまで一直線の場所にある角部屋だったから、エレベーターに行き着くまでの間にいくつもの部屋の前を通り抜けなければいけない。
意を決して外に出たあとで、どこかの家の扉が開いて誰かが出てくる可能性を考えると足が震えて仕方がない結葉だ。
もっと言えばタワーマンションの上層階に住んでいる結葉にとって、エレベーターがどこに止まっているか、でかなり待ち時間が異なることも気になってしまう。
仮に運よく誰にも出会わずエレベーターが呼べたとして、中から人が降りてこない可能性もゼロではなかったし、エレベーターに乗った後にしても、他の階から誰かが乗り込んでこない可能性もないわけではない。
一階に着いてからエレベーターホールに足を踏み出した時、ロビーにコンシェルジュ以外の誰かがいることだって十分に考えられた。
エレベーターからまるで風呂上がりの様な格好をした女性が飛び出してきたら、きっとみんな何事かと思うはずだ。
下手したら通報されかねない。
でも――。
それでもそんな諸々のリスクを冒してでも、自分はこのミッションを遂行しなくてはいけない、と思って。
もしもいま勇気を振り絞らなかったら、偉央の呪縛から逃れられる日は一生こない気がしたから。
「雪日、ママ頑張るね」
カサカサと音のするトートバッグの持ち手を肩に掛けると、自分を鼓舞するようにそうつぶやいて、結葉は静かな廊下に足を踏み出した――。
***
幸い上層階の内廊下でも、エレベーターでも第三者に出会うことなく一階まで降りることができた結葉は、箱内で「開」のボタンを押したままロビーの様子を探って。
(良かった。誰もいない)
死角になっている位置については絶対とは言えないけれど、少なくとも目視できる範囲に人影はなかった。
ふぅーっとお腹の底から出し切るように空気を吐き出すと、結葉はエレベーターから外に出る。
雪日の入ったトートバッグを胸前に抱える様にして、なるべく自分の格好が隠れる様に無駄な足掻きをしながら、小走りでコンシェルジュのいる入り口正面のカウンターを目指した。
(女性だっ)
視界に飛び込んできたカウンター内、常駐している二名のコンシェルジュは結葉が願った通り女の人だった。
いつも沈着冷静なコンシェルジュたちが、自分達の方へ向けて走ってくる結葉の姿を認めた途端、瞳を見開いて立ち上がったのが分かった。
(驚かせてごめんなさいっ)
結葉が彼女たちの立場だったとしても、きっと同じ反応をしたと思う。
結葉は羞恥心と、もう少し!という安堵感で泣きそうになるのを必死に堪えながらカウンターまで行って。
「こっ、こんな姿でごめんなさい! ……あのっ、お願いします。な、何も聞かずにお電話を貸してくださいっ」
そう涙目で訴えた。
コンシェルジュのひとりが慌てた様にカウンターから出て結葉のそばまで駆け寄ってくると、「とりあえずそこは目立ちますからこちらへ」と結葉の身体を包み込む様にして手を引いてくれる。
彼女――胸につけられたネームプレートには「斉藤」と書かれていた――が結葉を連れて行ってくれたのはコンシェルジュ達が休憩などに使っていると思しき控え室で。
「これ、予備の制服なんですが、よろしければ」
そう言ってクリーニングの袋に包まれた、彼女が着ているものと同じ制服を手渡してくれた。
何も聞かずにそこまでしてくれる斉藤のことを、結葉は女神様のようだと思って――。
「電話はそこにあるのを使ってください」
部屋の片隅に設置された電話機を指差す斉藤に、結葉は「あり、がとう、ございます」とお礼を言いながら、ホッとして抑え切れなくなった涙をこぼす。
斉藤は、きっと結葉が偉央と結婚していて、二人で上層階に住んでいることを把握しているはずだ。
だけど「ご主人に連絡しましょうか?」とかそういう類いのことを一切口にしなくて。
もしかしたら結葉の姿を見て、何となく事情を察してくれたのかも知れない。
でも根掘り葉掘り色々問いただそうとしてこない彼女の姿勢に、結葉はただただ感謝の気持ちで一杯になる。