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これは『スノードロップ』前日譚の後編です
ぜひ本編、前編を読んでからご覧ください
その日も、ハーロルトは寝付けなかった。カーテンを閉じた部屋の中で、目を開けているのか閉じているのかも分からない。闇に浮かぶ影がゆらりと形を変えた。それはまるで自分に取りつく悪魔のようにも見える。握りしめた掌から、濡れるような感覚が蘇った。血の、あたたかい、重たい感触。指を開いても閉じても、それは離れない。
ハーロルトはゆっくりと立ち上がり部屋を出た。誰にも見つからないよう、静かに廊下を歩く。
やがて、洗面所の前までたどり着いた。震える手を抑えながら扉を開ける。洗面台に立つと、ハーロルトは蛇口をひねった。冷たい水が流れ落ち、両手を濡らす。何度も、何度も擦るように洗った。爪の隙間をこすり、手の甲を叩き、手首を握り締める。それでも、落ちない。
血の感触が、こびりついて離れなかった。殺した兵士たちの顔が、泡の間から浮かんでは消える。
「違う……俺は……。」
洗面台の鏡に映る自分を見た。そこにいたのは英雄でも軍人でもない。まるで悪魔のような醜い姿だった。再び水を出す。流れる水の勢いは次第に激しくなり、床を濡らした。彼は構わず両手をこすり続ける。皮膚が赤くなり、やがて痛みが走っても止められなかった。
水面に映る自分の手が、黒く染まっていく。血の色ではない。闇そのもののような黒。
ハーロルトの足は、自然と別の場所に向かっていた。食堂を通り過ぎ、滅多に入ることのないキッチンへと足を踏み入れる。片隅に置かれた包丁に視線が移る。細く、しかし鋭い。
「この手さえ無ければ……。」
彼はそれを手に取り、手首に当てた。冷たい感触が、熱を失った心に染みていく。もう誰も救えなくてもいい。
「誰だ!」
鋭い声が闇を裂いた。振り返ると、扉の前に兄が立っている。
「兄様、どうしてここに……。」
「なんだ、ハーロルトか。水を飲みに来たんだが、物音がして──」
包丁の刃先が、わずかな光を反射した。兄はすぐに駆け寄り、ハーロルトの腕を掴む。包丁は床に落ち、硬い音が夜の静寂に響いた。
「離してください……!」
「駄目だ。お前、今何をしようとしていた?」
「兄様には関係ありません。」
ハーロルトの肩を強く掴む。
「関係あるに決まっているだろう。俺はお前の兄だ。」
その声は、少しの悲しみを孕んでいるようにも聞こえた。
「……私の両手は、きっと悪魔に奪われてしまったんですよ。いや、手だけじゃない。耳も、目も、口も、何もかも。」
「悪魔?」
「手を洗っても血は落ちないし、誰かの悲鳴が頭の中で鳴り響く。夜空の星が私を恨む瞳のようで恐ろしい。もしかしたら、神がお怒りなのでしょうか。だから私の体を悪魔に乗っ取らせようとしている。多くの命を奪った男を、この世から消そうとしているんです。」
「お前は悪魔なんかじゃない。国を救うために立派に戦った。」
「救う?何をですか?」
ハーロルトは嘲笑うかのような表情を浮かべる。
「国を救うために国民を殺すなんて本末転倒ではありませんか。」
兄の顔が強張る。それを隠すようにゆっくり息を吐き、静かに言った。
「とにかく、今日はもう遅いから休め。夜だと悪い考えしか浮かんてこない。朝になったらもう一度ゆっくり話そう。」
「……。承知いたしました。」
翌朝。屋敷の窓から射し込む光は、まるで何事もなかったかのように穏やかだった。だが、兄の胸中には昨夜の光景が焼きついて離れなかった。包丁の冷たい音、震える弟の瞳。あのまま放っておけば、取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
食堂に入ると、すでに父が席についていた。
「おはようございます、父様。」
「ハーロルトはまだか?」
「……すぐに来ると思います。」
彼は短く答え、湯気を立てる紅茶に目を落とす。扉が開くと、ハーロルトが現れた。顔色は悪く、目の下には深い影ができている。
「おはようございます。」
「どうした、顔色が優れないようだが。」
「少し、眠れなかっただけです。」
父は紅茶を一口飲み、しばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「きちんと体調を整えてもらわねば。やることはまだまだあるのだぞ。」
「父様……。」
兄は一度ハーロルトを見てから、意を決したように言った。
「父様。お話がございます。」
その声には、昨夜から続く不安と決意が滲んでいた。父はその気配を感じ取り、静かに紅茶のカップを皿の上に置く。
「なんだ、改まって。」
「ハーロルトのことです。」
父の眉がわずかに動いた。ハーロルトは目を伏せたまま、動こうとしない。
「どうした?」
「……ハーロルトは、心身ともに限界です。昨夜、様子を見に行ったときも、ひどく取り乱していました。戦の後遺症かと。」
父は重く息をつき、背もたれに体を預けた。
「それで?」
「そこで1つ提案がございます。ここから離れた土地でしばらく休ませるのはどうでしょう。」
兄の言葉はまっすぐだった。
「空気のいい場所で静かに過ごせば、少しは楽になるかもしれません。首都の喧騒に戻るには、まだ早いと思うのです。」
父は沈黙したまま、しばらく紅茶の表面を見つめていた。波ひとつ立たない液面に、老いた顔が揺らめいて映る。
「……英雄が、か。」
その一言に、深い疲労とわずかな苛立ちが滲んでいた。
「父様……?」
兄が呼びかけると、父はゆっくりと椅子から腰を上げた。
「分かった。お前の言う通りにしよう。」
父はハーロルトのほうへ目を向けた。その眼差しには、父親の温かさではなく、一族の当主としての冷ややかさが宿っていた。
「お前はギッターの名を背負う者だ。人を導き、国を立て直す責務がある。……だが、今のお前は見る影もない。」
「……申し訳、ございません。」
深く頭を下げるハーロルトを横目に続ける。
「お前がどれほどの苦しみを抱えていようと、時間はそれを待ってはくれん。人々は“国の英雄”を求めている。弱者ではない。」
沈黙が落ちた。ハーロルトは拳を握りしめ、何も言えずに俯いた。兄が口を開く。
「父様……ハーロルトは、戦場で誰よりも国のために戦いました。どうか、今だけは──」
「分かっておる。」
父はそれを遮り、短く息を吐いた。
「だからこそ、見逃すわけにはいかん。今ここで、立ち直らせねばならんのだ。」
窓から差し込む朝の光が、父の背中を照らす。その温かな光は、影だけを長く伸ばしていった。
「北の別邸を使え。あそこなら人の目も少ないし、戦場にもなっていないから好都合だろう。」
「……ありがとうございます。」
ハーロルトの声は小さく、どこか遠くから響くようだった。
コメント
2件
ああ…ハーロルトさん…………😭😭😭 北の別荘に住んでた理由が分かりましたね、よかった よくねーよ!!