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仁「えっ、塩﨑……!? 何でお前がここに……!」
オフィス街の片隅にある、やや高価な和食居酒屋の個室。
日本酒のグラスを傾けていた仁人は引き戸が開いた瞬間に現れた人物を見て、思い切り声を裏返した。
そこに立っていたのは紛れもなく太智だった。
その目は笑っているようで、全く笑っていない。
太「あはは、偶然ですね。俺もこの近くで飲んでて、吉田さんのバッグにGPSでもついてんのかなってくらい、吸い寄せられちゃいました」
仁「いやいやいや…!笑えねぇって…!」
焦る仁人を無視して、太智は当たり前のように仁人のすぐ隣、神崎の正面にあたる席へ滑り込んだ。
太智の肩が仁人にぴったりと密着する距離感。
神「ほう…お前が吉田のところの若手エース、塩﨑くん? ……悪いけど、今夜は同期水入らずで積もる話があるんだよね」
正面に座る神崎が不愉快そうに目を細めて太智を牽制した。
だが、太智はそれをへらへらとした笑みで軽々と受け流す。
太「知ってますよ、神崎さん。でも、俺この人に行かんといてって言うたのに置いていかれちゃったから、寂しくて追っかけてきちゃいました」
太智の声が不意に低く甘い関西弁に変わる。
テーブルの下で太智の大きな手が仁人の大腿をギュッと強めに掴んできた。
置いていった罰と言わんばかりの無言の怒りと執着が、掌の熱から伝わってきて、仁人の背筋がゾクっと跳ねる。
仁「っ、お前……!何言って… 」
神「ほら、吉田が嫌がってるだろ。な、そうだよなぁ?」
神崎がすかさず仁人を庇うように身を乗り出す。
その手がいかにも自然な動作で仁人の手首に伸びようとした、その瞬間。
バンッと激しい音を立てて、太智がテーブルに手をついた。
太「神崎さん」
太智の目が暗く猛獣のように鋭く神崎を射抜く。
いつもオフィスで見せている茶目っ気のある優秀な部下の仮面は、もう跡形もなく消え去っていた。
太「吉田さんは、俺の上司です。……でもそれだけやないんで。他の男が気安く触ってええ人じゃないです」
神「……へえ。ただの部下のセリフにしては、随分と生意気だな」
太「生意気で結構です。俺、狙ったものは誰にも譲らんって決めてるんで。同期の思い出話なら俺のいる前でも話せますよね?聞かせて貰えます?」
バチバチと激しい火花が散る。
個室の狭い空間に男二人の独占欲とプライドがぶつかり合う、息詰まるような緊迫感が充満した。
仁「ちょ、ちょっと2人とも待て……!」
仁人は真っ赤になった顔を隠すように、慌てて二人の間に割って入った。
オフィスで突き放したはずなのに、執念で追いかけてきた太智の熱量に、脳内のキャパシティが完全にオーバーしている。
仁「塩﨑、お前酔ってるだろ。神崎も煽るな!」
太「俺全然酔ってないですよ、吉田さん。まじでほぼ素面」
太智は仁人の方を向くと神崎に見せつけるように仁人の腰に手を回し、至近距離でその顔を覗き込んできた。
耳元に吹きかけられる熱い呼吸。
太「ここ出たら帰さへんから。……覚悟しといてな?」
仁人は何を言っているんだと太智を一蹴しつつ、煩く跳ねる鼓動を押さえつけるのに必死になっていた。
昨夜の居酒屋がどうやってお開きになったのか、仁人はあまり記憶にない。
ただ神崎の呆れたような顔と、最後まで仁人の腰をがっちり抱いて離さなかった太智の大きな手の熱だけが、今も皮膚に残っている気がしてならなかった。
そして恐らく…太智から逃げた。
帰さないだなんて恐ろしい言葉を告げられて、逃げないわけにはいかなかった。
振り切って逃げるようにタクシーに乗り込んだ…と思われる。
そんなこんなで最悪の朝がやってくる。
仁(……気まず過ぎるだろ、)
午前10時のオフィス。
仁人はパソコンの画面を見つめたまま、微動だに出来ずにいた。
太智はといえば、いつも通りに涼しい顔で電話対応をこなし、仕事を着々とこなしている。
太智は出社してからずっと完璧な優秀な部下の顔をして、仁人とも事務的な会話しか交わしていない。
それが逆に嵐の前の静けさのようで仁人の心を波立たせた。
パサ、とデスクに書類が置かれたのは昼休憩の直前だった。
太「吉田さん。神崎さんの部署から回ってきた、今期の合同プロジェクトの共有資料です。チェックお願いします」
仁「えっ……あ、あぁ。ありがとう、塩﨑」
ビクッと肩を跳ね上げた仁人に、太智は表情を変えない。
オフィスには他の社員も大勢いる。太智は「失礼します」と綺麗に一礼して去ろうとした。
その瞬間だった。
仁人の視界の端で太智の左手が動いた。
他の社員からは死角になるパーテーションの陰。
47
#そのじん
笑う門には福来る
3,366
つぶ
188
さしいす
3,273
太智は仁人のデスクに置かれたペン立てを直すフリをして、その左手の甲に自身の指先をつぅ、と這わせた。
仁「っ……!?」
声になりかけた悲鳴を、仁人は必死で喉の奥に押し込んだ。
驚いて見上げると、太智は周囲にバレない絶妙な角度で、仁人にだけ分かる不敵な笑みを浮かべていた。
その目は完全に「昨日逃げたこと、許してへんから」と物語っている。
太「……吉田さん、午後から資料室の棚卸しですよね。重い書類もあるみたいなんで、俺も手伝いに行きます」
仁「いや、一人で大丈夫だか……」
太「上司のサポートをするのは、部下の役目ですから」
太智はそう言って、今度はふっと鼻にかかった甘い声色で「な?」とだけ囁き、そのまま何事もなかったかのように自席へ戻っていった。
残された仁人は太智の指先が触れた手の甲がカッと熱くなるのを感じながら、真っ赤になった顔を隠すように片手で覆った。
午後14時、社内の最奥にある資料室。
薄暗く、背の高いスチール棚が迷路のように並ぶこの場所は普段から滅多に人が来ない。
仁人はバインダーを抱えたまま、敢えて一番奥の棚の陰で作業をしていた。
昨夜の修羅場と午前中のオフィスでの指先と目配せ。
気まずさと恐怖で心臓がずっと煩い。
ガチャ、と静かに扉の開く音。
ビクッと肩を跳ねさせ、仁人の背筋に冷たい戦慄が走った。
太「……吉田さん」
低く響く太智の足音。
いつも着崩しているジャケットを脱ぎ、白いシャツの袖を腕まくりした太智が棚の角から姿を現した。
その目は完全に昨夜獲物を逃した猛獣のそれだった。
仁「塩﨑……っ…」
太「ねぇ、吉田さん。昨日の夜、何で俺から逃げたん?」
一歩、また一歩と詰め寄られ、仁人は堪らず後ろに下がったが、すぐに背中が冷たいスチール棚にぶつかった。
ドン、と仁人の顔の真横に太智の手が突かれる。
仁「神崎の前であんなこと言うなんて…お前が異常なんだよ! 会社での立場も考えろ!」
仁人は必死に上司としての威厳を保とうと声を張り上げた。
けれど、太智の胸元を押し返そうとした両手首を、太智の片手で纏めて壁に縫い付けられる。
仁「っ、離せ……っ!」
太「離さへん。昨日帰さへんって言うたのに、先に逃げたんは吉田さんやん。俺、めっちゃ怒ってんねんで?」
至近距離。
太智の熱い呼吸が直接肌を打つ。
太智は空いた手で、仁人の眼鏡のフレームをそっと指先でなぞり、そのまま顎を強引に上向かせた。
逆らえない圧倒的な力。
仁「……お前、俺は上司で、男で……っ…」
太「そんなんもう聞き飽きた。神崎さんに触られそうになった時、吉田さんそんなに怒ってへんかった。俺にだけ冷たくして、他の男の誘いには乗るんや?」
太智の目が嫉妬と独占欲でドロドロに濁っていく。
その生々しい気配に仁人の脳内はショート寸前だった。
仁「ちがっ……! あれは、ただの同期で……お前はいつも距離感バグらせてくるし、俺がどれだけ意識してると……っ、!」
焦りのあまり、本音をポロッと溢してしまった仁人は、ハッと息を呑んだ。
その瞬間、太智の口元が不敵に、けれど最高に嬉しそうに歪んだ。
太「……へぇ、めっちゃ意識してくれてたんや。ならもう逃げられへんね?俺と付き合ってくれるって思ってもええ?」
仁「……っ、付き合うかどうかは……今週末のデート……いや、コンペの打ち上げのお前の出方次第だ!」
仁人は真っ赤になった顔で必死に声を張り上げた。
これ以上間合いを詰められたら本当に上司としての尊厳が霧散してしまう。
太「出方次第?」
太智の手の力が、ほんの少しだけ緩む。
仁「今週末、部下としてじゃなくて、一人の男として俺を完璧にエスコートしてみろ。お前の本気度がどれくらいのもんか、俺が上司として査定してやるから」
顎を尖らせて必死に優位に立とうとする仁人。
付き合わないとは言わずに査定すると言ってしまうあたり、既に太智の懐に深く入り込んでいる証拠なのだが、本人は上司としてのプライドを保てたと思い込んでいる。
そんな仁人の必死の抵抗を太智は黙って見つめていた。
またいつものように「えー、厳しいなぁ」とへらへら笑うかと思いきや、太智は仁人の手首を掴んでいた手をゆっくりと離し、その代わりに仁人の耳元へ指先を滑らせた。
太「……へぇ、なるほど?」
トーンの落ちた低く艶のある声。
太智の瞳からお調子者のオーラは完全に消え去り、そこにあるのは完全に狙った獲物を仕留めにかかる男の目だった。
至近距離でその視線に射抜かれ、仁人の背筋を鋭い戦慄が駆け抜ける。
太「俺、ビジネスのプレゼンも得意やけど、プライベートのプレゼンはもっと自信あるで。俺が本気出したら吉田さん腰抜かすかもなぁ」
仁「誰が腰抜かすか……っ…!ほら、もうデスクに戻れ!」
仁人はそれ以上太智の顔が見られなくなり、バインダーで顔を隠すようにして逃げるように資料室を飛び出した。
翌日からのオフィス。
気まずさは最高潮に達していたが、それ以上に、二人の間にはこれまでとは違う種類のヒリついた空気が流れていた。
太智は昨日までの焦りや嫉妬が嘘のように、完璧に落ち着き払った優秀な部下に戻っていた。
仁(……あいつ、週末何する気なんだよ……)
時折、フロアの向こうからパーテーション越しに視線が合う。
その度、太智は他の社員には見えない絶妙な角度で、口元だけで不敵に弧を描いてみせるのだ。
まるで週末のタイムラインを完璧にシミュレーションし終えたかのような、絶対的な余裕の笑み。
冷たく突き放して時間を稼いだはずなのに、寧ろ自分で自分の首を絞めてしまったのではないだろうか。
デスクの卓上カレンダーを見つめるたびに、胸の奥が痛いほど脈打つ。退勤時間を指す時計の針が、これほどまでに待ち遠しく、恐ろしいことはなかった。
上司のプライドをかけた初めてのデート(仮)まで、あと3日。