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私が落ち着くまで、黒崎さんは何も言わず抱きしめてくれた。
心が麻痺していなければ、好きな人に抱きしめられているということはすごく嬉しいことだと思う。
せっかく黒崎さんが抱きしめてくれたのに、ドキドキするという感覚がなかった。
でも、抱きしめられて落ち着くことができたのは間違いではない。
リビングに戻り、消毒をしてもらう。
「い……!」
消毒は、想像以上に沁みた。
私が苦痛に歪む顔を見て
「すみません。もうちょっと我慢してくださいね」
そう言いながら彼は、消毒と軟膏、ガーゼ、包帯などの処置をテキパキと施してくれた。
黒崎さんの職業が何かわからなかったが、医者か看護師ではないだろうかと思うくらい手際が良い。
「はい。終わりました」
大袈裟ではないかと少し思うくらい、身体の至るところに包帯が巻かれた。
これから一人できちんと巻けるだろうかと不安に感じる。
「あ……」
ありがとうと言いたくても、声がでない。
「どういたしまして」
彼はほほ笑んでくれた。
「今、温かい飲み物を淹れますね」
キッチンに立った黒崎さんをぼーと見ていた。
黒崎さんが淹れてくれた紅茶を飲む。
「おい……」
おいしかった。
「それは良かった」
黒崎さんも、自分用に珈琲を淹れたみたいだった。
「愛ちゃんは美味しい珈琲屋さんで働いているから、たまには紅茶がいいかなと思ったんですが、珈琲の方が好きでしたか?」
私が黒崎さんの珈琲を見ていたからか、こっちの方が良かったですか?と聞いてくれた。
私は首を横に振った。
珈琲専門店のカフェでアルバイトをしているが、どちらかと言うと紅茶の方が好きだった。
でも、どうして黒崎さんは私がカフェで働いていることを知っているんだろう。LINNで伝えた記憶もない。
あとで声が出るようになったら、聞いてみよう。
黒崎さんとゆっくり話がしたいけれど、声も出ないし、精神的にも余裕がない。
今日の経験は、ずっと心の中に残ってしまうだろう。それを抱えながら生きていかなければならない。
時間が経てば、忘れられるのかな。本当に黒崎さんが来てくれ、助けてくれて良かった。
私は優菜に繋げたはずなのに、どうして黒崎さんが来てくれたんだろう。
慌てて、スマホの取り出しLINNの履歴を見る。
優菜の画面で通話ボタンを押したはずが、黒崎さんにかけてしまったみたいだ。履歴からわかった。
私の行動を見て、黒崎さんは
「愛ちゃんから電話がきて、どうしたんだろうと思って電話に出たら、会話が聞こえてきました。しばらく聞いていたら危ない雰囲気だったので、何か事件に巻き込まれていると思ったんです。実は警察にも通報をして、事情を話したんですが、全く話を理解してくれませんでした。会話の中から木洩れ日公園という場所が聞こえてきたので、すぐ向かいました。もっと早く俺が着いていればと思い、後悔をしています」
なぜ謝るの?迷惑をかけたのは私の方なのに。
LINNで黒崎さんにメッセージを送る。
<迷惑をかけたのは、私の方です。あの時は必死で、友達に繋がればと思い、通話ボタンを押しました。黒崎さんが謝ることじゃないんです。助けてもらえて良かった。本当にごめんなさい>
「悪いのは、愛ちゃんじゃありませんから」
黒崎さんはなぜか悲しそうな表情だった。
心から悔やんでいる、そんな顔だ。
時計を見ると、二十三時を過ぎていた。
「もうこんな時間になってしまいましたね。車で送って行きます」
そう言って、黒崎さんはソファから立ち上がった。
もうこんな時間なんだ。
誰もいない部屋に一人、帰らなければならない。
川口さん《あの人》は私の家を知らなかったからわざわざアルバイト先まで来ていただろうし、私の家まで来て襲ってくることはないだろう。
冷静に考えられる自分に戻ることはできたかもしれないけれど、正直まだ怖い。
生まれてから、誰かに一緒にいてほしいと思っても我慢をしてきた。誰かを頼ることは、考えてはいけないことだとどこかで自分を抑えていたからかもしれない。
一人は怖い。だけど、私が我慢をすればいいだけの話。これ以上、黒崎さんに迷惑をかけられない。
彼だって明日は仕事だよね。早く休まなきゃいけないのに。
立ち上がった黒崎さんの後を追う。
私はリュックを持ち、帰る準備をした。
「行きましょうか?」
そう黒崎さんに声をかけられて、玄関へ向かう。
「……!」
私は、玄関で靴を履こうとした黒崎さんの背中のワイシャツを咄嗟に掴んでしまった。