テラーノベル
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昔から、ハヅキは俺の大切な存在だった。
俺の家は貧乏だった。俺が15歳、ハヅキが5歳という幼い年齢で両親に捨てられ、数年が経った今でも俺達兄弟は常に二人が残した借金の返済に追われている。
最初の方は祖父母が遺した分の金銭があったが、それもすぐに底をつく。俺が働かないと、二人で生きていけるようにしないと。そう追い詰められた俺は「サツキは目指してる夢があるのに、いいのか?」と教師たちに止められながらも高校を行かない選択をした。目指していた夢は諦めないといけないことになって凄く辛かったけど、そんな辛いときでもハヅキは俺の隣にいてくれた。俺の隣で笑ってくれていた。
両親がいなくなって10年がたった今でもそれは変わらない。ハヅキは、俺にとって唯一の救いだった。
「ただいまー。」
重い鉄扉を開く。当たりはもう空を彩り始めていて、静かな空気が流れている。少しジメっとした風に不快感を覚えつつ鍵を締めると、部屋にいる一人が唸り、起き上がる。
「兄ちゃん、おかえり」
「ごめん、起こした?」
「……いや、話あってさ、帰ってくるまで起きてたんだ。」
ハヅキは目の下に隈を作り笑う。俺は眉を顰める。何かは分からないが、こんな時間まで起こしてしまった事に申し訳無さを感じる。その様子の俺を気にしないようにハヅキは畳んだ机を立てる。その間、近くに折り畳まれた新聞紙に目を移す。そこに写されている見出しには「競馬の結果」「来週の天気」「行方不明事件」「人身売買への政策」など、様々なものが書かれている。そうしていると、ハヅキは俺を向かいに座らせるように促し話し始める。
「……俺、高校行くのやめるよ」
「……は?」
ハヅキは無念の表情をする。こうなるのも理由がある。ハヅキには昔からの夢があった。様々な人々を助ける医者になること、ずっと願っていた。
幸いにもハヅキは優秀で、学校からも県内の高校の医進コースを勧められているくらいで、本人もそれを望んでいた
「なんで?ずっと高校行きたいって言ってたじゃん。しかもハヅキのレベルだったら楽勝って、先生も言ってたのに。」
俺の言葉にハヅキは哀しい表情を見せる。そして申し訳無さそうに呟く。
「……だって、あそこ私立じゃん。うちから通えて医進コースある高校ってあそこだけだし。」
「公立ですら怪しいのに、通えるわけ無いじゃん。」
唖然とする。
(ああ、ハヅキはもうこんなに考えられるようになって。)
(情けないな、俺。)
言葉も出ないまま立ち上がる。
「あ、兄ちゃ……」
「風呂入る。もう寝ろ、明日に障るぞ」
逃げるようにして脱衣所の扉を閉める。風呂から上がると、ハヅキは二人分の寝具を引き、眠っていた。
なんともやるせない感情が広がる。俺は軽くハヅキの頭をポンポンと撫で、台所に向かって自分の分の軽食とハヅキの朝食を作り始める。これは俺にとっての数少ない習慣だった。
いつだってかっこいい兄ちゃんでいたかったから。
そんな偽善を抱え、目を閉じた。
限界だった。
碌でもない親の下に産まれ、苦労を強いる生活に。
毎日毎日大変そうな兄ちゃんを見るのは辛かった。そのくせ俺に気を遣い、自分の食べる量すらこっそり減らしていた兄ちゃんに何かしてあげたいと思って、俺は隠れて年齢を誤魔化しちまちまと仕事をしていた。
それでも、幸せだった。
兄ちゃんが一緒にいてくれるなら、どんなに辛くても一人じゃなかったから。俺と話す時だけは笑ってくれる兄ちゃんがいたから。それだけでよかった。
少し揉めてしまうこともあるが、それだって兄ちゃんへの甘えの表れなのは分かっている。でもそれもいつか兄ちゃんに返せたらなって、思ってた。
兄ちゃんと揉めてから1ヶ月ほど経った頃。
兄ちゃんは姿を消した。
茹だるような暑さが燃ゆる朝。なんだか嫌な寒気がして目が覚めると、いつも俺が起きる頃には眠っている兄ちゃんがいない。最近は仕事で家に帰らないときも多かった兄ちゃんだが、なんだか異様な雰囲気だ。その代わりと言うように机に俺の朝食に一枚の紙と封筒が添えられている。今月の給料か?にしては日がおかしいし、いつも通帳に入れられているはずなのに。違和感を感じながらそれを見ると、あまりにも現実離れしたそれに息を忘れる。
『ハヅキへ。
いつも苦労をかけてごめん。ハヅキはいつだって俺を大切にしてくれて、自慢の弟でした。
ハヅキはこれから大変な思いをすると思うけれど、少しでもハヅキの将来に役立てば嬉しいです。サツキ兄ちゃんより。』
脳髄が冷える感覚がする。置かれた封筒を開くと、中には見たことのないような量の大金が重ねられている。涙が止まらなかった。
兄ちゃんの、今はない心臓の鼓動が聞こえるような気がした。
サイレンの音が鳴り響く。8月も真っ只中で焼け焦げてしまいそうなほどの日差しが刺し、アスファルトからは陽炎が立っている。
重いバッグを肩にかける胸には県内でも有名な公立高校の校章が刻まれている。スクランブル交差点の隣の信号機は点滅を繰り返し、赤に変わる。
歩みを進める。湧き出る雫を手で拭いペットボトルで身体を冷やしつつ十数分歩く。見慣れたアパートに足を運び、音が響く鉄製の階段を登る。2つ付いた鍵を鍵穴に挿し込み重い鉄扉を開く。蒸し暑い部屋には誰もいなかった。
制服を脱ぎ捨て脱衣所に向かい、シャワーだけ浴びる。それを終えてリビングに戻り、一つだけ置かれた扇風機のボタンを押す。
「暑ー……。」
敷きっぱなしになっていた敷布団に身体を倒す。そのままぼーっと時を過ごしつつ気付けば相当な時間が経っている。バイトをしているからと言って夏休みで久々の登校日。午前中だけだとしても、身体が怠けてしまっているようだ。
(やば、ゴミ出し忘れてた)
重たい身体を持ち上げ起き上がる。昨日のうちに纏めていたゴミ袋を持って家の外へ出る。外は相変わらず気分が悪くなるほど照らされている。
(……兄ちゃん、あれから1年経ったよ。)
(兄ちゃんもこんな中、俺の為に働いてくれてたのかな。)
(なんて。)
アスファルトは今日も、兄ちゃんのいない世界を燃やし続けている。