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私は、白川邸の長い内廊下を治療室に向かって歩いている。
裏事情を知らない京子は、わざわざ東京に出向いて、時雨に対して実家に戻るよう説得を試みたそうだが、結局、時雨は帰らなかった。
師匠である驟雨は、私に、雨音と時雨が担ってきた雨雲を沸かせる「陰」と、雨を祓う「陽」の二役を担えと命じてきたが、私の実力を考えると相当に荷が重いと言わざる得ない。
その上、雨音の恋人である佐々木敏晴を暗殺したのは私なのだ。
いくら驟雨の命令であったとはいえ、罪悪感が徐々に大きくなって、今では、激しい耳鳴りに悩まされている。
驟雨は、白川流霊枢治療を継げと簡単に言ってくれるが、簡単に継げるほど軽い家柄ではない。
白川流霊枢治療の始まりは、平安時代に年老いた桓武天皇に命じられた最澄が、遣唐使に参加するという名目で唐に渡り、苦労の末に不老不死の法を手にしたにも関わらず、これも遣唐使に参加していた空海に横から手柄を掻っ攫われたそうだ。
本当かどうかは定かでないものの、それが失われた筈の黄帝内経(こうていだいけい)であったといわれている。
そして、始祖である白川伯雨(はくう)は、その黄帝内径を空海から託されると、厳しい自己研鑽(じこけんさ)の末に、白川流霊枢治療を完成させたのだ。
だから、雨を呼び寄せる呪い詞(まじないことば)が陀羅尼に似ていたり、雨を操る際に雨乞印(うこういん)と呼ばれる印を結ぶのも密教の影響を色濃く受けている。
そして、伯雨が白川流霊枢治療を生み出したことで、朝廷での地位が徐々に認められ、遂には、朝廷で最も重要な役職である神祇伯に任じられた。
それに伴い、非皇族でありながらも王号の世襲を許され、当時は絶大な権力を誇っていたのだ。
そして、現在も世界中の要人と繋がりなから、陰でこの国を動かしている。
そんな家を、簡単に「継げる」とは口が裂けても言えないのだ。
そんな重圧を感じているからか、私の耳鳴りはどんどん酷くなってきた。
しかも、父親である驟雨は世界中の政財界に広い人脈を持ち、白川流霊枢治療の名を世界に広めた人物で、兄である時雨は始祖の再来といわれるほどの天才なのだ。
重圧を感じない方がどうかしている。
私が、初めて雨を呼び寄せたのは高校二年生の夏休みだった。
そういえば、あの頃から耳鳴りが始まった気がする…
しかし、師匠である驟雨が初めて雨を呼び寄せたのは八歳だ。
時雨に至っては、四歳で雨を呼び寄せることが出来たといわれている。
自分が如何に凡庸かは、自分が一番よく知っていた。
私は、幼い頃から劣等感の塊だったにも関わらず、誰からも期待されない、落ちこぼれの後継者に祭り上げられてしまったのだ。
その上、時雨には、雨音に対する雨祓いの邪法で、驟雨でさえ唸り声を上げる程の霊力を見せつけられている。
雨音が触れたわずかな血痕から、生前の思念を取り出すなど、本当に可能なのだろうか?
しかも雨音の話では、敏晴の家族や雨音の「雨」の影響で、呪物と化した婚約指輪も一瞬で祓ってしまったそうだ。
その婚約指輪は、捨てられることもなく、今も雨音の指に輝いている。
俄には信じがたいほどの霊力だ。
そして、私がこうして足踏みをしている間にも、時雨はどんどん進化して、私がいくら頑張っても追い付けないほど、先の先を歩いている。
このまま、怒り狂った時雨と事を構えて、自分は生き残ることが出来るのだろうか?
いや、無理だろう。
私が、佐々木敏晴にしたように簡単に始末されてしまう。
何とか、生き残る方法をみつけなくてはならない。
気付くと、長い内廊下の突き当たりにある治療室に辿り着いていた。
白川邸は、広大な池泉回遊式庭園を囲むように建てられている。
その中でも治療室は一番奥の離れに置かれていた。
私が、木戸を引いて暗い治療室に入ると、三人の助手が治療の準備を整えてから退室しており、雨香(うこう)も十分に焚き込められている。
治療室に残されているのは気を失った患者だけだ。
助手といえども白川家以外の人間が、秘伝である雨祓いを目にすることはない。
患者は金髪の白人女性だが、浴衣を着せられて、軽くウェーブのかかった金髪を右肩から前に垂らしいた。
浴衣の合わせは少し開かれ、白いうなじが露になっている。
そして、丸めた布団を正座にした膝の上に乗せられ、それを抱えるようにこうべを垂れているのだ。
既に、消毒は終わっていた。
私は自分の手を消毒すると、雨(う)を摘んで素早く刺入する。
そして、雨乞印を結びながら呪い詞を唱えると、雨(う)の尻、雨柄(うへい)から煙よりも液体に近い霧が吹き出してきた。
部屋を暗くしているので、雨柄から吹き出した白っぽい霧が行き場を探す生き物のように、空中でクルクルと舞っているのが見える。
禍々しくも幻想的な光景だ。
私は、その雨(あめ)を吸い込みたいという強い欲求に駆られた。
自分の力を試してみたい…
しかし、雨を吸い込めば、普通の人間は数分で雨に取り込まれて死んでしまう。
分かってはいても顔が徐々に近づいていく。
すると、耳鳴りが耐えがたいほど大きくなって、頭の中で高い金属音が鳴り響いた。
こういう現象は以前にも有ったが、ここまで酷い耳鳴りは初めてだ。
まるで、雨に近づいたことで、自分が雨に共鳴しているみたいだった。
不思議に思って、もう少し雨に顔を近づけると、私の身体がそれを拒否するように、酷い頭痛と吐き気が襲ってくる。
しかし、更に顔を近づけてクルクルと回転する雨に触れた途端、耳鳴りや頭痛が消え、何も無い「無」の世界に放り込まれた。
乳白色に煙る靄(もや)の中に、無音の世界が広がっている。
そこに、微かだが砂嵐のようなノイズが途切れ途切れに届いてきた。
更に、そのノイズが徐々に明確になってくると、不明瞭ながらも小さな囁きが聞こえてきたのだ。
その小さな囁きに意識を集中していると、急に、幼い女の子の笑い声が弾けたので驚いてしまった。
患者である少女の、幼い頃の記憶だろう。
所々に意味不明な部分があるものの、どうやら自分が女性警官になったつもりで遊んでいるのだ。
バンバンという拳銃の破裂音を口真似していた。
走り回る娘の近くで父親の声も聞こえている。
鼻歌を歌いながら庭でバーベキューの用意をしていた。
ジュウジュウと肉の焼ける音が聞こえてくる。
そこに、切迫した母親の叫び声が重なった。
娘が、父親の持ち物を勝手に持ち出したことを叱責しているのだが、その声が尋常な怒り方ではないので、驚いた父親が様子を見に走る。
ところが、娘と母親の元に辿り着いた父親が、娘に対して怒鳴り声をあげたので、驚いた娘が持っていた道具を強く握り締めてしまったらしい…
すると、腹の底に響く「ドン」という破裂音が部屋中に響き渡ったのだ。
後は、娘の高い悲鳴と父親の絶叫が交錯していく。
これは、患者である娘が四歳の時、オモチャだと思って遊んでいた本物の拳銃から弾丸が発射され、母親の頭部を直撃するというおぞましい記憶だった。
私は、その声と音だけの生々しい悲劇に圧倒されて、中々、現状を受け入れることが出来ない。
私にも、雨の声が聞こえたのだ。
初めての経験で、聞き取り難い部分もあったが、確かに雨の声が聞こえた。
時雨は、自分の体内に雨を取り込んで、その記憶を手繰ることで魂魄の痼りを浄化させると聞いていたが、私も同じように雨の記憶を手繰ることが出来たのだ。
しかし、そこから魂魄の痼りを浄化させる方法が分からない。
時雨のように、雨を体内に取り込まない分リスクも少ないのだろうが、その代わりに、時雨のやり方を真似る訳にもいかなかった。
このまま諦めて、雨香で雨を焼き祓ってしまうのが一番だと分かっているが、出来ることならこの少女を助けたいとも思っている。
「我が身を守る為に、妹の婚約者を殺害した人間が何を言っているのだ」と言われればそれまでだが、少女の記憶にリンクしたことで、少女の問題に、当事者意識が働いてしまったのだろう。
しかし、理由はそれだけではない。
自らの能力が開花したことで、「助けられるものなら助けたい」という思いも湧き上がってくる。
今までは、自分が何の役にも立たない無能な人間だと思っていた。
だから、他人の不幸を見て見ぬふりで、言われるがまま雨祓いだけを黙々とこなしてきたのに、自分にも雨の声が聞こえて、誰かを救えるかもしれないと思うと、いてもたってもいられない気分になる。
この少女を救いたい…
私は一旦、少女の雨を焼き祓ってから、少女が抱えていた布団を手に取ると、少女を仰向けに寝かせて布団を掛けた。
今は、少女が自然に目覚めるのを待っている。
そして、少女が目覚めた時、最初に掛ける言葉は決まっていた。
これも時雨の猿真似だが、この少女を助けられるのなら、それを恥だとも思わない。
私は、目を覚ました少女に笑顔を向け、英語でこう言うだろう。
「私と少し話をしよう」
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井野匠
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