コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
透き通るような陽射しが、ボロ小屋の内側へ忍び込む。
老朽化した建物ゆえ、風は当然ながら、雨水さえも家主の断り無しに入り放題だ。
ここは貧困街、その一画。
その景観は廃墟と呼ぶのが相応しく、だからなのか、浮浪者が身を寄せ合って暮らしている。
そういう意味では、彼らも一員だ。
異世界から流れ着いた、坂口あげは。
故郷を追放された、エウィン・ナービス。
行く当てのない二人だが、その目的は合致している。
地球への帰還方法を見つけ出すこと。
気の遠くなるような道のりだ。それをわかっているからなのか、現実逃避のように眠り続ける。
貧困ゆえに、この家には目覚まし時計など見当たらない。時計すらも設置されていないのだから、自力での起床は必須事項だ。
黒色のジャージと、紺色のジーパン。この世界のおいては見慣れない服装だが、これらを寝間着にする人間は地球にも少ないだろう。
先端だけが蒼い黒髪。その持ち主が、ゆっくりと瞳を開く。
(ん……、あれ、今……)
引き籠っていた頃から自律神経は乱れており、時刻の予想すら困難だ。
そうであろうと問題ない。
ここはどうやら異世界らしく、環境こそ激変したが、相も変わらず時間に追われる心配はない。
定職についていないだけとも言えるが、彼女がこの国で働くには越えるべきハードルが多すぎた。
先ずは現状把握と情報収集から始めなければならない。
それをわかっているからこそ、昨日はマリアーヌ段丘へ赴いた。
その結果、二人して死にかけてしまうも、こうして帰宅することが出来たのだから、喜びを分かち合いながら彼らは横になった。
地べたの上には緑色のレジャーシートしか敷かれていないため、当然ながら睡眠には適していない。
それでも、心身共に極限まで疲れていたせいか、彼らは夕食も食べずに眠ってしまう。
時は進み、彼女は目を覚ました。
それが今だ。
太陽はウルフィエナを一周し、イダンリネア王国を陽気な朝陽で照らしている。
寝起きのアゲハにわかることは一つだけ。
今日の天気は晴れ。
差し込まれる太陽光を眺めながら、ゆっくりと体を起こす。
(ベッドじゃなくても、わたしって普通に寝られるんだ……)
この世界に転生し、今日で三日目。
初日も二日目もここで夜を明かした。両日共にエウィンとの雑魚寝になってしまったが、命の恩人ゆえ、抵抗は感じていない。
感じる余裕などなかった。正しくはこう表現すべきか。
部屋の隅では、こちらに背を向け少年が寝息を立てている。まだ起きる様子はなく、アゲハとしても無理に起こすつもりはない。
(なんか、食欲ない……。晩御飯抜いちゃったのに……)
寝起きのせいか。
寝過ぎたからか。
十二時間以上は眠り続けたという実感があり、頭の中はモヤがかっている。
いっそ寝直すか。そう考えるも、彼女は寝転がろうとはしない。
それよりも今は情報を整理したい。昨日だけでも様々な経験を積んだことから、頭の準備運動も兼ねて思考を巡らせる。
(うれし、かったな。こんなにもポカポカな気持ちっていつ以来だろう……)
アゲハの心はボロボロだった。
元より気弱な性格な上、自信というものを持てたことがなかった。
心を折られ、他者を拒絶し、最後は焼死。悲惨な生涯を歩んだが、何の因果かこの世界へ転生を果たす。
それでも、心機一転とはいかない。持ち前の性格が変わるはずもなく、無一文な上にここがどこかもわからないのだから、不安に押し潰され苦しんだ。
その涙を見かね、手を差し伸べた少年が傭兵のエウィンだ。
九死に一生を得た。
寝床の提供だけでもありがたいにも関わらず、食事さえも分け与えてもらえた。
優しさに触れ、その手の温もりに暖められた結果、アゲハの心は間違いなく解きほぐされた。
(私の力、神様がくれた力……、役に立ったの、かな)
右手の人差し指をマッチ棒もしくはライターに見立て、その先端に青色の炎を灯す。
それは煌々と揺らぎ、触れた物体を塵一つ残さず燃やすことが可能だ。
この世界で身を守るために、女神が与えた異能。少なくとも、彼女はそう推測している。
(傷を治す力が、もう一つのプレゼント……だと思う)
神は一人ではない。光と闇が溶け合った次元で、アゲハはもう一つの声を聞いた。
ワタシからも贈ろう。恩義に報いるキミの、その優しさに。
意味はわからずとも、これが贈り物ということだけは直感的にわかった。
触れることで傷を癒す異能。
これらを駆使することで、アゲハは恩人を救うことが出来た。
炎と治療。似て非なる能力ながらも、実は発動条件は共通だ。
彼女が手で触れることで、対象に影響を及ぼす。
今回の場合、刺さった矢に触れ、それだけを完全焼却してみせた。
少年に触れ、傷口を塞いだ。
そういう意味では、使い勝手は微妙と言う他ない。
この世界には類似した魔法が存在しており、それらは何十メートル離れていようと効果が発揮するからだ。
劣化品なのか?
そうではないのか?
今はわからずとも、エウィンを救えたという事実がアゲハに満足感を与える。
(心が満たされるなんて、何年振りだろう? 朝陽自体が久しぶり過ぎて、もう、ぐちゃぐちゃ……)
引き籠っていた弊害だ。
外出頻度が極端に少なく、アパートに籠り続けた結果、生活サイクルは完全に乱れてしまった。
夜が更けようと眠くはならず、呆けるように動画サイトを眺めながら、外がいくらか明るくなった頃合いに、気絶するように眠る。
昼頃に起床するも、一日の始まりは自己嫌悪からだ。やることもないため、簡素な昼食を食べ、ゴロゴロと時間を潰す。
唯一の趣味は料理くらい。わずかなやる気を振り絞って夕食の準備に取り掛かる。時間はいくらでもあるのだから、無駄に手の込んだレシピを選んでも問題ない。
夕食のタイミングはそれこそマチマチだ。空腹を感じたら、食べれば良い。
片付けや入浴が済んだ後は、眠くなるまで適当な動画を垂れ流すだけだ。
そのような生活を、何年も続けてきた。
現実逃避であり、自己防衛も兼ねた日常だ。自分の殻に閉じこもっていたと指摘されれば、その通りゆえ言い訳は出来ない。
起きて、食べて、料理して食べて、寝る。
そのような毎日を繰り返していれば、当然ながら体重は増してしまう。
エウィン曰く、太ってはいないらしい。
それでも、あちこちがふくよかになったことは実感している。
とりわけ、胸部と臀部、そして下半身か。
履いているジーパンはハムのようにパンパンだ。
部屋着のジャージも胸が邪魔でファスナーが閉まらない。
大学時代の衣服はその半数が着られなくなってしまった。
もっとも、それらは火事で燃えてしまったのだから、こちらの世界でサイズの合ったものを買わなければならない。
(わたし、日本に戻れるの、かな? お母さんに会いたい……。会って、今までのこと謝りたい)
大学を中退したこと。
それ以降、引き籠っていたこと。
そのどちらにも後ろめたさを感じており、学費と生活費用を工面してくれた母親には感謝してもしきれない。
一度は死んでしまったが、こうして生き返ることが出来たのだから、地球への帰還を望むのは必然だった。
直接会って率直な感情を伝えたい。
娘として。
大人として。
それこそが唯一の親孝行なのだと、彼女は気づくことが出来た。
そうは言っても、前途多難だ。
異なる世界を行き来する術など、現代の地球にも存在しない。
科学がいかに発達しようと、妄想か空想の類だ。
可能性としては、魔法の領域か?
そういう意味では都合が良い。ウルフィエナにも魔法が存在しており、アゲハも転生時に似たような能力を二つ与えられた。
正しくは三つだが、彼女はそれに気づけてはいない。
(焦っても、ダメ。だけど、落ち着いても、いられない。自分一人じゃ、何も出来ないくせに……)
その自覚があるだけ、暴走せずに済んでいる。
彼女は元大学生として知識も教養も持ち合わせてはいるが、それらは地球ないし日本でしか通用しない。
この世界にはこの世界のルールや文化が根付いており、その把握は最優先事項だ。
もっとも、衣食住が何一つ整っていない現状はまさしく浮浪者のそれであり、先ずはそこからの脱却が課題となる。
つまりは、現在の立ち位置はスタート地点だ。
一つずつ、あらゆることを解決しなければ、地球への帰還など願望のまま終わってしまう。
(エウィンさんと一緒に、戻れると、いいな……)
儚い願いだ。そうであると、このタイミングで気づかされる。
(一緒……、一緒? あ、あ、わたし、完全に早とちりしてる! この人は、こっちの世界に住んでて、だから、わたしが日本に戻ったら、そこでお別れ……なんだ……)
魔法の扉が開いて、二つの世界を自由に行き来できるのなら、彼女の望みは叶うのだろう。
そうでなければ、つまりは一度きりの片道切符だったら、二人はそこでお別れだ。
エウィンの同行はありえない。
なぜなら、この少年は傭兵であり、魔物を殺すことでしか生きる術を知らない。
もしも気が変わって地球に移住したとしても、馴染むことなどおおよそ不可能だ。
知識もない。
マナーもルールも知らない。
何より、魔物がいない。
エウィンは戦闘狂ではないのだが、だからと言って平和な日常に馴染めるほど、正常とも言い難い。
殺すことに慣れ過ぎてしまった。
その刺激は余りにも甘美な上、傭兵を続ける間は手放す必要などない。
魔物は人間を襲う化け物だ。
そういった背景から、殺し返すことに大義名分が生まれ、さらには金すらも稼げてしまう。
魔物狩りを生業とする人間が、毎日決まった時間に起床し、満員電車に乗って出勤、定時まで仕事と向かうことが可能だろうか?
慣れれば出来るのかもしれない。
不可能なのかもしれない。
少なくとも、アゲハは困難だろうと推測した。
寝起きを共にして、気づいたことがある。
寝る時間も、起きる時間も、食事のタイミングさえも自由だ。
他者に縛られない生き方が、ここにはある。
引き換えに自身の命を担保にしているのだが、それを差し引いても魅力的な生き方だ。
傭兵。魔物を倒し、生計を立てる社会不適合者。
その内の一人がエウィンであり、貧困にあえいではいるが、その必死さには胸をうたれてしまう。
(お母さんには仕事があるから、わたしなんかいなくても……。だけど、ずっと見守ってくれていた。ううん、今も、もしかしたら……)
アゲハは気づかされた。
昨日の戦闘において、瀕死のエウィンを救いたいと願った際、懐かしい温もりに包まれた。
忘れることはない。母親に抱きしめられた時の安心感、そのものだった。
だからこそのホームシックだった。
帰りたい。
会って謝罪したい。
そう口にしたのだが、願った本人が困惑している現状に、彼女は涙をこぼし始める。
(うぅ、ほんと、わたしってダメダメ。すぐに迷って、うじうじして……。助けてもらったのに、わがまままで言って……。あんなこと、エウィンさんを困らせるだけなのに……)
大きな瞳から零れ落ちる、いくつもの水滴。美しくも儚いそれが少年を救ったのだが、二度目はない。
泣くことしか出来ない自分がさらに嫌いになるも、自己嫌悪にはすっかり慣れてしまっており、今更取り繕うつもりなど毛頭ない。
ただただ受け入れるのみだ。
弱い自分を。
情けない自分を。
挫折が当たり前で、踏み出せない自分が、当たり前。
そう思い込むことで精神を保ちつつ、同時に壊しているのだが、彼女は未だに気づけていない。
今までは一人だった。
自室に籠りっきりだった。
しかし、今は違う。
ここには同居人がいるのだから、当然のように二度目が起こる。
「うわっ! 朝になってる⁉」
死体のように眠っていた少年が、アゲハ同様に体だけを起こす。
同時に悲鳴をあげるも、寝起きにしては整った声だった。
「あ、おはようございます。あれ、どうしました?」
「あ、ううん、何でも、ないの……」
ボロ小屋に二人っきり。
ならば、エウィンは当然のように彼女の異変に気付く。
寝癖も直さず、座り込んだまま、涙で頬を濡らしていた。
その光景を目の当たりにした以上、心配せずにはいられない。
「すみません、お腹空いてますよね? 晩御飯抜いちゃいましたし、僕もぺこぺこです。昨日みたいに食べに行きます? あ、もしくは、僕がひとっ走りして買ってきましょうか?」
涙の理由を空腹と勘違いしてしまう。そんなはずはないのだが、寝起きゆえに知能指数が下がっていた。
そうであろうと、状況は動き出す。
判断を委ねられたのだから、悩むのは後だ。涙を拭い意思を伝える。
「一緒に、行きたいかな」
「わかりました。んじゃ、ギルド会館へ。と言うか、僕との外食は全部そこになっちゃいますけど……。安いし量も多いし、何より、傭兵なので」
「うん、大丈夫」
委ね返す。それが今出来る精一杯。
新たな一日の始まりだ。
水浴びすらしていないため頭皮が痒いが、それよりも空腹が勝っている。
覚えるべきことは山積みながらも、先ずは腹ごしらえから始めたい。
(ふふ、こういうのも、楽しいな)
地球への帰還。
その方法を調査。
そういった課題は後回しで構わない。
なぜなら、腹が空いている。
だったら、食事の時間だ。
全てにおいて、それは優先される。
◆
「た、ただいまです」
実に十二年振りの言い回しゆえ、エウィンの口調はたどたどしい。
二人は朝食を済ませた後、別行動をとった。
アゲハは帰宅し、この世界の書物を読みふける。知識を仕入れるためには、最短ルートと言えよう。
一方、エウィンは金を稼ぐため、マリアーヌ段丘へ単身乗り込む。いよいよ所持金が尽きたため、金策は必須だった。
そのついでに身体能力の把握も行いたかったのだが、二つの意味で成果は上々だ。
「あ、おかえり、なさい」
ここはエウィンの自宅だ。
家具の類は見当たらない上、捨てられた倉庫に住み着いているだけなのだが、そうであろうと少年にとっては大事な我が家であり、同居人も同じ認識でいる。
(なんだか、夫婦みたい。ちょっと、照れちゃうな)
アゲハが顔を赤らめるも、少年はその様子を見落としてしまう。折れた短剣と背負い鞄を置いて床に座るも、鼻息が荒い理由は疲労ではない。
「サカグチさんのおかげで、すっごい稼げましたよ!」
「え、え? わたしの……?」
「その額、なんと二千イール! 午前中だけで、草原ウサギを十体も狩れました。いやはや、自分の体じゃないくらい速く走れるし、草原ウサギもただ殴るだけであっさりと。今までの停滞は何だったのか……。本当に感謝です」
はしゃぐように喜んではいるが、その金額はお世辞にも高いとは言えない。
二人の食費を賄うには不足しており、そろそろ昼食時なのだが、もしも外食で済ませてしまうと財布の中身は空っぽになるだろう。
そうであろうと問題ない。エウィンの身体能力が急激に高まったのだから、比例するように収入も増す。
今日という一日はまだ半分も残っているのだから、午後の過ごし方次第で所持金は増やすことは十分可能だ。
「わたしは、矢を燃やして傷を治しただけ、だと思う……」
謙遜ではない。アゲハはそう思い込んでおり、そもそも自覚がなかったのだから、こうなることは必然だ。
あの場では、奇跡が三回起きた。
しかし、彼女が認識している能力は二つだけ。
ゆえに、自分の手柄だとは思えず、どうしても委縮してしまう。
「アゲハさんのキュアは特別なのかもしれませんね。だとしたら、それはそれですごいです」
「キュア?」
知らぬ単語だ。アゲハが大きな目を見開くのも無理はない。
キュア。魔法の一つであり、分類としては回復魔法に属する。自身や仲間の傷を癒せることから、この魔法の習得者は冒険や狩りに欠かせない。
「怪我を治せる魔法です。ちなみに何回くらい使えるんですか? 魔法は詠唱時に魔源を消耗するので、使える回数の把握はけっこう大事だったりします」
「えっと、多分、何回でも……。あ、怪我してませんか?」
「はい、大丈夫です。ウサギ程度にはもう苦戦なんてしません。なんせゴブリンに勝てるくらい強くなれましたから」
少年はガハハと笑い出すも、今ばかりは調子に乗っても罰は当たらない。
それほどまでの急成長だ。草原ウサギとゴブリンにはそれほどの差があり、人間で例えるならば、文字の読み書きを習い始めた子供と、教養を身に着けた大人と言ったところか。
「本当に、良かった、です」
「となると、神様からの贈り物はキュアとフレイムってことなのかな? 戦闘系統を完全に無視してますが、神様のすることですし、特別なんだと思っておきましょう」
フレイムは攻撃魔法の一つだ。炎の塊を作り出し、発射することで標的を燃やすことが出来る。オーソドックスな攻撃方法ながら、その威力は決して侮れない。
言い終えるや否や、エウィンはゴロンと後ろに倒れ込む。疲れているわけではなく、話が一つ終わったことを受け、頭の中を整理するためだ。
ボロボロの天井を一瞬だけ見上げるも、反動でさっと座り直し、少年は次の話題を提供する。
「話は変わりますが、僕の本読んでみました?」
「あ、うん、パラパラとだけど、目は通したよ。だけど、これって……」
アゲハは一冊の本を手に取ると、そっと持ち主に見せる。
数学。表紙にはそう書かれており、学びを得るという意味では適した書物と言えよう。
「教科書、学校で勉強でする時に使う本、だよね? こっちの世界にもこういうのがあるなんて……」
その事実が彼女を驚かせるも、少年にとってはただの愛読書でしかない。
「確か、七年前だか八年前に拾いました。後ろに、元の持ち主の名前が書かれてますよ」
「う、うん。三冊共に、書かれてた……」
ひっくり返し、背表紙を披露すると、そこには子供の文字でこう書かれている。
ウイル・エヴィ。
二人にとっては無関係な名前だが、エウィンは憶測を交えつつも説明する。
「多分、貴族の子供です。エヴィ家っていうのがあったと思うので。貴族の子供なら、学校にも通えますからね」
「え? 子供なら全員通えないの?」
「はい。一部の特権階級だけです。普通の子供は親から教えてもらうか、自分で学ぶしかないです。日本だと、子供はみんな学校に通えるんですか?」
「う、うん、義務教育、だから……」
「義務……、す、すごいですね。王国もそうすればいいのに」
エウィンの趣味は読書だ。ゆえにそう願うのだが、勉強嫌いな子供からすれば余計なお世話だろう。
もっとも、この国は勉学を一般国民に開放するつもりなどない。
知識や教養を必要以上に与えないことで、貧富の差、階級の差を維持し続けるためだ。
王族は王族として。
貴族は貴族として。
そして、底辺は底辺として。
その役割を継続させることに重きを置いている。
クーデターを起こさせないため。
民を飼いならすため。
つまりはそういうことなのだが、この仕組みを見抜けている者もまた、上流側の人間に限る。
「わたし、大それたことは言えないけど……。勉強は確かにした方がいいかも。知らないより、知ってる方が、楽しいから……」
「傭兵の世界も一緒ですよ。地域や魔物について把握出来てる方が、スムーズに狩りが出来ますし。まぁ、僕は草原ウサギ一筋なんですけど」
言い終えると同時に少年は笑い出す。自虐的な冗談なのだが、眼前の女性には伝わらなかったため、話題を変えずにはいられなかった。
「そ、そういえば、サカグチさんのお母さんってどんな人なんですか?」
アゲハの願いは、母親との再会だ。
そのためには地球に戻る必要があり、前途多難な道のりと言えよう。
「あ、その、コンピューターの研究者、だよ。仕事熱心で、私のことは後回しだったけど、でも、そんなことはなくて……」
ふむふむと頷くエウィンだが、単語の意味まではわからない。
それでも、大筋は理解出来るため、話の腰を折らないようにキャッチボールを続ける。
「お母さんが地球で待っててくれてるのなら戻らないと、ですね。あ、お母さんのお名前は?」
「可奈子、だよ」
「カナコ・アゲハ、ふむふむ」
「あ、ううん、坂口可奈子。そっか、こっちの世界だと、外国みたいに逆になるのか。カナコ・サカグチで、私はアゲハ・サカグチ」
ウルフィエナと日本の相違点だ。
もっとも、日本と外国でも同様に逆転するため、アゲハの訂正は素早い。
「あ、ごめんなさい。今後は、アゲハさんって呼んだ方がいいですよね?」
「えっと、わたし、自分の名前、好きじゃないから、今まで通りで、大丈夫……」
少年の提案が彼女の顔を曇らせてしまう。
黒髪を撫でながら肩を落とす姿は、大人というよりも少女のそれだ。
卑下するアゲハにエウィンは怯むも、気分を害してしまったという自覚がある以上、挽回のために尽力する。
「わかりました。でも、アゲハって名前、綺麗な響きだと思いますよ」
「ほ、ほんとう? でもでも、名前負けしてるから……」
少年の発言は本心なのだが、慰めるには至らない。
それでも、食い下がる。
エウィンにとってアゲハは命の恩人だ。
だからこそ、励まさずにはいられなかった。
「由来って、アゲハ蝶であってますか?」
「うん……。だから、嫌い。わたしは蝶になれないから。殻に籠る、サナギだから……」
これもまた、嘘偽りない本心だ。
内気な性格。
それに伴う積極性の無さ。
そして、人間不信をトリガーとした引き籠り生活。
それらを統括し、自分の名前を好きになれない。
(それに、陰湿なわたしは、あんなに綺麗じゃ、ない……)
自身の容姿もコンプレックスだ。
笑顔が似合わない顔。
巨大過ぎる胸。
柔らかな腹。
大きい尻とアスリートのような太もも。
自身を分析すればするほど、自己嫌悪に陥ってしまう。
鏡を見つめる度に、そこには幽霊のような女が立っていた。
外出頻度は少ないため、黒髪はボサボサだ。
部屋着もすっかりくたびれており、そういった部分がだらしなさに拍車をかける。
女として。
大人として。
自分に自信が持てない。
なぜなら、内面も外見も不出来だから。少なくともこれが、彼女の自己評価だ。
本人の出した結論ゆえ、否定出来ない部分も多いのだろう。
そうであろうと、エウィンは自身の考えをぶつける。
ここからは他己評価の時間だ。
「僕にとって、サカグチさんは正真正銘チョウチョですよ。くすぶってた僕が強くなれたのは、サカグチさんの後押しで才能が開花したからです。あ、才能って表現は正しくないのかな? まぁ、とにもかくにもサカグチさんのおかげなんです。花が開いて、そこにはサカグチさんが寄り添ってくれていた。だから、アゲハ蝶って名前はすごくピッタリと言いますか、お似合いだと思います。それにサカグチさんは……、アゲハさんは、チョウチョのようにすごく綺麗です」
つまりは、魅力的な女性だと伝えたい。
言葉を選び、本心を述べたのだが、少年の顔はトマトのように真っ赤だ。このような場面に出くわしたことがないため、初心な男心がどうしても照れてしまう。
もちろん、これは告白ではない。現時点で恋愛感情を抱いてはおらず、最も近い表現は護衛対象か。
彼女を元の故郷へ送り届ける。この誓いを破るつもりはなく、行き着く先が別離な以上、好意を抱くだけ無駄だ。
もしくは、足枷か。
どちらにせよ、アゲハは蠱惑的な女性ではあるのだが、それ以上でもそれ以下でもない。
そういった奥底の感情は伏せながらも、勇気づけるよう本心を伝えた。
後は、相手がどう捉えるか、その反応を待つしかない。
訪れた静寂は、これから起こる騒動の前触れだ。
正座の姿勢そのままに、アゲハが勢いよく横方向へ倒れ込む。
その際に側頭部を地面に打ち付けたはずなのだが、その表情は心底幸せそうだった。
「ア、アゲハさん⁉ どうしました⁉ え……、し、死んでる?」
死んではいない。笑顔のまま涎を垂らしてはいるが、大きな胸はわずかに呼吸している。幸福の振れ幅に耐えられず、意識がシャットダウンしただけだ。
再起動までには時間がかかるらしく、エウィンはどうすることも出来ないまま、にやけ顔を眺め続ける。
「どうしよう……。お昼ご飯買って来たから、そろそろ食べたいんですけど……」
もうしばらく待つしかない。彼女の人生において、今が最も幸せな時間なのだから。
そうであることは寝顔を見れば明らかだ。夢でも見ているのか、とろけた笑顔でむにゃむにゃと口を動かしている。
「末永く、よろしくお願いしましゅう」
「あ、はい。こちらこそ」
寝言か独り言か。
どちらにせよ、エウィンはすることがないため相槌を打つも、それもある意味で独り言だ。
「えへ、えへへへ」
幸せそうな寝顔だ。空腹のはずだが、彼女はとても満たされている。
アゲハは既に一人ではない。エウィンという少年と出会えた以上、ここから先は二人で歩めば良い。
一歩目は踏み出せた。
ならば、次は二歩目だ。目的地も道も見当たらないが、迷う必要はない。その手は何も掴めていないのだから、どこへ進もうと得られるものがあるはずだ。
孤独な時間に別れを告げ、彼らは一人から二人へ。
この世界は戦場だ。非力な者が生き残れるほど、やさしくはない。
だったら、手を取り合って進むだけだ。こうして巡り会えたのだから、その手を放す必要はない。