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ぱっぱらっぱっぱっぴーや(?)
薄暗い朝の光が、重厚なカーテンの隙間から滑り込んでいた。
横浜の喧騒はまだ遠く、防音の行き届いた中也の隠れ家は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれている。
中也は意識が浮上するのと同時に、背中に感じる奇妙な「重み」を自覚した。
熱い。そして、驚くほど静かだ。
寝返りを打とうとしたが、腰のあたりに回された細い腕がそれを許さない。細いくせに、岩場に張り付く貝のような執念深さで自分を固定している。
「おい、太宰。起きろ、重てェよ」
低い声で促すが、背後の主は返事の代わりに、ぐりぐりと額を中也の肩甲骨に擦りつけた。包帯のざらついた感触と、寝癖のついた柔らかな髪が首筋をくすぐる。
いつもなら「死ぬ気で起きたくないね」だの「美しい心中相手の夢を見ていたのに」だの、減らず口が飛んでくるはずだった。しかし、今日の太宰は一味違う。
「……やだ」
消え入りそうな、それでいて確かな拒絶。
中也は短く溜息をつき、天井を仰いだ。
思い出した。年に一度、あるいは二度。季節の変わり目や、大きな抗争が片付いた後の気の緩みに乗じてやってくる、この男の「悪癖」だ。
普段、世界を嘲笑い、死の淵を歩くことを娯楽とするこの厭世主義者は、稀にこうして幼児退行に近い甘えを見せることがある。それも、中也という特定の対象に対してのみ発動される、ひどく厄介で、ひどく性質の悪い、秘密の習性。
「いなくなっちゃ、やだ」
「どこにも行かねェよ。……今日は休みだ」
中也がそう告げると、背中の腕の力が僅かに強まった。
ふよふよ、と頼りない呼吸が背中に当たる。
この状態の太宰は、論理も理屈も通用しない。ただひたすらに、他者の体温を、それも中也という存在の輪郭を確かめることだけに執着する。
「腹、減ってねェのか」
「……いらない。中也がいればいい」
「馬鹿言え。身体が冷えてんだよ、お前は」
中也は強引に身体を捻り、太宰の方を向いた。
太宰は視線を合わせようとせず、中也の胸元に顔を埋める。
前髪に隠れた瞳は、普段の狡猾さをすっかり失い、潤んだ熱を帯びていた。
中也の手が、自然と太宰の頭に伸びる。
ごわついた包帯に指を引っ掛けないよう、慎重にその髪を撫でた。
「よしよし、わかったから。離せ。……コーヒーくらい淹れさせてくれ」
「……だめ」
「だめじゃねェよ」
結局、中也は太宰を背負うような形で、無理やりベッドから這い出した。
太宰は中也の背中にぴったりと貼り付き、その長い手足を中也の身体に絡みつかせている。傍目に見れば滑稽極まりない光景だが、二人の間には真剣な沈黙が流れていた。
キッチンへ向かう足取りは重い。背後から聞こえるのは、衣擦れのさらさらという音と、太宰が漏らす小さな吐息だけ。
中也は背中の「荷物」を落とさないよう気を配りながら、片手でケトルに水を入れた。
しゅんしゅん、と湯気の上がる音がリビングに響き始める。
太宰は中也の首筋に鼻先を押し当て、深く息を吸い込んだ。
「中也の匂いがする」
「風呂入ってんだから当たり前だろ。……お前、いい加減にしろよ。腰が痛ェ」
「中也は頑丈だから大丈夫。だって、小型の犬だもの」
「この状況で喧嘩売る余裕はあるのかよ」
中也は苦笑しながら、カップに熱い液体を注いだ。
自分用にはブラック、そして太宰用には、普段なら「甘すぎて反吐が出る」と文句を言うほどの砂糖とミルクをたっぷり入れたカフェオレ。
それをテーブルに置くと、中也はソファに腰を下ろした。当然、太宰は離れない。
ソファに座る中也の膝の上に、太宰が横向きに乗り上げるような形になった。
中也の首に腕を回し、まるで壊れ物を抱きしめるような手つきで、じっと中也の鼓動を聞いている。
「中也」
「ああ?」
「……消えたりしない?」
「しねェよ。何度言わせるんだ」
「でも、人間はすぐ死ぬよ。中也だって、汚濁を使えばボロボロになる。私の知らないところで、勝手に灰になっちゃうかもしれない」
太宰の声は、震えていた。
普段、無敵を装う彼の内側にある、底なしの孤独。
自分だけが「人間」という枠組みから外れていると信じ込んでいる男が、唯一、自分を繋ぎ止める楔として選んだのが、目の前の小柄なマフィアだった。
中也は、太宰の背中を、とん、とん、と一定のリズムで叩いた。
幼子を寝かしつけるような、不器用で優しい手。
「俺は神様じゃねェし、絶対なんて言葉は信じねェ。だがな、太宰。お前が俺を呼ぶ限り、地獄の底からでも這い戻ってきてやるよ」
「……傲慢だね。でも、中也らしいや」
「お前に言われたかねェよ」
太宰はふにゃりと、ようやく表情を緩めた。
それは、ポートマフィアの最年少幹部でもなく、武装探偵社の社員でもない、ただの「太宰治」という一人の青年の顔だった。
窓の外では、小鳥がちゅんちゅんと鳴き、平和な休日を謳歌している。
二人はそれからしばらく、言葉を交わさずに過ごした。
中也は片手で冷めかけたコーヒーを啜り、もう片方の手で太宰の背中をさすり続ける。
太宰は時折、幸せそうに「んー」と喉を鳴らし、中也の鎖骨あたりを甘噛みしたり、頬を寄せたりしていた。
「お前さ、明日から仕事だってわかってんのか?」
「……今は、明日のことなんて考えたくない。今日が永遠になればいいのに」
「柄にもねェこと言うな」
「本気だよ。……ねぇ、中也。もう一度、好きって言って」
「……さっき言っただろ」
「聞いてない。耳が塞がってた」
嘘をつけ、と中也は思ったが、太宰の潤んだ瞳で見つめられると、どうしても毒気が抜かれてしまう。
中也は溜息を一つ吐き出し、太宰の額に自分の額をこつん、とぶつけた。
「……愛してるよ。クソ太宰」
「ふふ、言葉が足りないなぁ。でも、許してあげる」
太宰は満足げに目を細めると、中也の胸板に耳を当てた。
どくん、どくん。
力強く、決して止まることのない生命の鼓動。
それが自分を肯定してくれる唯一の音であるかのように、彼は深く、深く沈み込んでいく。
「……眠くなった」
「勝手な野郎だな」
「中也のせいで安心したからだよ。責任、取ってよね」
太宰の瞼がゆっくりと閉じられる。
規則正しい寝息が聞こえ始めるまで、そう時間はかからなかった。
中也は重たい身体を抱え直しながらも、その表情には隠しようのない愛しさが滲み出ていた。
結局、その日の予定はすべて白紙になった。
掃除も、買い出しも、ワインの整理も。
ただ、静かな部屋の中で、一人の男がもう一人の男を全力で甘やかすためだけの時間。
中也は、腕の中で眠る「甘えっ子」の髪を優しく整え、自分も背もたれに深く身を預けた。
「……いなくなれねェよ。こんなの見せられたらな」
独り言は、太宰の寝息にかき消された。
窓から差し込む陽光が、ゆっくりと部屋の影を動かしていく。
それは、世界の終わりを待つ二人にとって、最も退屈で、最も幸福な一日の断片。
ぱちぱち、と、部屋の片隅で乾燥した空気が弾けるような音がした。
太宰の指先が、眠りの中でも中也のシャツをぎゅっと掴んでいる。
離したくない。離れたくない。
その無言の叫びを、中也は全身で受け止めていた。
やがて、夕暮れの橙色が部屋を染め始める。
太宰が目を覚ます頃には、またいつもの嫌味な彼に戻っているかもしれない。
けれど、今この瞬間の、体温を欲して震えていた太宰を知っているのは、世界で中也一人だけだ。
「……おやすみ、太宰」
中也はそっと、太宰の頭に唇を寄せた。
柔らかな髪の感触と、微かな消毒液の匂い。
それが彼らの日常であり、彼らの愛の形だった。
外では横浜の街が、夜の帳を降ろそうとしている。
マフィアも探偵社も関係ない、ただの「二人」だけの静かな時間が、ゆっくりと過ぎていった。
明日になれば、また戦場のような日々が始まる。
けれど、この温もりがあれば、地獄の業火の中でも笑っていられるような、そんな気がした。
中也は、腕の中の温かな重みを愛おしむように、もう一度その身体を強く抱きしめた。
太宰は夢の中で、嬉しそうに、くすぐったそうに、ぴくりと肩を揺らした。
平和な、あまりに平和な一日の終わり。
二人の呼吸は、いつしか重なり合い、一つの静寂を形作っていた。