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俺の人生は、いつも眩しい光に満ちていた。どんなに辛いことがあっても、翌日には新しい希望が生まれると信じていたんだ。人は皆、心の奥底に善意を持っていると。だから、どんなにひねくれた人間でも、時間をかければ、きっと心を開いてくれると信じていた。俺は、そんな楽天家だった。そして、俺の人生に、ある日突然、強烈な影を落とす男が現れた。野獣先輩。
初めて彼に会ったのは、本当に偶然だった。俺がたまたま通りかかった路地裏で、彼は数人の男たちに囲まれて絶体絶命の窮地に陥っていた。見るからに不利な状況だったが、彼の瞳は、その時でさえ、諦めや恐怖とは無縁の、冷たい光を放っていた。俺は迷わず、彼の助けに入った。無我夢中だった。気がつけば、俺は血だらけになりながらも、彼を助け出すことに成功していたんだ。
「おい、大丈夫か!」
俺の声に、彼はゆっくりと顔を上げた。その時の彼の表情は、俺の人生で見たどんな顔よりも印象的だった。無表情の奥に、ほんの一瞬、戸惑いと、そして微かな感謝の光が宿ったように見えたんだ。あの瞬間、俺は確信した。この男は、きっと誰にも理解されないだけで、本当は優しい心を持っているのだと。
「…助かった」
野獣先輩は、掠れた声でそう言った。それが、俺と野獣先輩の、奇妙な友情の始まりだった。
それからというもの、俺は野獣先輩の傍にいることが増えた。彼は言葉少なで、感情を表に出すことはほとんどなかった。俺が話しかけても、相槌を打つだけで、自分のことを語ろうとはしない。それでも俺は、彼のことを理解したいと心から願っていたんだ。俺は彼のことを「野獣」と呼んだが、それは彼を恐れる気持ちからではなく、彼がまるで檻に閉じ込められた獣のように、心を閉ざしているように見えたからだ。いつか、その閉ざされた扉を開き、本当の彼を知りたい。それが、当時の俺の一番の願いだった。
野獣先輩は、俺のどんな冗談にも、どんなに馬鹿げた提案にも、ただ静かに耳を傾けてくれた。時には、冷たい視線を感じることもあったが、俺はそれを「不器用な優しさ」だと解釈したんだ。彼が困っている時は、どんな些細なことでも力になりたかった。たとえそれが、俺にとって不利益になることであっても、彼のためなら惜しまなかった。俺は、彼との間に「親友」という絆が生まれたと信じて疑わなかった。俺にとって、野獣先輩は、唯一無二の、大切な存在だったんだ。
数年が経ったある日、野獣先輩が俺に持ちかけた。
「遠野、新しい事業を始める。お前と一緒なら、必ず成功するだろう」
彼の言葉は、まるで夢のようだった。俺のような凡人が、あの野獣先輩と肩を並べて仕事ができる。俺は、震えるほどの喜びを感じた。
「もちろんだ!野獣、俺にできることなら何でもする!」
俺は、彼の誘いを二つ返事で引き受けた。彼の瞳には、珍しく情熱の炎が宿っているように見えたんだ。彼は俺に、壮大な夢を語った。社会を変えるような、画期的なビジネス。俺は、その言葉に胸を躍らせた。親友と力を合わせ、共に大きなことを成し遂げる。これほど素晴らしいことがあるだろうか。
「お前の全財産を投資しろ。それから、追加で資金が必要になるだろう。お前が持つ全てのものを、この事業に投じろ」
彼は淡々とそう言った。俺は、貯金はもちろん、長年住み慣れた実家を担保に入れ、多額の借金までした。家族は心配したけれど、俺は野獣先輩を信じていたんだ。彼が、俺を裏切るはずがない。彼の描く未来のために、俺ができることは全てする。それが、俺にできる、唯一の恩返しだと信じていたからだ。
野獣先輩は、俺に様々な指示を出した。事業計画の作成、取引先との交渉、商品の開発…俺は、来る日も来る日も、身を粉にして働いた。食事もろくに取らず、睡眠時間も削った。野獣先輩は、そんな俺の働きを、ただ冷静に、いや、冷徹に見つめているだけだった。
「遠野、まだ足りない。もっと集中しろ」
「お前は本当に要領が悪いな。もっと早く動け」
彼の言葉は、常に俺を追い詰めるものだった。だが、俺はそれを「彼なりの激励」だと思った。「俺の成長を願っているからこそ、厳しく接してくれるのだ」と。俺は、彼の期待に応えたい一心で、ひたすら走り続けた。疲労で意識が朦朧とすることもあったが、野獣先輩の言葉が、俺を支える唯一の光だった。彼が**「お前の将来のためだ」**と言えば、俺は迷わず信じた。彼の言うことなら、何でも正しいと。
しかし、事業は一向に軌道に乗らなかった。むしろ、資金は底を尽き、借金だけが膨らんでいった。俺は焦り始めた。いくら働いても、努力しても、状況は悪くなる一方だった。野獣先輩は、俺が疑問を口にするたび、
「これは戦略だ。お前にはまだ理解できないだろう」
「もう少しの辛抱だ、遠野。見えないところで、全てが動いている」
そう言い聞かせた。俺は、彼の言葉を信じるしかなかった。親友が嘘をつくはずがない。きっと、俺にはまだ理解できない、深謀遠慮があるのだろうと。
俺は、心身ともに限界だった。食欲は失せ、夜は悪夢にうなされた。家族にも心配をかけ、友人たちからの連絡にも、まともに応えられなくなった。俺は、全てを野獣先輩に捧げた。俺の人生は、彼と共に歩むものだと信じていたからだ。
そして、悪夢のような夜が訪れた。事業の破綻は、もはや避けられない状況になっていた。俺は、野獣先輩の部屋で、力なくソファに座り込んでいた。
「どうしてこんなことに…」
俺の問いに、野獣先輩はワイングラスを傾けながら、冷たい視線で俺を見下ろしていた。その目は、俺が初めて出会った時のような、ほんの一瞬の光すら宿していなかった。ただ、底なしの闇が広がっていた。
「簡単なことだ、遠野。お前が愚かだっただけだ」
彼の言葉に、俺は全身が凍り付いた。心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。まるで、冷たい水を浴びせられたような感覚だった。
「まさか…野獣、お前…」
俺は震える声で尋ねた。だが、野獣先輩は、ゆっくりと俺に近づきながら、嘲りの笑みを浮かべた。その顔は、俺がこれまで見てきたどの表情よりも、おぞましく、醜悪だった。
「ああ、そうだ。全ては俺の計画通りだ。お前の財産は、もう全て俺のもの。お前はもう、何の価値もないゴミだ」
その言葉は、まるで鋭利なナイフのように、俺の心臓を貫いた。息が、できない。俺の信じていた世界が、音を立てて崩れ去った。親友と信じていた男が、俺の全てを奪い去ったのだ。俺は、裏切られた悲しみよりも、自分自身の愚かさに、そして彼が最初から俺を騙していたという事実に、吐き気を催すほどの絶望を感じた。
「どうしてだ!俺は、お前の命の恩人だろう!あの時、お前を助けたのは…」
俺は、震える声で叫んだ。あの時、俺は命を賭して彼を助けた。その恩を仇で返すのか。
野獣先輩は、フッと鼻で笑った。その笑いは、俺の最も純粋な部分を嘲笑っているかのようだった。
「命の恩人?ああ、そうだったな。だがな、遠野。俺にとって、恩義など足枷でしかない。お前が俺を助けたことなど、とっくの昔に忘れている。むしろ、お前の存在が邪魔で仕方がなかった」
彼の言葉は、俺の最後の希望の光を消し去った。俺は、人間として、いや、存在そのものを否定されたような絶望に打ちひしがれた。俺が彼に捧げてきた全てが、彼の嘲笑の対象でしかなかったのだ。
「許さない…許さないぞ、野獣!」
俺は、全身の力を振り絞って立ち上がった。だが、野獣先輩は微動だにしなかった。彼は俺の怒りを、まるで虫けらのように見下していた。
「無駄だ。お前には何もできない。惨めだな、遠野」
その言葉が、俺の最後の抵抗を砕いた。俺は、その場に崩れ落ちた。もう、何も考えられない。目の前が、真っ暗になった。
意識が朦朧とする中、俺は野獣先輩に引きずられるように、人里離れた場所へと連れて行かれた。冷たい風が、肌を刺す。波の音が、遠くから聞こえてくる。
崖だ…
俺は、かすかにそう認識した。月明かりが、足元の暗闇をぼんやりと照らしている。俺の身体は、完全に野獣先輩の手に委ねられていた。もう、抵抗する力も、気力も残っていなかった。
「さて、と…」
野獣先輩の声が、頭上から聞こえた。彼は俺の顔を覗き込んだ。その時、俺は最後の力を振り絞って、彼の目を見た。そこには、俺が知っていた「野獣」はもういなかった。そこにいたのは、ただの「獣」だった。感情も、倫理も、何もかもが欠落した、純粋な悪意の塊。
「野獣…頼む…」
俺は、か細い声で懇願した。命の恩人として。親友として。どうか、俺を見捨てないでくれと。
野獣先輩は、その声を聞くと、薄ら笑いを浮かべた。
「安心しろ、遠野。お前の苦しみは、ここで終わりだ。感謝しろよ、この俺がお前を終わらせてやるんだからな」
そして、彼は俺の身体を崖から突き落とした。
「あああああ!!」
俺の叫び声が、夜の闇に吸い込まれていく。身体が宙を舞い、意識が遠のく中で、俺は最後に野獣先輩の顔を見た。その顔には、何の感情も宿っていなかった。ただ、満足げな、獣のような笑みが浮かんでいた。
ドシャン!
全身に、激しい痛みが走った。骨が砕けるような、耳鳴りがするような衝撃。もう、何も感じない。何も考えられない。俺の人生は、ここで終わるのか。俺が信じ、全てを捧げた男に、殺されるのか。
暗闇の中へ、俺は落ちていく。
最後に思い出したのは、初めて野獣先輩を助けた時の、彼の顔だった。あの時、確かに彼の瞳に宿った、微かな感謝の光。あれは、俺の幻想だったのか。それとも、彼は最初から、俺を騙すための演技をしていただけなのか。
もう、答えはわからない。ただ、冷たい水が、俺の身体を包み込む。意識が、ゆっくりと、遠のいていく…。
(なぜ…なぜだ、野獣…)
俺の最後の問いは、闇の中に消えていった。俺の人生は、太陽のように輝いていたはずだった。だが、結局は、あの獣のような男によって、奈落の底へと突き落とされた。俺は、ただの愚かで、純粋すぎる人間だったのかもしれない。彼のような、真の「獣」の悪意を、理解することなど、最初からできなかったのだ。