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私が働く労務部は、営業部フロアと同じ階にある。今日も定時で上がり、営業部フロアの前を横切ると、何やら上司とその部下たちがパタパタと慌ただしく、資料とパソコンを睨み合って格闘しているようだった。
中年の上司と思われる人が声を上げる。
「だから、法務部を急かしてもいいことは何もないの! 仕事にスピードが大事なのは分かるけど、あの兄ちゃんには気をつけろと言っただろーがっ」
すみません、と謝る部下たち。
「今、次世代基盤の案件で人が取られているから、今日は残業! じゃなきゃ、俺たちの処理では次の会議に間に合わん。資料の半分は作って、あとは謝ってこい。多分、あの兄ちゃんは誠意を見せたら許してくれる」
はいっ、と声を上げながらワタワタと作業を続ける人たち。
なんとなく、営業と法務でのやり取りの食い違いでもあったのかな? と思いながらフロアを横切った。
「営業部って、いつも忙しそう。にしても、法務部の兄ちゃんって、誰だろう」
労務と違って法務は若手の人も多い。
そんなことを考えながらも、法務と聞いて真っ先に思い出すのは潤のことだ。
そしてすぐに顔が緩んでしまいそうになるのを……止めなかった。
そのままくすっと小さく笑ってしまう。
仕事が終わったのだから、一人で笑おうが私の自由。好きな人のことを思い浮かべて、微笑むのは仕方がない。
──でも、先日。仕事中に法務部の人が有給の書類を持って来たときに、その中に潤の名前を見つけてしまって、仕事中なのについ口元を緩めてしまった。
それをちょうど他の人たちにも見られてしまい、慌てて口元を引き締めたことがあった。
「仕事中は気を付けないとね」
こほんと咳払いして、足取りも軽くエレベーターに乗り込む。
帰りの時間だから、エレベーター内には人がそこそこ居た。
そんな中で今日の献立を考える。近くのスーパーで今日はお魚が安かった。アプリのチラシで確認済みだ。
今日の夕食はメイン料理を魚にして、冷蔵庫の中にあった野菜たちで副菜を作る。あとはお味噌汁用のお豆腐が欲しいところ。
こんなことをスムーズに考えられるようになるまで、時間が掛かった。
いや、やっと生活リズムが安定したという感じだ。
そして、十年前の別れた本当の気持ちを少しずつ伝えていきたい。
──潤に抱かれ、肌が触れ合ったことで、次は心も深く通わせたいと思うようになった。
潤を求めたい気持ちはあったけれど、すぐに求めるのは品がないような気がしたし、それに潤のご両親への挨拶や、両家顔合わせ、会社への最低限の報告もあった。
さらに妹から学費の件で泣きながら感謝されたり、家族からの結婚祝いで、祖父母共々に泣きつかれて笑顔で宥めたり。やはり公私共々、忙しい日々だった。
そんな中で、潤の部屋を何度か訪れてみようかと思ったこともあったけれど、潤は疲れていないだろうか。
法務部はいつも激務で、営業部と外に契約交渉に行ったりしているのも知っている。
そう思うと、足が進まなかった。ゆっくり休んでほしいと思ってしまったのだ。
それと、私がもう少し感情を素直に出せるようになってからだとか……メイクやダイエットをして自分磨きをもっとした方がいいのでは、なんて思っていたら──あっという間に時間が経ってしまった。
潤は相変わらず紳士だし、夜のことに関しては何も言ってこない。
そもそも、二回目をどんな風に誘えばいいのか分からない。潤の部屋に行けばいいのは分かっているけれど、中々ハードルが高い。
最近では、それは私が試されているような気分に──と、思っていたらエレベーターの扉がすっと開いた。
ゾロゾロと外へと出て行く人の流れにおいて行かれそうになって、慌てて足を動かす。
ビルの外に出ると、オレンジ色の夕暮れ空が広がっていた。
スマホを見ると、潤から『夕食楽しみにしている』と連絡が来ていた。
短いメッセージにまた笑みがこぼれる。
私は定時に上がれることが常だけれど、潤の退社時間はまばらだった。朝の出勤時間もそんな感じで、いつもバラバラに家を出る。
でも、夜ご飯は出来るだけ一緒に食べようというのが、夫婦円満を目指す『巴家』の定めたルールだった。
「とりあえず、ご飯をしっかり作ろう」
よしと頷けば、しゃらんと服の下で揺れるネックレスの音がした。それは結婚指輪を下げているチェーンの音。
私と潤の結婚は周囲に極力知らせないということで、指輪はこうして身に付けていた。
いつかは薬指に、という気持ちと、私と潤だけの秘密というのが甘美でもあった。
そんな秘密をからかうような、少し冷たいビル風が心地よく、真っ直ぐ最寄駅に向かおうとしたら──「すみませぇん」と、後ろから声を掛けられて足を止めた。
ぱっと振り向くと、肩を出した体のラインがわかる、グレーとホワイトのレース柄のワンピース。ブランドの肩掛け鞄に、緩い巻き毛。
長いまつ毛に、涙袋がぷっくりとしている愛らしい顔。
そこには、ちょっとあざと可愛い『海区系女子』という言葉がぴったりな、女性が上目遣いで私を見ていた。
目線がぱちっと合うと、女性がにっこりと微笑んだ。
「お姉さん、この辺りに詳しい人ですか?」
「えぇ。はい」
「良かったぁ。ちょっと道に迷ってしまってて、このビルに行きたいんですけど、どこか知ってますか?」
ひょいとスマホを差し出される。
スマホを持つ指先は、流行りのネイルでキラキラしていた。
そちらに目を奪われそうになりながらも画面を見ると、女性の目的のビルは丁度、最寄駅の向こう側だと分かった。
念のため自分のスマホでビルの位置を確認すると、間違いなかった。
それを伝えると、女性は「助かりましたぁ」と胸を撫で下ろした。そのときふわりと甘い香りが漂い、女子力高いとはこのことだろうなぁ、と思った。
ちょっぴり羨ましくて、私も微笑んでしまう。
「実は知り合いがここのビルでバーをやっていて、今から遊びに行くんです。あ、良かったらお姉さんも行きません?」
「い、今からはちょっと……私、あまりお酒が飲めないので」
さすが海区系女子、コミュ力が凄い。
私が男性だったら、この明るい笑顔に釣られてころっと付いて行きそうだ。
「そっかぁ、残念。あ、じゃあ、お友達割引クーポンあげます! ここ、食事もカクテルも美味しいんですよ。カシオレとか、カンパリオレンジとか」
カンパリオレンジと聞いて、スマホを持った手が止まった。
その隙に女性は交換通信で、さくっと私のスマホにクーポン券を寄越してきた。
無邪気な笑顔で「せめてもの御礼なんですけど。届いてます?」と言われたら、その場で受け取るしかない、
スマホの画面を開くとクーポン受信画面になっていて、タップするとポンとクーポン画面が出てきた。
女性はそれを見ると、にっこり笑った。
「あ、ちゃんと届いてる。良かったぁ。是非、一度来てくださいね。私の友達って言ったらサービスあるかもなんで」
そうなんですねと、私の曖昧な返事でも女性はツヤツヤの唇で笑みを作った。
キラキラの女子力に圧倒される。
それは女の私から見ても可愛いと思う、魅力的な笑顔だ。
女性は「ありがとうございましたぁ」と、言って華奢なヒールを音を立てて、駅の方へと歩き出した。
一度、振り返って笑顔で私に手を振るから、私もつられて小さく手を振ってしまった。
そうして女性は人混みへと消えて行った。
あっという間の出来に、なんだかくすっと笑ってしまう。
もう一度、スマホの画面を見ると、受信したクーポンの下に『for Uehara』と文字が書いてあった。
「今の人、ウエハラさんっていう名前なのかな」
表情がコロコロ変わって、華やかな人だった。
私もあんな風に笑えたら、潤にちゃんと愛されるのだろうか。
そう思ったとき、びゅっとビル風が吹いた。髪がさわっと揺れる。
「ん、私も早く駅に行かなくちゃ」
乱れた髪を整えながら、私も駅に向かうのだった。
コメント
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いやあ、潤さんとの結婚後の静かな日常が丁寧に描かれていて、すごく沁みましたね。「仕事中に名前を見て口元が緩む」とか、「指輪をチェーンで首にかけてる秘密感」とか、細かい仕草ひとつひとつに甘さが詰まってる。 そしてラストの「海区系女子」登場。あのクーポンに書かれた『for Uehara』って名前…これ、絶対ただの道案内じゃ終わらない気配がしますよね。潤サイドに何かあるのか、それとも主人公の過去に絡むのか。次がすごく気になります!