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65 ◇あら……
「あら……」
私はちゃんとした挨拶の言葉は発しなかった。
『あらっ……どうしてここにいるのかしら』
そう思ったら『あら』という二文字が口から零れ落ちていた。
人の仁義にも劣る輩にいっぱしの挨拶なんて不要でしょ?
「おかあさん、叔母さんったらちっとも料理作ってくれないんだよ。
おかあさんの作ってくれたお料理が懐かしいよ」
―――――
もうすでにこの頃になると妹の凛子は姉の夫を寝取り『哲司ををもらう』
とまで豪語しておきながら、外に男を作りほとんど実家に顔を見せることは
なくなっていた。
当初感じていた、人のものを奪うスリルや高揚感……そんなものが薄まった頃
母親から家事をしないと毎日のように責められるようになり……。
凛子はそんな母親との言い争いもうっとおしく、当初目論んでいた―姉の後釜に
座り哲司との結婚生活を送る――ということも、何もかもがどうでもよくなって
いったのだった。 ―――――
凛子が料理をしないのは昨日今日にはじまったことでもなく、離縁して出戻って来た
時から殊勝に手料理などしたことのない人間だ。
それなのに、今更のように凛子が料理を作ってくれないなんてことを
のたまう娘に温子は呆れるしかなかった。
そしてそんな鳩子は、手作りの料理を母親にまた作ってほしいという願望を
口にするため、凛子の名を引き合いに出したに過ぎなかった。
今更戻って来てほしそうに話し掛けてくる娘に、温子は何の感情も湧きはしなかった。
鳩子ぉ~、あの日何と言ってあんたが私を切って捨てたか……私は
忘れてませんからねー。
『お父さんが叔母さんを選ぶの無理ないよ。
おかあさんなんて髪振り乱して仕事と家事ばかりして、ちっともお洒落しないで
おばさん化し過ぎだもん。
そりゃあ、お洒落で綺麗な叔母さん選ぶでしょ、男なら。
叔母さんが出て行くことないよ。
おかあさんが出ていけば皆丸く収まるんだよ。
ね、おばあちゃん』って言ってたよね。
そのお洒落で綺麗な女に料理を作ってもらうか、自分で作ればいいだけよね。
確か私のことを、お洒落もせずに家事ばかりして身を構わな過ぎるって
言ってたよね。
そんなことを面と向かって言った相手によくも私の料理が懐かしいだなんて
言えたものだわ。
我が子ながら……ううん、あの日娘のあなたに捨てられた日からもう私に
我が子なんていないんだったわ。あははっ。
元夫も擦り切れた靴に皴皴のズボンを穿き、私と暮らしていた時のこざっぱりとした
面影は微塵もなく、惨めな出で立ちで目の前にいた。
「そうだよな、おかあさんの料理が懐かしいよな」
他に話す言葉が思いつかないのか娘の言葉を重複して元夫が話しかけてきた。
――――― シナリオ風 ―――――
〇大宮・家具屋の前の通り 続き
通りに立ち尽くす温子。
突然現れた鳩子と元夫・哲司に囲まれ、空気が一瞬にして張り詰める。
温子「あら……」
言葉はそれだけ。
挨拶すら不要と思わせる冷ややかな響き。
鳩子「おかあさん、叔母さん(凛子)ったら、ちっとも料理作ってくれないん
だよ。おかあさんの作ってくれたお料理が懐かしいよ」
(N)「凛子はすでに哲司を奪った高揚感も薄れ、家事もせず外へ男を
作っていた。
鳩子の言葉は、ただ「母の料理が恋しい」という願望のために引き合いに
出されたに過ぎない。
だが、温子の胸に蘇るのは――かつて鳩子自身が放った冷酷な言葉」
温子(N)『お父さんが叔母さんを選ぶの無理ないよ。
おかあさんなんて髪振り乱して仕事と家事ばかり、おばさん化しすぎ
だもん。
そりゃあ綺麗な叔母さんを選ぶでしょ。
叔母さんが出ていくことないよ。
おかあさんが出ていけばみんな丸く収まるんだよ。ね、おばあちゃん』
その記憶が蘇ると、温子の瞳は氷のように冷たくなる。
温子(心の声)「よくもまぁ今さら、私の料理が懐かしいだなんて……。
あの日から、私に「我が子」なんていないわよ」
哲司が擦り切れた靴と皺だらけのズボン姿で立っている。
かつての小綺麗さはなく、みすぼらしいだけの男に変わっていた。
哲司「そうだよな……おかあさんの料理が懐かしいよな」
温子「ふたりとも元気そうじゃない?
おばあちゃんと妹の凛子と五人で幸せなんでしょ。
私は“いらない人間だから出て行け”と言われて、ひとりで頑張ってきたの」
鳩子(ためらいがちに)「おかあさん、……家に帰って……き……」