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病院を退院し、淳之介さんのマンションへ帰ってきて1週間。
登生の出生が明らかになり、父親が誰なのかもはっきりした。
両親ともに亡くなっていたことは悲しいことだったけれど、愛し合った両親のもとに望まれて生まれてきたことと、大切に思ってくださるおばあちゃんがいることがわかり、私はうれしかった。
「りこちゃん。きょうはメグちゃんのおうちにおとまりするからね」
「うん、いい子にしているのよ」
「はーい、いってきます」
2日間も会えなくなるのに、元気いっぱいに保育園へと出ていく登生。
どちらかと言うと寂しいのは私の方で、エレベータに乗り込むまで手を振り続けてしまった。
これからの登生の身の振り方について考えなさいと言われて、まだ結論が出ないまま今日にいたる。
日本にいる間、週末は預かるわ。と言ってくださったお母様に甘えて、今日から2日ほどお母様に登生を預けることにした。
登生自身も楽しみにしているみたいだし、お母様に懐いているから問題ないと思うけれど、やはり少し寂しい。
それでも、登生にとって誰のもとで育つのが幸せなのか、ちゃんと考えないといけないと思っている。
***
朝登生を送り出した後は掃除と片づけをして、仕事へ行く。
夕方は買い物をして帰って、お風呂掃除と洗濯ものの片づけ。夕方になって夕食の準備をしても、時間は余ってしまう。
不思議だな。
いつもは時間と競争するように家事をこなしているのに、登生がいないだけですることがない。
そして空いた時間ができると、登生はちゃんとご飯食をべたかしら?髪を洗うのが苦手だから嫌だってわがままをいっているんじゃないかしら?歯磨きしたかしら?と考えてしまう。
「ただいま」
「おかえりなさい」
いつもより早めに帰って来た淳之介さんが部屋を見渡す。
「登生はお母様のところよ」
「そうだったな」
やはり、淳之介さんも登生がいなくて寂しいらしい。
「どうぞ、夕食にしましょ?」
「ああ」
いつもなら登生が食べられないような、苦いものや、辛い物は避けて夕食を作る。
それはせっかく作っても食べられないのはかわいそうだと思うからだけれど、今日は2人だから辛くて痺れる麻婆豆腐やゴーヤーの炒め物など大人好みのメニューにしてみた。
「さあ、食べましょう」
「ああ」
***
「この麻婆豆腐、本格的でうまいね」
「そう?いつもは登生に合わせていて、辛くしないから」
「ふーん」
普段はあまり晩酌をしないけれど、今日はビールを出してみた。
だから、私も頂いちゃおう。
「登生、お布団が変わると夜泣きすることがあるんだけれど、お母様大丈夫かしら?」
「任せておけばいいよ」
「そお?」
登生って泣きだしたら止まらないことがあるから、少し心配。
「それより、お母様って呼ぶと叱られるぞ」
「ああ」
そうだった。
海外生活が長いせいかもしれないけれど、『お母様』とか『おばあちゃま』って呼ぶと怒られる。
だから、『メグさん』って呼ぶことにしているんだけれど、どうも抵抗を感じて・・・
「そう言えば、今日出先に洋書店があって、登生が喜びそうな海の図鑑があったから買ったんだ」
嬉しそうに淳之介さんがカバンから出してきたのは、あきらかに外国の言葉で書かれた本。
どうやら英語ではなさそうだけれど・・・
「フランス語だよ」
目をパチパチさせながら眺めていた私に淳之介さんが教えてくれる。
「これって、見て楽しいの?」
「登生はきっと喜ぶと思うよ」
「へえー」
私はもらってもうれしくないけれど。
「いいじゃないか、どうせ日本語で書いてあってもまだ登生には読めないんだし、これで外国語に興味を持ってくれればさらにいいだろ」
「そうね」
フフフ。
私たち、会話が全て登生のこと。
まるで子育ての終わった夫婦みたいねと、1人で笑ってしまった。
***
「お風呂を上がったらワインを飲みましょ。美味しいチーズを買ってきたの」
「へー、いいね」
こんな時でもないとゆっくりワインなんて飲めない。
「どうせなら、一緒にお風呂に入る?」
「はあ?」
思わず睨みつけてしまった。
「いや、その方が一度にすむと思って」
「いえ、結構です」
そんなことしたら、恥ずかしくて死ぬ。
「じゃあ、行ってくるよ」
「ええ」
淳之介さんがお風呂に入っている間にワインとグラスと、買ってきたおつまみたちをテーブルに並べる。
いつもは登生が好むものを中心に買うけれど、今日は自分と淳之介さんのためだけに買い物をした。
ここに住んで3か月以上たつせいで、淳之介さんの好みは分かっているし、きっと喜んでくれるはず。
さあ、明日は2人とも休みだから久しぶりに心置きなく飲もう。
「璃子、俺は上がったからどうぞ」
「はーい」
思いのほか早く上がって来た淳之介さんのトランクス一枚の姿にドキドキしながら、私もバスルームに向かった。
***
「うん、うまいね」
「でしょ」
実はこのチーズ、私にしては奮発したのよね。
「このマリネもうまい」
「うん、ペッパーとニンニクが効いているから登生には食べれないのよ」
こんな日だからと思って大人好みの物でそろえた。
おかげで、ワインもすすみ段々気持ちよくなってきた。
「璃子、眠そうだね」
グラスに残っていたワインを飲み干したところで言われたけれど、私はまだまだ飲むつもり。
「せっかく明日はお休みなんだから、もう少し飲みたいわ」
ワインは淳之介さんがワインセラーに入れていたものだけれど、きっとお高いもののはずだし、こんなチャンスでもないとゆっくりは飲めない。
「飲みすぎて酔いつぶれても知らないぞ」
「大丈夫です」
その自信どこから来るんだよなんて言われながら、私はワインを注いでいった。
***
私は自分の限界を過信していた。
家にいるから大丈夫だって油断もあった。
そして、自分はお酒を飲んでも変わらずにいられると思っていた。
私のかすかな記憶では、このあともう1本ワインを開けた。
もうやめとけよって言う淳之介さんに絡んだ記憶もある。
そのうち眠くなって、淳之介さんにかかえあげられ、それから・・・
「自分から『抱いて』って言ったんだからな」
朝目が覚めて慌てる私に、淳之介さんの一言。
「それは・・・」
本当は、自分から迫った記憶がある。
なぜそんなことをしたのかはわからないけれど、淳之介さんの温もりが恋しかった。
でも、だからって、
「相手は酔っ払いなんだから、拒んでくれればいいのに」
「そんなことするか、せっかくのチャンスなのに」
チャンスって‥‥
露骨すぎるでしょう。
とにかく、私と淳之介さんはまた一線を越えてしまった。
「もしかして後悔しているのか?」
「そんなこと」
ないけれど。
記憶が曖昧なのがちょっと悔しいだけ。
でもそれを言えばもう1回戦挑んできそうで黙った。
別に淳之介さんが嫌いなわけでも、関係を持ったことを後悔しているわけでもない。
ただ、淳之介さんの立場や、麗華のことなどを考えると、素直に胸に飛び込むこともできない。
住む世界が違うってことは、これから先の人生を考える時に十分な障害になると思っているから。
***
「今日の午後は出かけるのよね?」
このままでは襲われそうで、話しの矛先を変えてみた。
「ああ、財閥の二世会なんて馬鹿馬鹿しいと思うが、人脈が作れるって意味では意義があるからね。顔を出してくるよ」
「そう、行ってらっしゃい」
「璃子はどうするんだ?」
「わたしも友達と約束があって」
「そうか、楽しんでおいで」
実は今日、麗華に誘われてランチに出かける。
2人で会うなんてあまり気乗りしないけれど、断って意地悪されるのも困るので行くことにした。
それに、ごちそうするからと言われ断り切れなかった。
相手が麗華だって知れると淳之介さんに反対されそうで、言えていない。
「早めに帰るつもりだから、夜は一緒に食事に行こうか?」
すでにスマホを取り出して、予約をしようとしている淳之介さん。
「そうね、行きたい」
こんなチャンスでもないと2人で外食なんてできないものね。
場所はお任せしますと伝え、私は出かける準備を始めた。
***
向かったのは都内の高級ホテル。
場所がホテルと聞かされ何を着ようかと考えたけれど、麗華と食事に行くのにオシャレをする必要もないだろうと、細身のパンツに、ブラウスとジャケットを合わせた。
少しカジュアルかなって印象だけれど、ランチだけなら問題ないでしょう。
「璃子」
ホテルのフロント付近で手を振る麗華。
「ああ、麗華」
応えるように手をあげてから、足が止まった。
なぜだろう、麗華がすごくオシャレをしている。
着ているものもワンピースと言うよりドレスに近いし、髪もきれいにセットされ、アクセサリーも普段使いの物じゃない。
これって完全にパーティー仕様じゃない。
「ごめんね璃子、ちょっとだけ顔を出さなきゃいけない集まりがあって」
麗華の方から近づいてきて腕をとられた。
「じゃあ私は帰るわ」
「いいじゃない、すぐだし。それに知り合いだけの小さなパーティーなの。少し待っていて」
「いいわよ、麗華が忙しいなら帰るわ」
麗華の行くようなパーティーに顔を出したって浮くだけだし、こんな格好で参加したくもない。
「大丈夫だから。それに、璃子に会わせたい人がいるの」
「会わせたい人?」
なんだか嫌な予感しかしないけれど・・・
「とにかく行きましょ」
周りにたくさんの人がいる手前抵抗することもできず、強引に腕を引かれた私はホテルの中へと進んでいった。
***
「もしかして、ここ?」
エレベータを上がり、長い廊下を進み、大きな扉を開けた先にあったパーティー会場。
見た瞬間、ここに来てはいけなかったと気づいた。
でも、もう遅かった。
「彼女が八島璃子さんよ」
麗華が、自分の知り合いらしい集団の中に私を放り込んでしまった。
「へー、かわいいね」
「子供がいるようには見えないじゃないか」
「それにしても、変わった格好で登場だね」
あっという間に数人の男性に囲まれて、距離を詰められる。
「あの、私帰りますから」
男性の腕を振りほどき逃げ出そうとするけれど、
「何言っているの、今来たところじゃない」
反対から別の手が伸びてくる。
「やめてください」
「そんなに嫌がるなって、一緒に飲もうよ」
「私はそんなつもりではなくて、」
「いいから、ほら飲んで」
男性がグラスを差し出すのを、
「やめてください」
私は払いのけた。
ガチャンッ。
私の手が当たって、男性の持っていたグラスが床に落ち割れる音。
当然中身は男性の足元に掛かってしまった。
「あーぁ、どうしてくれるんだよ。この靴も服も高いんだぞ」
「だって、それは・・・」
あなたが無理やり飲まそうとするから。
そう言いたいけれど、この場を収めるのが優先だからと思い直し、
「すみませんでした」
私は頭を下げた。
***
「服も汚れたことだし、場所を変えて飲みなおそうか?」
「いや、それは・・・」
困ったなあ。このままでは本当に連れて行かれてしまう。
どうしたものかと辺りを見回した時、
嘘。
遠くの方に淳之介さんの姿を見つけた。
そうか、これが淳之介さんの言っていたパーティー。
ってことはここにいる男性たちもどこかのお坊ちゃんなわけだ。
「どうしたの?そんなに見つめたってあの人はダメだよ」
「え?」
無意識のうちに淳之介さんを見つめていた私に、男性が気づいたらしい。
「あの人は中野コンツェルンの御曹司だからね、俺達とは次元が違う。それに女遊びをするような人でもないから、君には無理」
「へー」
確かに、100人以上はいるであろう会場の中でも淳之介さんは目立っている。
それはもちろん容姿が目を引くってこともあるけれど、それ以上にオーラのようなものがあって威厳を感じさせる。
「ほら、王子様ばっかり見てないで、行くよ」
「ちょ、ちょっと待って。私は」
帰りたいんですと言いたいのに、強引に腕を引かれ抵抗することもできない。
どうしよう、このままじゃマズイ。
頭の中でどうにかして逃げ出す手立てを考えていると、
「ちょっと、君」
背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
***
「嫌がる女性を無理やりって言うのは、感心しないね」
いつの間にか現れた淳之介さんに、男性の手が少しだけ緩む。
「嫌だなあ淳之介さん、無理やり何てしてませんよ」
「そお?彼女が嫌がっているように見えるけれど」
男性と淳之介さんの視線が私の方に向いている。
困ったぞ。
ほぼ主賓のような淳之介さんが現れたことでパーティー会場の注目は私に集まっているし、ここで下手をすれば淳之介さんにも恥をかかせることになってしまう。
「やだわ、璃子。あなたが恥ずかしがるから淳之介さんが心配なさっているでしょ」
「え?」
群衆の中から出てきた麗華が、しきりに目配せする。
これはきっと、話を合わせろってこと。
じゃないと淳之介さんに迷惑がかかるぞって言いたいのよね。
「ほら、何とか言いなさいよ」
「璃子、おいで」
聞こえないくらい小さな声。でも確かに、淳之介さんの唇が動いた。
本当なら、このまま淳之介さんの胸に飛び込みたい。
でも、こんな格好では淳之介さんに恥をかかせてしまう。
「私は、大丈夫ですから」
震える声でそれだけを言った。
「ほら淳之介さん、ご心配には及びませんわ。彼女はそういう目的でここに来ているんですから」
麗華の勝ち誇ったような言葉。
「じゃあ、行こうか」
男性に腕をとられ、私はパーティー会場の外に向かった。
***
「やめて、放して」
パーティー会場を出た瞬間、私はできる限りの声を上げ、男性を振り払った。
「どうしたんだよ、お前だって金持ちの男と遊びたくて来たんだろ?」
「違う。私はそんなつもりじゃない」
「じゃあ何だ?こんな会場に、そんなちんちくりんな格好で現れて、男の気を引くためとしか思えないじゃないか」
「違う、そんなんじゃない」
私は麗華に騙されてきただけ。
ただごはんを食べるんだって聞いていた。
「もういいよ。やめた、やめた。お前最悪、抱く気にもならない。これやるから帰れ」
そう言って数枚の1万円札を投げつけ男性は消えていった。
ひどい。ひどすぎる。
私は何もしていないのに・・・
とにかく帰ろう。
もうここにはいたくない。
早くここを出たくて駆け出そうとした時、
「お嬢さん落ちましたよ」
近くの老婦人が落ちた1万円札を私に握らせた。
悔しいけれど、老婦人に返すことももう一度床に投げることもできずにお金を受け取った。
ウゥウウ。
泣きたくないと思うのに、声が漏れる。
その時、
「バカ、何やってるんだ」
それは、今一番聞きたい声だった。
***
「淳之介さん、どうしてここに?」
「この金は俺が返しておくからな」
男性から投げつけられた1万円札を淳之介さんがポケットにしまう。
「ごめんなさい、迷惑をかけて」
今ここに淳之介さんがいるってことは、きっとパーティーを抜けてきてくれたに違いない。
「田頭麗華にはめられたのか?」
「うん」
最近おとなしかったから、油断していた。
「俺はそんなに頼りにならないか?」
「え?」
「なんであの時、会場で俺のもとに来なかった?」
「それは、」
あんな華やかなパーティーに普段着姿の私がいて、まるで男の人をあさりに来た女のように扱われていて、その私がパーティーの主賓のような淳之介さんに飛び込んでいける訳がない。
「まだ俺のことが信じられないのか?」
「違う」
「じゃあ何だ?」
「あなたの負担になりたくなくて」
「バカ。璃子の一人や二人負担になんてならない。俺を見くびるんじゃない」
「でも」
「俺はあの場で、『私は彼の連れよ』って言ってほしかった。そうしたらどんなことしてでも守ってやった」
私だってそうしたかった。
でも、そんなことしたら大騒ぎになったと思う。
***
「とにかくここを出よう。一緒に帰ろうか?それとも部屋をとってう休もうか?」
私の肩に手を回し聞いてくれるけれど、
「私は一人で帰れるから。淳之介さんはパーティーに戻って」
会場の皆さんは淳之介さんを待っているはずだもの。
「璃子」
淳之介さんの呆れ顔。
自分でも、かわいくない女だって思う。
こんな時、素直に甘えられればいいのに。損な性格。
「挨拶だけしてくるから、ロビーで待っていてくれ」
「でも・・・」
「もしいなかったら、登生の前で説教だからな」
うぅーん、それは避けたい。
じゃあなと、頭をクシュッとなでてから淳之介さんは会場へ戻って行った。
1人ロビーに戻り淳之介さんを待つ間、自分が情けなくて悲しくなった。
一番悪いのは意地悪してきた麗華だけれど、予見できず、対処できず、事態を悪化させたのは私自身。
あの場で、空気何て読まずに拒否していれば、騒ぎにはなってもこんな惨めな結果にはならなかった。
「璃子、お待たせ」
現れたパーティー仕様の淳之介さんと、普段着の私。
チラチラ見られる視線を感じながら、ホテルを後にした。