目覚めたのは、夜が明けたあとのことだった 。
部屋には、ほんのかすかな光が差し込んでいた。
灰色の雲に覆われた空は、どこか遠い世界のように冷たく無表情で、けれど確かに、新しい朝が始まったことを告げていた。
その曇天を、淡く歪んだガラス越しに見上げながら、直弥はしばらく動けずにいた。
体は重く、まるで深い水底に沈んだまま、浮かび上がろうとする意志すら失ってしまったようだった。
視線をゆっくりと横に向ける。
そこには、永玖がいた。
寝息を立てながら、まるで子どものように安らかな表情で眠っていた。
雨に濡れていたはずの髪はすっかり乾き、柔らかな黒髪が枕に広がっている。
その顔には、静かな満足感があった。
すべてを手に入れた者だけが浮かべる、穏やかな微笑。
昨夜の出来事は、霞がかった夢のようだった。
けれど、夢ではなかった。
永玖の腕が、自分の腰に絡まるように回されているこの現実が、その証だ。
(ああ……そうだった)
記憶が、じわりと肌の内側から染み出すように蘇る。
雨音。
インターフォンの音。
濡れた永玖の姿。
そして、自分の口からこぼれた言葉――
「……いいよ。お前のものでも……」
その瞬間、世界の色が変わったのを覚えている。
外の雨の音も、心のざわめきも、全部が遠くなり、やがて無音の檻の中に閉じ込められた。
部屋の空気は、まだあの夜の名残を引きずっていた。
しっとりと湿り気を帯び、洗いたてのリネンの匂いに混じって、どこか甘ったるい違和感が漂っている。
カーテンの隙間からこぼれる光が、床の上に淡い影を落とす。
その静寂の中で、直弥はそっと身じろぎをした。
すると、永玖の腕がわずかにきゅっと締まる。
寝ぼけているはずなのに、まるで意識的に逃さないようにしているかのような執着。
(ここは……檻だ)
自分で選んだはずなのに、逃れられない。
理解していた。
それでも抗うことを、昨夜の自分はやめてしまった。
――そうだ。
誰も気づいてくれなかった。
不安を吐露しても、SNSの呟きに応じるのは、永玖だけだった。
本当に“見ていてくれた”のは、彼だけだった。
その視線がどれだけ歪んでいても、
その愛がどれだけ狂っていても、
たしかに、真剣だった。
スマホは、ベッドの端に伏せられていた。
かすかにバイブレーションの振動が残るように、直弥の記憶を揺らす。
画面をゆっくりと手に取り、最後の通知を確認する。
《ようやく、君は僕のものになった》
その言葉が、まるで契約の証のように、画面に残されていた。
直弥はその文字を見つめながら、かすかに笑った。
救いじゃない。
でも、救われたいと思っていたのは確かだった。
冷たい世界の中で、誰にも見てもらえず、声も届かず、ただ“がんばる”しかなかった日々。
あの孤独の深さを知ってしまったからこそ、
こうして誰かに“必要とされる”感覚は、胸を満たすものがあった。
たとえそれが、狂気の檻であっても。
静かに目を閉じる。
永玖の寝息と、自分の呼吸が重なる。
吐息のリズムが、奇妙なほどに調和していた。
(これは、きっともう朝じゃない)
そう思った。
部屋の中に朝は来たけれど、自分の中に朝は訪れていなかった。
永玖の腕は温かく、柔らかく、優しかった。
まるで「もう大丈夫だよ」と言ってくるようなぬくもり。
だが、それは自由を奪う枷でもあった。
窓の外では、新しい一日が静かに始まっている。
人々は通勤電車に乗り、学生たちは教室へ向かい、どこかで誰かが笑っている。
でも、この部屋の中には、時間も空気も、すでに止まっていた。
(それでもいい)
そう思った。
誰にも気づかれないよりは、ずっと。
狂った世界でも、見てくれる人がいるなら。
必要としてくれる誰かがいるなら。
それが愛でなくても、狂気であっても――
「……えいく」
小さく名前を呼んだ。
「……ん……」
眠ったまま、彼が反応する。
その声すら、今の直弥には心地よかった。
「……ずっと、見ててね」
呟くように、ただ願うように言った。
もう一度、永玖の腕が自分を包むように動いた。
「もちろん。なおやは……僕のすべてだから」
その言葉が、静かに耳の奥に沈んでいく。
雨の音はもう聞こえなかった。
代わりに、外では風が窓をわずかに叩いていた。
それでも、もう何も怖くなかった。
目を閉じる。
耳を塞ぎ、心を預け、そして静かに――
そのまま、闇の中へと沈んでいった。
ご期待に添えたかはわかりませんが、素敵なリクエストをいただき、ありがとうございました。
またのリクエストを心よりお待ちしております。
コメント
2件
想像よりも遥か上でした🥹もう才能ありますよ‼️すぐ書いてくれるのも最高すぎます👍👍