テラーノベル
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彼女も、俺に気づいたようだった。
けれど――俺たちの間には、はっきりとした距離があった。
仲が悪い、というよりは気まずい。
その一言に尽きる。
しばらくの沈黙のあと、先に口を開いたのは朝倉だった。
「なっ……何の用ですか?」
少しだけ強張った声でそう言う彼女の表情は、どこか硬い。
……まあ、当然か。嫌われているのは、俺の方なんだから。
「これ。さっき落としてた」
そう言って、ポケットからシュシュを取り出す。
「これ、朝倉さんのだよな?」
彼女は一瞬目を見開き、小さく息を漏らした。
「あ……」
その表情には驚きと、それからわずかな安堵が混ざっていた。
「ありがとう。わざわざ届けてくれて」
言葉の間にはまだ距離が残っていたが、それでもちゃんとした「ありがとう」だった。
それだけで、少しだけ救われた気がした。
「役に立ったならよかったよ。じゃあ、俺は――」
そう言って席を立とうとした、そのときだった。
「待って」
呼び止められる。
振り返ると、彼女は少し迷うように視線を揺らしながら言った。
「その……よかったら、少し話さない?」
――予想外だった。
あの朝倉比奈が。俺を避けていたはずの彼女が、そんなことを言うなんて。
俺は一瞬だけ迷ったが、やがて小さくうなずき、再び席に座った。
どこかぎこちない空気の中で、彼女がゆっくりと口を開く。
「水奈戸くんに、言いたいことがあって」
――来る。
拒絶の言葉だ。
「気持ち悪い」とか、「話しかけないで」とか。そういう言葉を言われる覚悟は、もうできている。
俺は一度、深く息を吸った。
そして――
「あの時は、ごめんね」
思考が止まった。
「……え?」
目の前で、彼女が頭を下げている。
「あとから聞いたの。水奈戸くん、あの頃かなり落ち込んでたって」
視線を落としたまま、彼女は続ける。
「私、それ知らなくて……勝手なこと言っちゃった」
静かな声だったが、その一言一言には確かな後悔が滲んでいた。
「ほんとに、悪いことした」
――違う。
謝るべきなのは、俺の方だ。
「そんなことない」
思わず言葉がこぼれる。
だが、それだけでは足りなかった。
このまま黙っていたら、彼女の優しさに甘えることになる。それは――卑怯だ。
だから俺は、ゆっくりと言葉を選びながら口を開いた。
「ごめん」
ずっと言えなかった謝罪を、ようやく口にする。
「俺こそ、朝倉さんに謝らなきゃいけなかった」
視線を落としながら続ける。
「あの時、たしかに俺は落ち込んでた。でも……」
一度言葉を区切り、顔を上げた。
「朝倉さんに当たっていい理由なんて、どこにもなかった」
そして――
机に額が触れるほど、深く頭を下げる。
「朝倉比奈。本当に、ごめん」
数秒の沈黙が流れた。
長く、重い時間だった。
やがて――
「……やっぱり」
小さな声が、静かに届く。
「水奈戸くんは、優しい人だよ」
顔を上げると、そこには涙を浮かべながら柔らかく微笑む朝倉比奈がいた。
――俺は、間違っていた。
彼女は、思っていたよりずっと優しい人だった。
◇
それから、少しだけ言葉を交わした。
ぎこちなさは残っていたが、不思議と会話は途切れなかった。
朝倉は愛嬌があって、話しやすい。けれどその一方で、どこか寂しそうな影も感じられた。
その理由は、まだわからなかったが。
◇
店を出て、家へ向かう途中。
道端に、見慣れた背中がしゃがみこんでいるのが見えた。
「……何やってんだ?」
声をかけると、間髪入れずに返事が返ってくる。
「話しかけないでくれる?」
相変わらず冷たい。
「探し物か?」
「だから話しかけないでって言ってるでしょ。あんたには関係ない」
今日は、いつもよりも棘が強い。
「……わかった」
これ以上踏み込んでも逆効果だと判断し、俺はそれ以上何も言わなかった。
「何かあったら頼れよ」
それだけ伝えて、自転車にまたがる。
背後から返事が返ってくることはなかった。
◇
その夜。
なぜか、なかなか寝つけなかった。
喉の渇きを感じて部屋を出ると、静まり返った廊下に、かすかな音が混ざっていることに気づく。
――泣き声だ。
妹の部屋の前で、足が止まる。
昼間に見たあの表情が、頭の中に浮かぶ。
何かを隠しているような、あの顔。
胸の奥がざわつく。
けれど――
今の俺には、ドアノブに手をかけることすらできなかった。
ただ、その場に立ち尽くすことしかできない。
何もできない自分を自覚しながら、俺はしばらくその場を動けずにいた。
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