暗闇の中だからこそ、その炎は一層際立つ。
ゆらゆらと踊る、焚火の赤色。
そして、それを眺めるエウィンとアゲハ。
枝が爆ぜる音しか聞こえない。
だからこそ、ここは痛いほどに静かだ。
二人が口を開かなければ、沈黙はいつまでも続いてしまう。
真っ暗な森の中でレジャーシートに座りながら、少年は焦げ臭い匂いを嗅ぎ続けている。
今はそれしか出来ない。
なぜなら、情報を整理しきれていないからだ。
黙っているという意味では彼女も同様なのだが、襲われた直後にも関わらず、表情はほのかに暖かい。守ってもらえたばかりか、エウィンの雄姿を目に焼き付けられたため、恐怖心は払拭済みだ。
彼らは二人っきりゆえ、このような時間は珍しくない。アゲハは口数が少ないため、エウィンが喋らなければ必然的に静まり返ってしまう。
バチンと焚火が吠えたタイミングで、少年は意を決する。危機的状況を脱したとは言え、そうなってしまったことが失態だからだ。
「僕が迂闊でした、すみません……」
エウィンの謝罪が、アゲハを心底驚かせる。
この展開は予想出来ていなかった。魔物から逃げきれなかった自分に非があると思っていたほどだ。
ゆえに、慌てながら隣に振り向く。
「そ、そんな、エウィンさんは、悪くないよ」
「ここを選んだのは僕で……、川の近くなら大丈夫って思い込んでしまいました。キノコだけでなく、スケルトンまで現れるなんて……」
アゲハは二体の魔物に襲われた。
前後を塞がられてしまったために逃げ場などなく、エウィンの到着がほんの少しでも遅れていたら、彼女の死は現実のものとなっていた。
だからこそ、詫びなければならない。
ここを野営地としたこと。
水浴びのタイミングとは言え、一人にしてしまったこと。
そして、救援が遅れてしまったこと。
謝罪の理由は複数あり、結果的には間に合ったものの、頭を下げずにはいられなかった。
顔を伏せながら、エウィンは涙を浮かべる。
罪悪感。
不甲斐なさ。
そして、恐怖。
様々な感情が、少年を責め立てる。
突然の謝罪にアゲハも驚きを隠せない。
しかし、即座に気づくことが出来た。今すべきことが明白だからだ。
年下の男の子が泣いているのだから、ゆっくりと手を差し伸べ、震える手を優しく包み込む。
「悪いのは魔物で、魔物を倒せない私も、きっと同罪。だから、エウィンさんは謝らないで」
「そんな……。それこそアゲハさんは被害者ですし……」
「きっとここでは、弱いことが罪なんだと、思う。ううん、ちょっと違うのかな? 弱いのに、傭兵の真似事をしてることが、かな。だから、エウィンさんは謝らなくていいし、なんならわたしが、謝らないと……」
「だとしても、そうだとしても……」
アゲハの言う通り、他責の側面もあるのだろうが、エウィンはどうしても自分を責めてしまう。
そうであろうと彼女は食い下がる。
「今回も、守ってもらえたし、これからも、そうなんだよね?」
「それは、そうですけど……」
この問答はこれにて終了だ。
論点をずらされただけなのだが、今のエウィンにそうであると見抜く余力はない。反論に困ったことから、反省会は終わりを迎える。
その結果が、静寂の再来だ。どちらも押し黙ってしまった以上、焚火の音に耳を傾けるしかない。
もっとも、その時間は長くはなかった。
エウィンの声が、静かな森に囁き始める。
「子供の頃、この辺りまで遊びに来たことがあるんです。父さんに連れられて……」
十年以上も昔の記憶だ。
そして、大事な思い出でもある。今では色褪せてしまったが、そうであろうと思い出すことは出来る。
「お父さんと?」
「はい。ここってなんだかんだ離れてるので、母さんは留守番して。と言うか、嫌がってたのかな? だから二人で。外には魔物がいるから、そういう意味では母さんの方が正しいんですけど……」
エウィンの故郷はここから南東に位置し、今も昔も漁村として栄えている。
アゲハもこの程度の知識までは把握しており、眼前の少年が両親を失ったこともぼんやりと察している。
二人は踏み込んだ話題についてほとんど話さない。
知られたくないからではなく、相手を傷つけたくないからだ。
浮浪者と転生者。似て非なる両者だが、帰る場所を失ったという点においては似た者同士だ。
それゆえに、気遣わずにはいられない。
デリケートな話は、本能的に避ける傾向にあった。
「父さんは漁師だったから、やっぱり魔物には手も足も出ないけど、それでもすごく目が良いから、遠くの魔物もあっさりと見つけられたんです。父さんと一緒だと、気づかれる前に離れることが出来ました」
「お父さんも、すごかったんだね」
「遠くで魚が跳ねたら、絶対に見逃さないって言ってましたし、視力と動体視力? そういうのが人より優れてたんだと思います。今の僕も相当に目が良くなった気がしますけど、もしかしたら父さんには敵わないかも……」
だからと言って、親子二人での散歩は少々危険だ。近場ならば問題なくとも、この川を目指すのならば命がけだと断じるしかない。
本来ならば、傭兵を雇うべきだろう。そのための施設がルルーブ港にも存在しているのだから、費用はかかれど護衛をつけるべきだった。
そうしなかった理由は、息子を危険に晒さない自負があったからか。
それほどに、優れた視覚を持ち合わせていた。親子で無事戻れたことからも、そうであると実証済みだ。
「この森も、この川も、思い出の場所なんだね」
「そう……なんだと思います。つらい記憶に上書きされちゃった感はありますけどね。父さんは船と一緒に燃えて、母さんは僕を庇ってゴブリンに殺されました。一人残された僕は、アゲハさんを守らないといけないのに……」
「守ってもらえたよ。わたしこそ、ありがとう」
「い、いえ、そんな……。変だとは思ってたんです。魔物がチラホラいるのはわかってて、ただ、アゲハさんの周りにはいなかったので、見つけたカブトムシを観察してたら、二体の魔物が急に動き始めて。しかも、まるで合流するように」
スケルトンとウッドファンガーだ。それらはひっそりと近づき、水浴び中のアゲハを包囲する。
つい先ほどの出来事だ。
結果だけを切り取れば、魔物は敗北したのだが、エウィンが少しでも遅れたら、アゲハを道連れに出来ただろう。
襲われた側は恐怖心を植え付けられたはずだ。
実際にその通りなのだが、彼女の関心はその単語に向けられる。
「カブトムシ、好きなの?」
「えっと、人並には……。力強さがギュッと凝縮されたような姿には惹かれるものがあります。どちらかと言うとかわいい系が好きですけど……」
「そうなんだ。猫ちゃんとか?」
「そうですそうです。って話が脱線しちゃいましたね」
「あ、ごめん……」
その後もエウィンはつらつらと話す。
移動を開始した魔物の方角が川沿いであったこと。
時を同じくして、嫌な予感が予知のように生じたこと。
自身は水浴び前だったことから、即座に走った結果、アゲハの救出が間に合った。
まさに紙一重だ。
二度目はないと思えるほどには僅差だった。
ゆえに、今後の身の振りについて話し合わなければならない。
「マリアーヌ段丘の方へ避難するってのもありだとは思います。境界付近には魔物が寄り付きませんから。ただ、水場がないから何日も過ごすのはきついかもです」
「たし、かに……」
「と言うことで、ルルーブ港に向かいましょう。お金もありますし」
苦渋の選択だ。
しかし、理に適っている。
宿屋があり、店もあり、さらにはギルド会館さえ完備だ。
この地には修行のために訪れたのだが、命がけの野宿までは求めていない。
暖かな風呂に入り、ベッドでぐっすりと眠ることが出来るのであれば、翌日のコンディションは上昇するはずだ。食事にも困らないことから、エウィンの提案を拒む理由などなかった。
「うん。今から?」
「そのつもりです。歩くと何時間もかかっちゃうから、疲れないペースで走るって感じでも大丈夫ですか?」
「だいじょぶ、だよ」
方針が定まったのだから、片づけが済み次第出発だ。
荷物を鞄にしまえば、最後は焚火を鎮火させるだけ。慣れた手つきで二人は後片付けをほぼほぼ完了させるも、エウィンは燃える炎を眺めながら思い出したように思案する。
(おばさん、もといお義母さん、今回も出てこなかったな。状況としてはあの時くらいヤバかったと思うけど……)
声には出さないものの、心の中で愚痴ってしまう。
アゲハの二つ目の人格を担う、謎の女性。彼女が現出した場合、アゲハの身体能力は大きく向上する。
それこそ、エウィンですら手も足も出せないほどの強者だ。
もしも彼女が覚醒していたなら、アゲハはより安全な形で危機を脱しただろう。
しかし、実際には現れなかった。
炎の魔物、オーディエンとの戦闘以来、自称母親代理はアゲハの中で眠っており、悪口にすら反応を示さない。
いつ起きるのか?
二度と起きないのか?
体の持ち主ですら、解答はわからない。
(頼るつもりはないけど、こういう時くらいは力を貸して欲しい……。いや、この考え方自体が甘えてる証拠か。アゲハさんは僕が守らないと……)
そう肝に銘じながら、革製の水筒を逆さにして、枯れ枝達に水をかける。
徐々に弱まる炎を眺めていると、心もいくらか落ち着きを取り戻してくれた。
アゲハのマジックランプだけが仄かに輝く中、大きなリュックサックを背負い直せば準備はいよいよ完了だ。
「さぁ、行きましょう」
「うん」
真夜中の行進だ。
目的地はそう遠くない。
エウィンの足取りが鈍い理由は、心がそうさせてしまうためか。
それでも進むしかない。
目的は南東の漁村。
かつての故郷。
今日という一日は、まだ終わらない。
◆
人間も動物も、昆虫さえも寝静まった頃合い。
本来は無音のはずだが、二人分の足音が夜の森を賑わしている。
エウィンとアゲハ、二人組の傭兵だ。
当然ながら視界はすこぶる悪いのだが、少年が携帯している灯りのおかげで周囲だけはぼんやりと明るい。
この時間帯の移動は、本来ならば不用心と言う他ない。魔物は人間を殺したがっており、ましてやどこに身を潜めているかわからない以上、いかに傭兵であろうと夜中の旅はただただ悪手だ。
それでも移動を強硬した理由は二つ。
視認せずとも魔物の居場所がわかるから。
なにより、急ぎたいから。
野宿を諦めた以上、新たな寝床を確保しなければならない。今回の場合、宿屋のベッドが標的だ。
真っ暗な闇の中を疾走中の彼らだが、遥か前方に光の塊が見えたタイミングでエウィンがゆっくりと口を開く。
「やっと見えてきました。あれがルルーブ港です」
遊歩道も真っすぐそちらへ伸びている。ここまで来れば、もはや迷う方が困難だ。
「エウィンさんの、故郷……」
「まぁ、そうですね。小さく……はないけど、これといって何もない場所ですよ。漁業と林業で栄えていて、そういった施設ばっかりです。さて、どうしたものか……」
故郷の悪口を言いながらも、少年は考えなければならない。
わずかな減速は目的地が近づいたということもあるが、走ることに集中出来ないからだ。
その異変を、アゲハは見逃さなかった。
「どうしたの?」
「えっと、ここまで来といてアレなんですが、僕は手前で野宿します。アゲハさんは宿に泊まってください」
「え⁉」
彼女の困惑は至極当然だ。
なぜなら別行動に意味を見出せず、ましてや同じ部屋で眠れると淡い期待を抱いていた。
この展開は予想出来ていなかったため、エウィンの背中を呆然と眺めてしまう。
「僕は、あそこに居場所がないんです。それどころか、追い出されちゃうかも……」
「そんな……、どうして?」
アゲハはこの少年の生い立ちまでは知らされていない。
ゆえに、恐怖に向き合いながらもついに問いかける。
「漁船が燃えて、父さんは死にしました。実は、その火事に巻き込まれたのは父さんだけじゃないんです」
「それは、そうだと、思うけど……」
「父さんは船長で、だから、責任も父さんにあって……。だけど、父さんはもういないから、代わりに僕と母さんがみんなから恨まれて、しかも家までとられてしまいました。死んでしまった船員の家族は、今も僕を恨んでいると思うんです」
大型の漁船をイダンリネア王国から購入した矢先の出来事だった。
漁を終え、港に戻ったその船には、エウィンの父親を含め多数の船員が乗船していた。
大漁を喜ぶ彼らだが、帰りを待っていた関係者も喜びはひとしおだ。
笑顔は、その直後に塗り替えられる。
漁船の甲板が、一瞬にして炎に包まれたからだ。
火種など、ないはずだ。
しかし、人間の脆さを嘲笑うように業火が船員達を一人残らず燃やし尽くす。
海へ飛び込む猶予すら与えない、真っ赤な炎。
漁船は黒い煙を昇らせながら、無人と化したことを確認するように海の藻屑と化す。
ルルーブ港の歴史において、過去に類を見ない大事故だ。
もしくは事件なのか?
なんにせよ、漁村は経済的にも人員的にも被害を被った。
大金を払って購入した船が沈没。
乗組員も全員死亡。
残された遺族はその怒りを、船長の家族に向けるしかなかった。
これが十二年前の出来事であり、故郷を追われた理由だ。
エウィンは記憶を辿りながら、知っている事実を淡々とアゲハに伝える。
そして、悲劇の締めが母親との離別だ。
「この森で母さんはゴブリンに殺されて、僕だけがなんとか王国に……。まぁ、ことのあらましはこんな感じです。なので、僕は野宿の方がいいのかなぁ、と。宿代も一人分で済みますし」
少年の独白はここで終わる。
悲しい過去であり、エウィンを形作った経験とも言えよう。
忘れたい。
忘れたくない。
そんな想いを交えながら、自身の立ち位置を話した。説得も兼ねており、経済的にも利点があるのだから、後は頷いてもらうしかない。
そのような思い違いは、左手を握りしめられたことで否定される。
その手は暖かく、エウィンは驚く余り立ち止まってしまう。
「ア、アゲハさん?」
「だったら、わたしも、一緒に……」
一人にはしない。口にはしないものの、アゲハはそう伝えたい。
ランプの光に照らされながら、森の中で見つめ合う二人。少年の顔は困惑気味だが、彼女の口は真一文字結ばれている。
普段のネガティブな表情とは打って変わって、その決意は固い。
ゆえに、揺らぐのはエウィンの方だ。
「ま、まぁ、村の前まで移動すれば、そこら辺は安全だと思いますけど……。ただ、僕が言っても説得力なんてありませんし、そうなると奥の手か?」
実は、第二のプランも思いついている。実行するつもりはなかったのだが、この状況においては検討するしかなさそうだ。
一瞬の静寂は沈黙によってもたらされた。
ならば、代案の提示で彼女を説得するしかない。
エウィンは左手を握られながらも、新たな作戦を口にする。
「変顔で誤魔化してみます。こんな感じで」
梅干しを食べた直後のように、童顔がぎゅっと中心に寄る。
「もしくは、これとか」
ひょっとこのように口を尖らせる。左右の目もそれぞれ異なる方向を向いており、器用なことこの上ない。
「こんなんもありますよ」
キリっと渋い表情へ移行するも、その顔立ちは完全に別人だ。陰影を帯びている上、顎が割れているようにも見える。劇画風なタッチは、この少年の人物像はおろか年齢さえも偽るほどだ。
変装ですらないこの顔が、空気を和ませることには成功する。
「ぶふっ、す、すごい……。わたしにも、出来るかな?」
「いや、アゲハさんはそのままでいいのでは?」
アゲハが表情豊かに笑い始めるも、エウィンだけは真顔だ。
ふざけた顔ではあったが、ふざけているわけではない。故郷の土を踏むための苦肉の策なのだが、アゲハはもはや止まらない。
「こ、こうかな? うっ、あははははははは!」
真似るように凛々しい表情を作るも、残念ながら表現力が足りていない。
もっとも、その顔は一瞬にして崩壊する。我慢の防波堤が決壊した結果、腹を抱えながらより一層笑ってしまう。こぼれる涙も、今回ばかりはキラリと美しい。
エウィンは彼女の豹変に呆然としながらも、笑顔を取り戻せたことに心底安堵する。
暗い話題ばかりではつまらない。そう気づかされた以上、顔の筋肉を総動員せずにはいられなかった。
「ダンディ」
「す、すごい……。大昔の、漫画みたい。笑い死んじゃうから、今は止めて……」
真っ暗な森の中で、目的地以上にここも明るくなる。
騒がしいだけかもしれないが、盛り上がっているのだからそれでも構わないはずだ。
にらめっこのような、そうでもないような。アゲハが一方的に笑っているのだから、彼女の完敗だ。
勝者は誇らしそうに、顔の堀りを一層深める。そこにいるのは童顔な十八歳ではなく、荒波に揉まれた一人の男だ。
アゲハの笑顔を取り戻せた。
自身の特技に気づけた。
それゆえに、エウィンとしても感無量だ。
ルルーブ港には帰りたくない。自分が排除されることはわかりきっている。
それでも、二本の足は前に動いてくれそうだ。
恐怖心は払拭された。
変装も問題なさそうだ。
ならば、胸を張ってそこを目指す。
光が溢れる、かつての故郷へ。
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