コメント
0件
「申し訳なかったっ!」
扉を開けたら男が一人、土下座をしていた。
「このとおり土下座でも何でもするから、俺のために料理を作ってくれ!」
立っているならば朝陽よりも十センチ以上高い男が土下座すると、意外に小さくなるものだ。そんなことを考えながら、朝陽は男の身体の横に置かれたビニール袋に視線を遣った。中には、これでもかというほど隼士の好きな食材が詰められている。
百パーセント予想どおりの展開だ。
「記憶がなくても、残念なところは変わんねぇな……ったく、今にも死にそうな声で『明日の裁判、このままじゃ負けるかもしれない』って言うから大急ぎで来たら、案の定これだもんよ」
医師の許可が下りて退院してから十日目、突然の連絡に驚いて駆けつけたら、この格好だ。呆れすぎて溜息も出ない。きっと今頃、病室で『お前、その言葉は忘れんなよ』と言っていた光太も大笑いしていることだろう。
「でも、まぁ隼士にしては、よく十日も我慢できたな。あ、もしかして病院の食事は大丈夫だったとか?」
「いや……病院の食事は最初から不味いものだと覚悟していたから何とか耐えていたが、それでも三日目が限界だった」
そのため看護師に自分は小食だと言って病院食を最小限の量にしてもらい、後は院内のコンビニエンスストアで食べられるものを買って凌いだという。しかしそれでも耐えられたのは五日目までで、あとは白飯握りだけで過ごしたのだという。
「で、俺のことは光太さんから聞いた、と」
「ああ。今日の昼、俺に『人生に絶望したような顔で、お握り食ってんじゃねぇよ。今すぐ農家の人達に謝りに行って、許して貰えるまで永遠に平伏してろ』と蹴りを入れた後に教えてくれた」
「イヤン、光太さんってば男前。俺、惚れちゃいそう」
冗談を交ぜながら、笑う。
きっと光太は顔に青筋を立てながら、怒鳴っていたことだろう。だが、その怒りの裏には大事な裁判を控える後輩と、親友に忘れられた朝陽の心を気遣う優しさが隠れている。
「朝陽のことを忘れたことは、本当に申し訳なく思っている。忘れても問題ないと言った俺がどうかしていた。本当、何度だって謝るから、どうか俺に料理を作ってくれ。このままだと俺は栄養失調で病院に逆戻りだ」
いやいや、隼士の場合は病院に戻ったところで逆に悪化するだけだろう。おかしなことを言う男に、容赦ない突っ込みを入れる。
「ったく、仕方ねぇな隼士君は……」
とりあえず謝罪は受け取って気も済んだ。朝陽は隼士に土下座を崩して立つように促してから食材の入った袋を持ち上げる。
ずっしり入っているのは、隼士がそれだけ食に飢えているからだろう。
「ほら、いくら室内とはいえ、廊下にいつまでも居たら風邪引いて、それこそ明日の裁判負けっぞ」
「作って……くれるのか?」
「おう。大親友様は優しいからな。けど記憶障害のせいで俺の料理も食べられなくなってても文句言うなよ。俺が作れるのは、記憶なくす前の隼士が好きだった料理なんだから」
「それでいい! 文句なんて言わない!」
「よし。なら、とっととキッチン行くぞ」
一気に表情が明るくなった隼士にクスッと笑いを零して、キッチンへと向かう。
その道中、ふと朝陽は以前、隼士と喧嘩した時のことを思い出した。確かあの時も顔を会わさなくなって一週間ほどしてから、隼士が頭を下げてきたはず。
今日と同じように、「朝陽の料理がないと、俺は死ぬ」と嘆きながら。
そう、隼士は重度の偏食なのだ。
彼の好き嫌いの激しさは幼い頃からのもので、親でも手を焼くほどのものだったそう。だが、それは彼が単にワガママだったからではない。
元から料理が苦手な母親に、味覚音痴の父。そして隙を見ては隼士の食事に様々なスパイスを混ぜる悪戯好きの兄の下で育ち、そのうえ幼少期に生物とキノコ類と生卵に当たってしまったという不運の連続で、いつしか彼の舌は許容するものを大きく制限してしまったのだ。
そんな偏食人が唯一食べられる料理、それが朝陽の作る料理なのである。
「そういえば、朝陽の実家は料理屋か何かをやっているのか?」
「いーや、両親は二人ともアパレル関係の仕事だから料理とか関係ないけど、何で?」
「俺は高校時代から朝陽に胃を掴まれていたと、光太さんから聞いてな」
クラスメートだった頃から自分の舌を唸らせていたことに驚いた隼士は、朝陽が特別な環境にいるのだと思っていたらしい。
しかし、自分が極度の偏食だということは覚えているのに、朝陽の料理を食べていたことはさっぱり覚えていないとは。ならばあの頃はどうやって耐えていたことになっているのだろう。朝陽は小さな疑問に苦笑いをしながら、首を横に振った。
「うちは両親が共働きで、下に弟と妹がいたから必然的に料理作るようになっただけだよ」
「だが、光太先輩もよく朝陽の料理食べにいくって言うし、全国展開している料理スタジオでエリア統括責任者兼、レシピ開発まで任されてるんだろ? きっと朝陽の料理は相当美味しいんだろうな」
「何だよそれ、持ち上げ作戦で俺の機嫌よくしようとでもしてんの?」
いきなり褒められ、何か下心があるのではと勘ぐってしまう。
「持ち上げるというより、期待の方が大きいな。ただ、褒めれば褒めるほど美味い料理が出てくるというなら、いくらでも称賛の言葉を並べよう」
「イヤ、ヤメテ。ハードル上げないで。俺、こう見えて繊細なハートの持ち主なんだから」
「かなり図太く見えるのは気のせいか?」
「今すぐ帰んぞ、コラ」
「すみませんでした」
「よろしい。ただ、まぁそう言ってくれるのは嬉しいけど、あんま過度な期待すんなよ。俺、どっちかといえば家庭料理専門だし」
驚くような料理は出てこないと、釘を刺す。
「大丈夫だ、俺の舌は今、物凄く家庭料理に飢えている!」
「何でそこでドヤ顔なんだよ。全く……それじゃ料理作るから、隼士は座って待ってて」
「俺だけ座って待っているなんて申し訳ない。だろ。何か言ってくれれば手伝うぞ?」
服の袖を捲り、手伝う気満々の様子を見せる。そんな男の姿に、朝陽は戦慄を覚えた。
「いやいやいや、隼士が手伝ったら逆に大惨事になるから! キッチンには入ってくるな! 絶対に入ってくるな! 入ってきたら三枚におろすからな」
この家の宿主に向かって、厳しい顔でキッチン侵入禁止令を言いつける。しかし、そうでもしないと本当に文字通りの大惨事になるのだから仕方がない。
あれは確か隼士が大学の頃だったか、珍しく料理を手伝いたいと言うから、ご飯を炊いて頼んだのだが、結果、芯の残ったお粥が出来上がった。これは荷が重すぎたかと、タマネギの皮を剥くよう指示したら、今度はシンクの上でバラバラ殺タマ事件が発生。ならばこれぐらいはと、お湯を沸かすよう言いつければ鍋が真っ黒になった。そんな前科のある男を、誰が使ってやるものか。
「アジフライならぬ、隼士フライになりたくなかったら、さっさと出ていく!」
どうせ記憶をなくした今でも、隼士の料理技術は向上していないだろうと決めつけ、朝陽はさっさと追いだす。
「わ、分かった……なら、リビングで待ってるから、食事ができたら呼んでくれるか?」
「りょーかい」
手伝えない申し訳なさを背負いながら離れていく隼士を見送ってから、食材を選別する。