テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
6月の雨は、どこか肌をじっとりと濡らす。都内の小さなデザイン事務所で働く美咲(みさき)は、今日もいつものように終電ギリギリまで仕事を片付け、会社を出た。
濡れたアスファルトの上に映る街灯の光が、ぼんやりとにじんで見える。
「また、残業か……」
小さくため息を吐きながら、スマホを取り出して駅へと急ぐ。
その時だった……。
視線を感じた。
背後。
ビルの隙間。
街灯の死角。
振り向いても、誰もいない。
最近、こういう事が増えてきた。
何かに見られているような、不気味な気配。
郵便ポストに差し込まれていた”差出人不明の手紙”や、”無言電話”、”インターフォンを鳴らしてすぐに消える影”。
「気のせい……」と言い聞かせても、胸の奥で嫌な感覚がひっかかっていた。
帰宅後、お風呂から上がりリビングに戻ろうとした時、玄関のドアの郵便受けに何かが差し込まれていた。
「えっ……いつの間に……?」
恐る恐る取り出すと、シンプルな白い封筒。
差出人の名前は、やはりない。
封を切ると、中には紙切れ一枚。
『今日の髪型、とても似合ってたよ。』
赤茶色い文字で書かれていた……。
これは血……?
ゾワッと、肌に鳥肌が立つ。
今日、誰にもそんなこと言われていない。
会ったのは職場の同僚と上司だけ。
なのに、髪を結んでいたことを知っている……?
美咲は震える手で110番するか迷った。
でも、証拠もなければ、警察は動かない。
《被害がないから》と、あっさり門前払いされるのがオチだ。
そんな無力感に打ちひしがれていると、スマホが鳴った。
––––––––––––-“「非通知通信」”––––––––––--
無視しようとしたが、震える指が誤って通話ボタンを押してしまった。
『……美咲さん?』
低く、優しげな男の声。
「……誰?」
『ごめん、怖がらせるつもりはなかったんだ。ただ、ずっと……美咲さんのこと好きだった♡』
「は……?」
『ずっと前から、美咲さんを見ていた。会社の近くで、カフェで、バス停で……どんな仕草も全部、愛しいと思った。君は僕の運命なんだ♡』
恐怖が、美咲の喉を締め付けた。
「やめて……!!もう連絡してこないで!!」
叫んで通話を切ると、体が震えて止まらなかった。
数日後、会社帰りに視線を感じて振り返ると、男が立っていた。
スーツ姿で、どこにでもいるような男性。
だけど、その目だけが異常だった。
真っ直ぐで、歪んでいて、狂気を孕んだ“愛”を投げつけてくるような視線。
『良規です。名前、知りたかったでしょ?』
男は、そう名乗った。
『俺は、ただ美咲さんの事が好きなだけなんだ。危害を加えるつもりは無い。お願い、話を聞いて欲しい。』
その目を見て、美咲は思った。
この人は、”普通”じゃないと……。
美咲は、その場を逃げるかのように走り去った。
だけど、それから毎日のように、美咲の前に良規は現れた。
職場のビルの前。
最寄り駅の出口。
マンションの前。
彼の”好き”は美咲の日常を蝕み(むしばみ)始めた。
警察にも相談した。
だが、やはり動いてはくれなかった。
《直接的な被害がないなら、できることは限られている》と……。
周囲の人にも相談をしたが、〈気のせいじゃない?〉と流される。
彼は表面上、とても”真面目な好青年”に見えるのだ。
私には逃げ場はなかった。
ある夜、美咲の部屋のドアに、また封筒が貼り付けられていた。
『もう他の男とは話さないで。君は僕のものだから』
恐怖が限界を越えた。
美咲は眠れぬ夜の中で、心を決める。
「……私が、この状況を終わらせてやる」
その日から、美咲は変わった。
服装を変え髪型も変え、振る舞いも変えた。
そして、良規に微笑みかけた。
「おはよう、良規くん。」
彼は驚きながらも、嬉しそうに頷いた。
『……え? ……美咲さん……今、俺のこと……』
「うん、ちょっと話してみたいなって思って……。」
最初は警戒していた彼も、徐々に心を開いていく。
ストーカーと被害者。
その歪な関係に、少しずつ”普通の会話”が混ざりはじめた。
だけど……
それは、美咲の中で芽生えたもう一つの感情の始まりだった。
「……ねえ、良規くん。もし、世界に私しかいなかったら、嬉しい?」
『……うん。君さえいれば、他には何もいらないよ』
その言葉を、美咲は笑顔で受け取った。
だが、その笑顔の奥で……
彼女の”愛”もまた、狂気に染まり始めていた。