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暗い部屋だった。
どこを見ても黒く沈んでいて、時間の感覚さえ曖昧になる。
「あっ……」
不意に声が漏れる。
気づけば涙が頬を伝っていた。
なんで泣いているんだろう。
悲しいわけじゃない。
苦しいわけでもない。
……でも、胸の奥がずっと苦しかった。
「……ここ、どこ……?」
頭がぼんやりする。
何も思い出せない。
名前も、
どうしてここにいるのかも。
「……なんで……?」
呟きは暗闇に溶けた。
その時だった。
気づくと、部屋の入口におじさんが立っていた。
逆光で顔はよく見えない。
けれど、その人はひどく疲れた顔をしていた。
「……起きたか」
低く、優しい声。
その直後、おじさんは小さく咳をした。
「……っ、ごほ」
短い咳だった。
けれど、おじさんは少しだけ苦しそうに眉を寄せる。
「……だれ……?」
その言葉に、おじさんの表情が一瞬だけ揺れる。
けれどすぐ、小さく笑った。
「……きっと、そのうち思い出せるよ」
そう言って、おじさんは白い薬を差し出した。
「これ、飲めるか?」
反射的に身を引く。
「……やだ」
「大丈夫だから」
「なんで飲まなきゃいけないの……?」
おじさんは少し黙り込み、それから静かに言った。
「……必要なんだ」
「怖い……」
震える声に、おじさんは悲しそうに目を伏せた。
「……そっか。怖いよな……ごめん」
そう言い残し、部屋を出ていく。
扉が閉まる。
静寂。
途端に胸がざわついた。
怖い。
一人が怖い。
慌てて立ち上がり、ドアノブを掴む。
だが開かない。
鍵がかかっていた。
「やだ……開けて……!」
必死にドアを叩く。
すると、ガチャ、と音がした。
勢いよく扉が開き、おじさんが戻ってくる。
手にはトレー。
湯気の立つスープと、小さなお粥。
「……ご飯、食べよう」
穏やかに言おうとしているのに、声には疲れが滲んでいた。
トレーを見る。
「……薬、入ってるの……?」
「入ってないよ」
そう答えたあと、おじさんは軽く咳き込む。
「ごほっ……」
「……大丈夫?」
思わず出た言葉に、おじさんは少し驚いた顔をした。
それから、困ったように笑う。
「……年かな」
冗談みたいに言って、お粥を前に置いた。
「少しでいい。食べてくれ」
その声は懇願みたいだった。
でも、怖くてたまらなかった。
「やだって言ってるでしょッ!!」
ガシャン――!!
トレーが床に落ちる。
皿が転がり、スープが散乱した。
静まり返る部屋。
「あ……ご、ごめ……」
謝ろうとした時、おじさんがしゃがみ込む。
黙ったまま、割れた皿を拾っていた。
怒っているわけじゃない。
ただ、少しだけ息が苦しそうだった。
やがておじさんは立ち上がる。
「……また後で来る」
背を向けたその姿が、
なぜだか少し小さく見えた。
しばらくして、部屋を抜け出した。
夜風が冷たい。
知らない街をふらふら歩く。
けれど、不思議と懐かしかった。
小さな公園。
古いブランコ。
その景色を見た瞬間、頭の奥で声が響く。
『危ないから、ちゃんと掴まって』
優しい声。
『俺が後ろにいるから』
涙がこぼれた。
理由はわからないのに、胸が締めつけられる。
さらに歩く。
川沿いの古い自販機。
『ほら、あったかいの』
缶コーヒーを押しつけてくる大きな手。
『猫舌なんだから気をつけろよ』
笑い声。
隣にいた人。
その時、遠くから声がした。
「……いた……!」
振り返る。
息を切らしたおじさんが立っていた。
肩で呼吸をしながら、苦しそうに俯く。
けれど、こちらを見ると安心したように笑った。
「勝手にいなくなるなよ……」
怒っているはずなのに、その声は震えていた。
見つめ返す。
「……誰……?」
おじさんは少し黙る。
それから、苦しそうに笑った。
「……夫だよ」
その瞬間、記憶が溢れた。
結婚式。
朝ごはん。
くだらない喧嘩。
繋いだ手。
『忘れても、俺が覚えてるから』
「あ……ぁ……っ」
その場に崩れ落ちる。
夫が慌てて抱きとめた。
「大丈夫、大丈夫だから」
その声が優しくて、余計に涙が止まらなかった。
「ごめんなさい……っ」
「……うん」
「私、いっぱい嫌なこと言った……」
「……うん」
「でも、ずっとそばにいてくれた……」
夫は静かに笑う。
「疲れてはいたけどな」
冗談みたいに言う声が、少し掠れていた。
「何回忘れられても、放っとけなかった」
「なんで……?」
「好きだから」
あまりにも自然に言うから、私は泣きながら笑った。
「……これからは、もう忘れないよ」
そう言うと、夫は少しだけ寂しそうに笑った。
数週間後。
夫は病気で亡くなった。
私の介護を優先して、自分の治療を後回しにしていたのだと、後から知った。
朝、隣で眠る夫は冷たくなっていた。
静かな顔だった。
まるで、ようやく安心できたみたいに。
机の上には薬と、一枚のメモ。
『今日もちゃんと薬飲めますように』
私はその紙を握りしめる。
涙で文字が滲む。
「……忘れないって、言ったのに……」
部屋には、もう返事をしてくれる人はいなかった。
今回もチャッピーに誤字などを修整してもらってます。
過去作も読んでいただけると嬉しいです
希咲羅
212
恐福。
37
🌈Rei.2🎶✌(れい)
224