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壁山脈が雪化粧を施し始める季節、星の全てが雲の緞帳に覆い隠され、白粉の如く薄雲を塗った白銀の月だけが天に座し、山麓の戦士の都を見下ろしている。
山に寄り添うように半円形に広がる都は、船底屋根の様式を汲みつつも他の土地では見られない凝った装飾の出窓が並んでおり、日が暮れたばかりならば漏れる光の温かな眼差しが王城と山脈を仰ぐ。
ただし今は夜も深くその濃さを増し、月が僅かばかり賜る慈しみでは山影の街を暗闇から引き揚げるには足りず、ただ山に寄り添うレンバータ城だけが地上の火と熱と光を絶やさずにいる。山から下りてくる邪な風を引き連れる魔性の嫌う篝火と哨戒たる銀の鎧の掲げる祝福された松明が王城の内と外に神聖な光を投げかける。
しかし悪しきを引きずり出す光を巧みに避けて王城を徘徊する女があった。しなやかかつ素早い身のこなしで陰から陰へ、死角から死角へと駆け抜ける。雪のような白い肌に夜闇に溶ける薄紺の装束を纏い、黒い渦を象った仮面を身に着けている。そして血に飢えた獣の牙の如き一振りの鋭利な短刀を握りしめていた。
女が最初に行き当たった者は歩廊を行く銀の鎧だった。松明を握り、剣の柄に手をかけており、充溢した気力は鍛え上げた肉体を即応させるだろう。しかし女は歩哨に気づかれることなく背後から近づき、迷いなく首筋に刃を突き立てた。銀の鎧は赤い血をごぼごぼと零し、その場に頽れた。
「ああ、また……。殺す前に話を聞く。教わったのに」
女は溜息交じりに独り言ちると再び夜闇に姿を隠す。侵入者は銀の鎧の鋭い視線ばかりか月の光の睥睨さえも浴びることなく、何かを探すように静まり返った王城を駆け巡る。花々の枯れた庭を進み、蔦に侵略された壁を上り、鳥の糞に彩られた屋根を走り、大胆にも城の中にさえ侵入し、地下室から聖堂、謁見の間に至るまで。幾人かの銀の鎧は見逃され、幾人かは己の血に溺れた。
女はある広間の梁の上で一息つくように腰を下ろし、更なる血を求めるようにぎらつく短剣を見つめる。素朴で頑丈、余計な装飾はないが確実に皮膚を引き裂く造形だ。
「つい先に手が動く。だって余計なことは考えるな、だから。でも今夜は違う。それでは駄目」
ふと聞き慣れた銀の鎧の擦れる音が聞こえ、女は手練れの狩人のように息を潜め、梁の上で体勢を低くする。新たな哀れな獲物は頭上に潜む女に気づかず、真っすぐに部屋を横切ろうとしている。
女は飛び降り、銀の鎧を蹴り倒し、野太い悲鳴をあげる兜を踏み付け、隙間に押し込もうとした短剣をすんでのところで押し留める。首を掻き切る衝動を抑え、ただ首筋に刃を押し当てて囁く。
「静かに話せ。お前らの、偉い奴はどこだ?」
「何? 何だ? 偉い奴? 何を言っている?」
「答えなければ殺してもいい。答えるなら見逃してもいい。一番偉い奴だ。命令する奴だ。どこだ?」
「どこだと? もう夜だ。寝室に決まってるだろ。貴様、誰の差し金で――」
銀の鎧は沈黙し、言葉の代わりに血を垂れ流す。
天蓋付きの豪奢な寝台に突っ伏して年老いた男が嗚咽している。唸り声はまるで喉に何かが詰まっているかのように掠れている。
まるで牢獄のような部屋だ。出窓には格子が取り付けられ、分厚い窓掛けは月の光も通さない。唯一の光は暖炉に赤々と燃える炎だけだが、その火の爆ぜる音にさえ怪物の唸りでも聞いたかのように年老いた男は悲鳴を漏らす。ただし悲鳴を部屋の外には漏らさない。その物音の正体が分かると再び嗚咽するのだった。
突如部屋に唯一の扉ががたがたと揺れ、男は外聞も気にせず悲鳴を上げて部屋の隅へと逃げる。他に逃げ場はない。
扉はまるで泥のように変形し、人の形を作った。扉だった者の黒檀の肌には教鞭を持つ海月の描かれた菱形の札が貼ってある。また自らその札を剥がし、部屋の外に落ちて広がっている濃紺の大布に貼り付けると、今度は布が人の形を作る。そして扉は元通りに閉ざされた。
「また悪夢でも見たのだろう?」と布の人形は指摘する。「酷い顔だ。立派な王様にはとても見えないな。牙を研ぐ獣二世よ」
年老いた男は安心したようにため息をついて幼子が母の温もりを求めるように寝台へと戻る。
「教える者師、勝手に入って来るなと言っただろう」
ミガーレアは突き放すように答える。「逃げ隠れするなと教えてあるだろう、ナジウズ。本当に反省しているのか疑わしいな」
「反省している! しているが、恐ろしいものは恐ろしいのだ! 今にも刺客が、あるいは復讐者自身がここへ乗り込んできて、眠る私の胸に白刃を突き立てるのではないかと思うと眠ってはいられないのだ」
ナジウズ二世は頭を抱え込み、白髪交じりの髪を掻き毟る。ミガーレアは溜息をついて暖炉の火に当たる。
「下らんな、王よ。貴様の行いに比べれば、暗殺など児戯よ。王ならば己の行いの行く末を、それがどのような結末であれ、腕を広げて迎えよ」
灰髪の王は痛みを堪えるかのように強く瞼を閉じて唸るように呟く。「そうありたいがどうすればそのようなことができるのか、まるで分からない。恐怖は穴の開いた船底から忍び込む冷たい海水のように私に染み込んでくる。この夜は赦しを得るまで続くのか?」
「許しを得る? 貴様、まだ赦されるつもりでいたのか」大布のミガーレアは王に背を向けたまま呆れたように話す。「思うだけならまだしも、大罪人が赦しを口にするとは呆れ果てたものだ」
ナジウズ二世は細い喉を絞めつけて怒鳴る。「貴様が問うたのだ! 名君になりたいかと!」
「そして貴様は答えた。己より名高い王はいない、と。そして私を地下牢に十年閉じ込めた」
ナジウズ二世が小さな悲鳴をあげて身を縮める。何かを探すように寝室のあちこちに視線を向ける。
罪深き王は悪夢を見せる魔性に声を聴かれることを恐れるように囁く。「今の音が聞こえたか? いったい何の音だ?」
「臆病者め。薪の折れた音だ」
隠れ潜む者がそうするように暫く耳を澄まし、王は再び師に問いかける。「お前も私を恨んでいるのか? お前が私を殺すのか?」
「いや、恨んでなどいない。そもそも地下牢には閉じ込められたふりをしていた。十年を無為に過ごすものか。それに殺そうと思えばとうの昔に殺せる。私の望みは私の為したことで示されたはずだ。貴様はよく学び、よく省み、よく変わった。私から教えを受けた後、善政を成し続けた。悪税を取り止め、治安を回復し、治水に取り組み、川の子等王国との和解を成し遂げた」
「まだだ! まだ私は名君になっていない! 民草は私の豹変に奇異な噂を交え、貴族どもが賞賛するのはお前ばかりだ」
大布は立ち上がり、どちらが前かも分からないがくるりと回転し、その影で王を覆う。
「当然だ。お前の為したことを忘れたのか? 享楽のために古くから蓄えられてきた国庫を涸らし、徒に罪なき働き者の民草を殺し、貴様に仕える者の青紫の瞳の美しい新妻を奪い、傲りのために至上の川沿岸諸国と得る物なき戦を繰り返した。それで何故許されると思う? 善政が悪政を帳消しにするとでも思ったのか?」
「違う! 全てが全て私の考えたことではない!」
「そうではない。ナジウズ。それは王の言葉ではない。誰が何を言おうが、王が決め、王が為したのだ。王が唆されることはない。全ては王自身が唆させたのだ。忘れるな。ナジウズ二世、レンバータの暗君よ。全てを得たくば全てを受け入れるのだ」
ナジウズ二世が悲鳴を上げて跳びあがる。
「何の影だ! 今何かが動いた! 窓の外だ!」
王の師ミガーレアは暗い布を波打たせ、苛立たし気に責める。「黙れ、腑抜けめ。窓は窓掛けに覆われている。影は暖炉が投げかけ、私の布が揺れたのだ」
ナジウズは枕元にまで引っ込んで毛布をかぶる。
「死にたくない。殺されたくないんだ。一体誰だ。私の命を狙っているのは」
「貴様が苦しめてきた者たち全員が貴様の死を望んでいるだろうよ」ミガーレアが微風でも浴びたかのようにゆらゆらと揺れながら苦笑する。「だが、まあ、安心するがいい。この王城を守備する兵どもはよく鍛えられている。貴様のせいで多くの兵を失ったが、貴様を大事に思っている貴族の何某が遣わした者たちもいる。私とて抜かりない。それに貴様はもはや命を狙われるほどの暗君ではない」
「どういう意味だ?」
毛布の隙間からナジウズ二世は聳え立つ大布を見つめる。
「そのままの意味だ。貴様が良い方向へと変化していることに気づいている、敏い者もいるということだ」
「そうなのか? そうなのか!」
今宵初めてナジウズ二世の表情が明るく変化した。
「さりとて命を狙われるほどの名君でもないがな。だとすれば奴らの目当ては一人。そら、来たぞ」
重い足音が部屋に迫っている。扉が何度か打ち叩かれ、最後には破られた。夜闇の如き闖入者が刃を振り上げ、躍りかかったのはミガーレアだった。抜き放った刃を二度三度と振るい、ずたずたに引き裂き、そして布をかき集めて暖炉に焚べた。飢えた獣のように布切れに喰いついた火が橙色の生々しい光を放つ。
闖入者は火掻き棒をかき回し、何かに納得するとナジウズ二世の前に跪く。
「恐れながら申し上げます。彼の教師ミガーレアは実体を持たぬ妖しの者にございます。これが何よりの証拠」そう進言して引き裂かれた布の切れ端を示す。「陛下を唆し、己が欲望の為に利用しようとしていたのでございましょう」
「一体なんだ? これは」
ナジウズは燃え盛る暖炉を見つめる。炉の奥から人の形をした火に包まれた炭の塊が這い出てくる。
「甘い蜜を吸っていた者どもが私を恨み、再び貴様を傀儡にすべく暗躍しているのだよ」そしてミガーレアは満足そうに頷く。「上出来だな」
暖炉の火の声を聞いて振り返った闖入者は再び剣を振り上げたが、溺れた者のようにごぼごぼと喘ぎ、その場に倒れた。黒鉄の鎧が血に塗れる。その首元から短剣を引き抜いた黒渦の仮面の女が炭火のミガーレアのそばに跪く。
「遅くなりました。ごめんなさい」と女は仮面の奥で呟く。
ミガーレアが窘めるように囁く。「いいや、良い働きだ。結果として誰も失わず、全てを仕留めてきたのだろう? 素晴らしい結果だ」
「手駒などいたのか」とナジウズ二世は感心したように呟く。
「貴様のために育てた手駒だ。十年も暇だったのでな」と王をも恐れぬミガーレアは答える。
「だがほめ過ぎではないか? 貴様は暖炉に放り込まれ。もしも狙いが私だったなら手遅れだった」
「だが私は無事で、貴様は狙われていなかった。教え方というものがあるのだ。それは教える者ではなく、教わる者によって違うものだ」
ナジウズ二世は納得しかねる様子で顔を顰める。
「貴様がいずれ名君となったならば何度も救われることとなるだろう」ミガーレアは手駒の女に炭火の顔を向ける。「仮面を取ってやれ、新鮮な朝を迎える喜び」
薄紺の衣の女リノが仮面を取ると、青紫の瞳がおずおずとナジウズを見つめる。
「何故だ?」とだけ王は呟いた。
「説得したのだ」と寝室の唯一の明かりのミガーレアは答えた。「どこぞから攫われてきた女が貴様の戯れに偶然救われただけだ、とな。だが頑として聞かなかった。それでも恩に思っており、貴様のために働きたいのだとな。感謝するがいい。罪が消えぬように功も消えぬものだ」
ナジウズは頭を抱え、深くため息をつく。「ありがとう。本当にありがとう」
ミガーレアは己の火を消すと寝台をよじ登り、己の本源たる絵札をナジウズ二世の包まれた毛布に貼り付ける。新たな体に乗り移ったミガーレアは暗闇の中、王の耳元で囁く。
「だが努々忘れるな。火が消えても、痛みは残る。痛みが消えても火傷は残る。火傷が消えても恐れは残る。そして恐れが消えた時、火はまた点るのだ」