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第十七話 いいでしょう
アルプス山脈の中腹あたりだろう。
何時間も歩いた。
夜は、凍りつくほど静かだった。
吹雪はない。
空は澄み、星が冷たく瞬いている。
けれどその美しさは、ただ遠いだけで、何も赦してはくれなかった。
息を吐くたび、白い霧が生まれては消える。
私は、ウラシェルの上着握ったまま、足を止めた。
これ以上は、進めない。
雪を踏み締める感覚も、指先の感覚も、もう曖昧だった。
引きずってきた身体は、思ったよりも軽い。
軽い。
まるで、もう何も入っていないみたいに。
「……死んでしまったのでしょう」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
返事はない。
当然だ。死んでいるのだから。
そう決めたはずなのに、胸の奥で何かが引っかかった。
私は、ゆっくりと膝を折り、その場に座り込む。
そして、彼の隣へと身体を横たえた。
雪は硬く、冷たい。
けれど、それよりも近い場所に、別の感触があった。
顔を、彼の胸元へ寄せる。
腕を、そっと彼の身体の上に重ねる。
温かい。
ほんのわずかに。
雪よりも、夜気よりも、確かに温かい。
そして。
微かに、上下する感覚。
……気のせいだ。
山の冷気が、錯覚を生んでいるだけ。
死んだ身体が動くはずがない。
私は目を閉じる。
感じてはいけない。
もし生きているのだとしたら、自分は何をしているのか分からなくなる。
だから、これは死だ。
これは終わり。
それでいい。
「私たち……もうずっと……」
夜に溶ける声は、かすれていた。
互いのこと、好きじゃなくていいでしょう。
好きでいることは、正しさを揺らす。
好きでいることは、弱さを許してしまう。
だから、いらない。
「……私は、ここじゃない所でも幸せになれるのよ」
自分に言い聞かせるように。
「あなたも、ね」
彼は死んでいるのだから、幸せになどなれない。
死んでいるからこそ、もう苦しまなくて済む。
それでも、語る。
「これからお互い、幸せになりましょうね」
矛盾に気づかないふりをして。
星が、瞬く。
白く、遠く。
「…忘れてよ」
この顔も。
そう言って、彼の頬に触れる。
冷たい。
でも、その奥に、まだわずかな熱があるような気がして。
忘れるのだ。
顔も、声も、体温も。
互いに好きだったということも。
雪の上に横たわりながら、私は空を見上げる。
神に近い場所。
ここならきっと、正しい。
ここならきっと、すべては浄化される。
指先の感覚が、ゆっくりと消えていく。
それでも私は、彼の胸に頬を預けたまま、目を閉じた。
──もう、好きじゃなくていい。
そう何度も心の中で繰り返しながら。
夜は、ただ静かに、更けていった。