テラーノベル
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一方その頃、王子谷はというと──。
「主任。俺、営業車でよければ運転します。これから保育園のお迎えっすよね?」
「え……でも、悪いわよ。王子谷にそこまで――」
言いかけた彼女の言葉を遮るように、僕は告げた。
「いいから、病人はおとなしく運ばれてください。これ、部下からの『逆・業務命令』っす」
「……なにそれ。そんなの聞いたことないわよ」
驚きつつも、どこか安心したように彼女は笑った。
彼女を後部座席に乗せ、車を走らせる。車内には、微かにかおる彼女の香水の匂いと、ビジネスバッグが擦れる音。
「妹さん、いたのね」
「八歳下に。就職と同時に実家を出たから、今はたまにしか会わないっすけど。母親が仕事で遅い時は、俺が面倒見てたんすよ」
保育園に着くと、四歳の息子くんが「おにいちゃんだれー!」とはしゃぎながら駆け寄ってきた。
だが、子供の無邪気さは時に残酷だ。俺はあっという間に「おじちゃん」へと格下げされ、質問攻めにあった。
「おじちゃん、マ○オカートしようよ。僕、強いんだよ」
「おじちゃんはどんな食べ物が好きなのー?」
(俺、まだ二十五っすよ。さっきまでお母さん(主任)に『お兄ちゃん』って言われてたのに……泣)
バックミラー越しに見える、息子くんを優しくあやす主任の、母親としての柔らかな表情をしていた。
夕暮れの街並みに溶け込むその光景は、まるで「本当の家族」のような、甘くて残酷な錯覚を俺に見せた。一瞬だけでいい。このまま、この時間が「日常」になればいいのに。 そんな分不相応な願いが頭をよぎり、その度にハンドルを握る手のひらがじわりと汗ばんだ。
「……ありがとね、王子谷。今日は本当に助かったわ。……気を付けて帰りなさい」
ドアが閉まる鈍い音が、僕の白昼夢を強制終了させた。 マンションの前で二人を降ろし、「お礼、今度させてね」といつもの上司の顔に戻った彼女を見送る。 ハザードランプの点滅音が、静まり返った車内に空虚に響いていた。
しばらくして、見上げていた三階の一室に明かりが灯る。 あそこには、さっきまで後部座席で笑っていた親子がいて、俺の知らない日常がまた動き出しているのだ。
「……ふぅ……」
彼女の残り香がわずかに漂う車内で、深く、深く息を吐いた。 ダッシュボードに残ったロキソニンのレシート。ただ力になりたかった。その一心だった。でも。
『……ありがとね、王子谷』
別れ際、彼女が浮かべたのは、親切な隣人に向けられるような、微笑みだった。
「……っ、くそ」
重い鉛を乗せられたような感覚で、ハンドルに額を押し当てた。嬉しい。頼られたことも、役に立てたことも、彼女のプライベートに触れられたことも。でも、それと同じくらい、胸が焼けるように痛かった。
俺がどれだけ背伸びをしたところで、彼女にとっての俺はただの『親切な部下』。彼女が背負っている苦労も、痛みも、生活の重みも、半分すら分けてもらえない。
「……なんて感情だよ、これ」
車を出さなきゃいけないのに、ハンドルに顔を埋めたまま、どうしても顔を上げられない。暗い車内。点滅するハザードランプの規則的な音が、俺の、どうしようもなく不格好な鼓動と重なっていた。
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