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日本に帰ってきて、一週間後には新しい職場に出社した。
シンガポールで散財してしまったからこれ以上遊んでいる余裕はないし、実家の父さんに仕事を辞めたと伝えていないから一日でも早く働きたかった。
うかうかしていたら実家に帰って来いって言われそうだしね。
別に東京にこだわるつもりはないけれど、このまま帰れば逃げ出したみたいで嫌だから。
「小倉さん、挨拶して」
朝礼で課長に紹介され、私は一歩前に出た。
「本日からお世話になります、小倉芽衣です。よろしくお願いいたします」
腰を折って頭を下げると、フロアから拍手が上がった。
「じゃあ、席は坂井さんの隣ね」
「はい」
結構広いフロアにいくつもの島があり、私はその中の一つに案内された。
「坂井藍です。よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
私の転職した先は平石物産の総務課。
平石財閥傘下で全国規模の上場企業。
本当なら私なんかが入れるところではないけれど、来年春までの期間採用ということで就職できた。
もし継続採用してもらえなければ春にはまた就活しなければならないけれど、それでもすぐに働きたくてここに決めた。
「芽衣ちゃんって呼んでいい?」
「ああ、はい」
「私は藍でいいから。ちなみに二十五歳ね」
「はい、藍さん。私は二十三歳です」
藍さんは肩まで伸びたウエーブヘアがとってもかわいい女性。
よかった、藍さんとなら上手くやれそう。
***
「じゃあ、お昼に行こうか?」
「はい」
お昼はいつも藍さんが誘ってくれるようになった。
平石物産は大企業だけあって社食も豪華で、お手頃。
その気になればワンコインで食べられるメニューがいくつもある。
「私は日替わりかな。芽衣ちゃんは何にする?」
「そうですねえ、日替わりはチキンかあ」
ちょっと迷うな。
「チキン嫌いなの?」
「いいえ、好きですよ。ただ、少し前にすごくおいしいチキンライスを食べてしまって、それからはどんなチキンを食べてもおいしいと思えなくて」
だから最近は食べていない。
「チキンライスって、ケチャップの?」
「いえ、シンガポール名物の」
「ああ、そっちか。確かに美味しいのを一度食べたらほかので妥協できなくなるってあるかもね」
「そうですね」
でも、きっと思い出すのはチキンライスの味というよりも奏多さんとの時間。
それが辛いからチキンは食べなくなった。
「どうするの?」
「今日はパスタにします」
日替わりパスタはミートソースだから、それがいい。
***
「そういえば、金曜日のパーティーって行くでしょ?」
日替わりのチキン南蛮を頬張りながら、藍さんが聞いてきた。
「年に一度の会社主催のパーティーで、全員参加って課長から聞いていますから」
支度があるようなら早めに退社してもいいとさえ言われているのに、断る理由がない。
「週末なのに、デートとか大丈夫なの?」
「ええ。今彼氏はいないので」
「そうなんだ」
元カレ蓮斗とは小康状態。
何度か携帯の番号を変えてもすぐに掛けてくるから、今では諦めて無視を貫いている。
幸いなことに住所はバレていないみたいだから、今のとこは実害はないし。
そのうち蓮斗も仕事が忙しくなるだろうし、新しい彼女ができるかもしれないし、今はじっと蓮斗の気持ちが離れていくのを待つしかない。
「何着ようかな?」
「え、スーツでいいって聞きましたけれど」
仕事が終わったらそのまま行けばいいよ。って課長に言われて素直に信じていた。
「いいのよそれで。でも、みんな着飾るの。会社の上層部の人もみんな参加するし、今回は御曹司も参加らしいしね」
「ああ」
そう言えば、平石財閥の御曹司が副社長で戻ってくるんだった。
「藍さんも狙っているんですか?」
「まさか。でも、見てみたくはあるわね」
「へー」
私はいいな。
蓮斗とのトラウマがあるから、御曹司だ王子様だって言われるだけで身構えてしまう。
やっぱり平凡が一番だと、今は思えるもの。
***
藍さんの指導のおかげもあって、仕事も順調。
今年の春社会に出たばかりの私が言うのもおかしいけれど、ここ平石物産はとても働きやすい職場だと思う。
みんな向上心があって足の引っ張り合いもないし、裏でコソコソと意地悪をする人もいない。
管理職たちの年齢が若いせいかいい意見はちゃんと上まで上がっていくし、一言で言うと風通しのいい会社。
もちろん気になることがないわけではないけれど、私は毎日楽しく過ごしていた。
「小倉さん5階の会議室の電球が切れているらしいんだけれど、行ける?」
「はい、行けます」
電球の交換は施設の仕事。
本当なら総務の仕事ではないけれど、忙しい時にはそうも言っていられない。
今の総務課で抱える仕事が一番少ないのは私だし、電球交換くらいならお安い御用。
「行ってきます」
台車に脚立と、備品を乗せエレベーターへ向かった。
***
「あの、空き缶はあちらのごみ箱にお願いします」
電球交換のため、脚立の上に乗ったところで廊下から聞こえてきた声。
「いいじゃない。あなたが分けてくれればいいでしょ?」
「混ぜられたら全部広げて分けないといけなくなるじゃないですか?」
「じゃあそうしてよ」
どうやら、掃除のスタッフと女性職員がもめているらしい。
それにしても、横柄な態度。
ちょっと頭に来た私は顔を見てやろうと急いで脚立を降りようとして、 足が絡まり最後の二段で落ちそうになった。
「危ないなあ」
電球を持ったまま床に転びそうになったところで駆け寄って来た男性に支えられ、転ばずに済んだ。
「すみません、ありがとうございます」
どこから現れたかわからないけれど、おかげで助かった。
「電球持ったまま脚立を駆け下りれば危ないってわかりそうなものでしょう」
「すみません」
「気を付けてください。不注意でケガをされたんではいい迷惑です」
「気を付けます」
確かに、悪いのは私。
危ないところを助けてももらった。
でも、もう少し優しい言い方はできないんだろうか?
とりあえず謝って頭を下げながら、私は男性の名札を見た。
「秘書課長、田代雄平」
秘書課長ってことはかなり偉い人。
関わらない方がいいみたい。
「申し訳ありませんでした」
私はもう一度頭を下げると、逃げるようにその場を後にした。
***
「芽衣ちゃん、直接行くの?」
週末。
会社主催のパーティーが行われる日。
夕方になって藍さんがそわそわしだした。
「私は一度帰って着替えだけしますけれど、藍さんは?」
「一応美容院が予約してあるから」
「へえー」
すごいなあ。
そう言えば、女子の何人かは午後休をとって早退していった。
みんな気合が入ってるわ。
「年に一度のイベントだからね」
「そうですね」
藍さんの情報によるとこのパーティーでカップルになる人も多いらしい。
平石物産は大企業だし、ここの社員と結婚すれば将来だって安心。そういう思惑もあるのかもしれない。
「じゃあ現地でね」
「はい」
定時ちょうどに席を立ち、会社の前で藍さんと別れた。
私のアパートまでは電車で30分。会場であるホテルまでは一時間弱かかるから、ゆっくりする時間はない。
「さあ、何を着よう」
そう考えてまず浮かんだのはシンガポールで買ってもらったワンピース。
かわいいし、華やかだし、きっとパーティーでも映えるはず。
でも・・・新人がそんなに目立ってもいいことはない。
困ったなあ。
***
結局、通勤でも着るようなフレアのスカートと、柔らかなデザインのシフォンブラウス。上からボレロ風のジャケットを着て私はパーティーへ向かった。
やはりあのワンピースを着る勇気はなかった。
この調子なら、もう二度と着ることはないのかもしれない。
そう思うと少し寂しくなるけれど、夢のように過ごした数日間の思い出として大事にしまっておこう。
「小倉君、どうした。グラスが空じゃないか」
「あ、轟課長」
広い会場の壁沿いでひっそり立っていた私は、総務課長に見つかってしまった。
まずいな。
轟課長はお酒が入ると絡むから気をつけなさいよって藍さんに言われていたんだった。
「さあ、飲んで飲んで」
いつの間にかなみなみとビールの入ったグラスを持たされて、私はグラスを空けないといけない状況を作られていった。
「そうか、君は三ツ星の秘書課にいたのかあ」
「ええ。でも、ほんの数ケ月でしたが」
私の勤めていたのは老舗の百貨店。
そこの秘書課にいたと聞いて、課長の表情が変わった。
「あそこの秘書課ってことはかなり語学が堪能なんだろう?」
「ええ。英語と中国語は一応マスターしていますし、日常会話程度ならあと数ヶ国語はいけます」
「すごいなあ」
「いえいえ」
この時の私は、なぜ三ツ星を辞めたんだって聞かれるのが怖くてビクビクしていた。
「そうかあ、君にそんな才能があったとはねえ。まぁ、飲んで飲んで」
「は、はい」
勧められるまま二杯目のグラスを空けてしまった。
***
パーティーは社長のあいさつで始まり、途中ゲームやカラオケもあるにぎやかなもの。
轟課長にかなり飲まされて酔っぱらってはいても、それなりに楽しかった。
「芽衣ちゃん大丈夫?」
課長のもとから救い出してくれた藍さんが、お水を差し出した。
「大丈夫です。すみません」
注意しなさいよって言われていたのに、捕まってしまったのは私が悪い。
「課長もあれがないといい上司なんだけれどね」
「確かに」
顔を見合わせフフフと笑いあったところで、会場が少しざわついた。
「どうやら王子様の登場みたいね」
ちょっと背伸びをしてステージ上に視線を向ける藍さん。
財閥の王子様かあ。
どんな人だろう。
私も野次馬根性でみんなの視線の先を見つめた。
「では、平石副社長お願いいたします」
司会の男性社員の紹介でステージに上がってきた長身の男性。
まっすぐにステージ中央まで進むと、マイクの前で立ち止まり視線を上げた。
え、ええ、嘘。
私は口を開けたまま、ステージを見つめていた。
完全に固まったまま体が硬直し、息が苦しい。
「どうしたの?芽衣ちゃん、大丈夫?」
耳元で藍さんの声がして肩をゆすられたのはわかるけれど、どうすることもできない。
***
「大丈夫?落ち着いた?」
「はい」
藍さんに抱えられてロビーに連れ出してもらった。
おかげで注目を浴びることもなく、会場を出ることができた。
「すみません、急にお酒が回ったらしくて」
「いいのよ。悪いのは轟課長だから」
藍さんはそう言ってくれるけれど、お酒が回って動けなくなったんじゃない。
本当は・・・
「副社長を見たとたんおかしくなるから、驚いちゃったわ」
「すみません」
藍さん、もしかして何か気づいたのかもしれない。
「噂通り素敵な人だったわね」
「え?」
「副社長よ」
「ああ」
あれだけ離れた場所から見てもキラキラと輝いているのがわかる、文字通り王子様だった。
副社長、平石奏多。
日本を代表する財閥の御曹司。
私とは何の接点もないはずの人なのに・・・
「芽衣ちゃん、顔色悪いわよ」
「大丈夫です」
この体調不良はお酒のせいではない。
原因は・・・あの人。
***
「海外生活が長いから、身のこなしも優雅だったわね」
「そうですね」
私の隣に座り興奮気味に副社長の話をする藍さん。
正直、聞きたくないと思いながら止める理由も見つからなくて私はおとなしく聞いていた。
「複雑な家庭環境だから、日本にいたくなかったのかもしれないわ」
「え?それはどういう・・・」
藍さんの言葉がひっかかって、聞き返した。
藍さんは私の方を見ることなく、ぼんやりと前を見ながら話しだした。
「平石本家には二人の跡取り息子がいるの。一人は平石財閥のメイン企業であるHIRAISIの副社長の遥さん。奏多さんのお兄さんね」
「ええ」
確か、七歳上のお兄さんがいるって聞いた記憶がある。
「そのお兄さんは平石家の実子ではなくて養子なのよ」
「へえー」
お金持ちのお家なら養子をもらって家を継がせるのは珍しいことではない。
平石財閥くらいのお家なら、後継者は必ず必要だろうし。
「きっと、養子をもらってあきらめたころに奏多さんが生まれたのね」
「そんなぁ・・・」
「でもね、平石家は養子として迎えた遥さんを無碍にするようなことはしなかったの。大切に育てて、平石の後継者とした」
ホッ、よかった。
「ただ、中には血のつながった奏多さんを徴用したいと思う古株も多くて、色々と思惑があるのよ」
ふーん。
すごく嫌な気分だけれど、想像はできる。
「副社長は、奏多さんはきっとそれが分かったから高校時代から海外へ逃げ出したの」
ここまで聞いて、疑問がわいた。
「藍さん、ずいぶん詳しいですね」
ただの聞きかじりにしては情報が詳細すぎる。
***
「実は父がね、HIRAISIに勤めているのよ」
「へえー、そうなんですか」
藍さん自身は遥さんとも奏多さんとも面識はないが、2人のお母様である平石夫人と藍さんのお父さんは古くからの友人らしい。だから、平石家の事情に詳しいんだ。
「まあ、こうして奏多さんが日本に帰ってきたからには色々とうるさく言う人は出てくるでしょうけれど、いつまでもこのままってわけにはいかないんだから潮時だったのよね」
「そう、ですね」
私はシンガポールで見た奏多さんの寂しそうな顔を思い出していた。
本当はまだやりかけの仕事があるのに、帰国命令が出たんだと言っていたのはこういうことだったんだ。
「芽衣ちゃん、体が落ち着いたんなら会場に戻る?この後もまだイベントがあるみたいだし、副社長もいるし」
「いえ、帰ります。すみませんが課長には」
「わかった、うまく言っておくわ。大体自分が飲ませたんだから、課長も何も言わないわよ」
「ありがとうございます」
本当は課長に飲まされたお酒のせいで気分が悪くなったわけではない。
でも、そのことは言えない。
嘘をつくようで申し訳ないなと思いながら、私はパーティー会場を後にした。