それは、月がやけに大きく見えた晩のことだった。
猫又亭の看板に吊るされた風鈴が、からんと音を立てる。音の余韻は静かに路地裏へと溶けていき、代わりにやって来たのは、長い尻尾をふわりと揺らす影だった。
「……開いてるかねぇ、今日は」
のそり、と戸を引いたのは、古びたマントを羽織った年配の狸の妖(あやかし)だった。耳が欠け、片目に包帯を巻いたその姿は、どこか物語の終わりを思わせる。けれど目元には、どこか懐かしさを感じさせる柔らかい光が宿っていた。
「あらあら、久しぶりのお客さま」
ふらりと現れたその姿に、カウンターの奥で帳簿をつけていたマスターが、目を細める。
「狸の源さん。今日はどうされました? もう隠居なさったんじゃ――」
「おうおう、隠居はしたさ。でもな、たまには昔の味が恋しくなるってもんだろう?」
そう言って、源と呼ばれた老狸は、ぽすんと椅子に腰を下ろす。
「……“あのスープ”は、まだ出してるかい?」
マスターは驚いたように一瞬まばたきをし、それから小さく頷いた。
「“月夜スープ”、ですね」
「ああ。……あれを、もう一度だけ味わいたくてな」
それは、かつて猫又亭の裏メニューとして常連のみに出していた一品だった。鶏の出汁に月見草の香りをほんのひとしずく。夜の霧のように淡く、けれど心に沁み渡るやさしい味――記憶の中の誰かを、そっと呼び戻すための一杯。
厨房から香りが流れ出すと同時に、源の目は遠くを見つめはじめた。
「……そういやあの頃、おれには一匹の小狸の弟子がいてな。器用なやつで、料理も学問も覚えが早かった。けどな、どうにも感情の起伏が薄いやつで……笑った顔、見たことなかったな」
話をしながら、源の指はテーブルをとんとん、と叩いていた。
「けどな、不思議だったよ。ここの“月夜スープ”だけは、あいつ、何も言わずに飲み干して、ぽつりとひと言こう言った。“……あったかい”ってな」
マスターは微笑みを浮かべながらスープ皿を前に置いた。
「その弟子さん……今は?」
老狸は、ひとつ、ゆっくりと首を振った。
「もう、いない。人間の村の火事に巻き込まれてな。助けに行ったときには、すでに……」
そこまで話すと、老狸はそっとスプーンを取った。白い湯気の向こうに、かすかな涙がきらめいたようにも見えた。
「……ありがとうな。これで、やっとあいつを送ってやれる気がするよ」
マスターは静かに頷きながら、カウンターの奥に下がる。
猫又亭には、言葉以上に伝わる“何か”がある。
それは味か、記憶か、あるいは――心そのものか。
月が高く昇る頃、老狸の姿は店から消えていた。
まるで、霧の中に溶けるように。
そしてカウンターの上には、空っぽになったスープ皿と、古びたマントだけが残されていた。