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「あー、俺も相手してくれねぇかなぁ」
「バカじゃねぇの、顔で夜の相手選んでるんで無理ですって言われるオチだし」
「は、毎晩相手違うってか。 ヤバくね?何人いるんだよ」
と、主に男性陣の声。
聞こえてきた内容を理解できないまま真衣香はフリーズした。
(……え、私のこと? だよね、こっち見て言ってたもんね? え??)
よりにもよって、今日は、営業部の大きなガラス窓を拭いていた。
それさえも「今日は坪井に相手させるんですか、立花さーん」なんて、小声で冷やかされてしまう始末。
(な、なんで!? てか、よ、夜の相手とか二股とかどうなってるの……)
二股どころか、真衣香は坪井に振られたのだし。夜の相手だなんて言われても、悲しいかな。経験したこともないままなのに。
動揺し、手を止めて考え込んでいると、頭上から声がした。
「おはよ、もう終わり? 持とうか?」
「……え?」
9時の始業開始まで、そう時間も残っていなかった為、そろそろ片付けて仕事を始めようと思ってはいたのだが。
声をかけてきたのは、うろたえる真衣香を、さらに追い詰める人物だ。
「風邪、大丈夫? あ、お前のコート人事部の女の子に預けてるから受け取っておいて。 ごめんな、返すの遅くなって」
片眉を下げて、遠慮がちに笑う。
真衣香は、呟くように、その名を呼んだ。
「……つ、坪井くん、どうして」
聞こえていないのか、坪井はそのまま話し続ける。
「今日、八木さんは営業所まわるとかで、夕方までいないんだって。 聞いた?」
「う、うん、昨日、電話で話したから」
昨日の夕方の電話で、確かに『明日は、俺朝からいないけど。残ってる仕事はないと思うから無理すんなよ』と言ってくれていた。
杉田も会議でフロアに顔を出すのは午後からになると聞いているし、頼れる人が少ない分、何事もなく1日が終わればいいと思いながら出勤したのだ。
「はは。そっか、話してたんだ。 まあ、上司だもんな」
全然楽しくなさそうに笑い声をあげる坪井に、真衣香は眉を潜めた。
「てか、話しかけてるし八木さんがいたら怒られるとこだったね」と、また困ったように笑うけど、どう反応を返せばいいのかわからない。
そうして当たり前のように坪井が、真衣香の掃除用具の一つであるバケツを手に持った時。
やめてほしい、と。止めようとする真衣香の声よりも先に、突如騒めいた空気。
散らばる声を拾おうと、坪井は耳をすませるようにして動作を止め、それからすぐに目を細めた。
「……へえ、なにこれ、いつからだろ」
どうやら坪井にも、耳を疑いたくなるあの噂話が聞こえたようだ。
「……わからない、さっき何となく聞こえただけで」
「そっか、さっきね。 お前休んでたもんね」
そう言って、うーん。と何か考えるように小さく唸る姿。その隙に真衣香は坪井の手からバケツを奪い取る。
「そ、それじゃ、行くね」
短く声をかけると真衣香は精一杯、バケツの水がこぼれない程度に走って坪井から遠ざかった。
「え、あ! 立花!?」
走り去った、その背後では慌てたような坪井の声が響いたけれど振り返る勇気なんて真衣香にはなかった。
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