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第七話 あの妻を見たとき、新田は少しだけ自分を恥じた
新田が初めて彼の家を訪ねた日、玄関を開けたのは妻だった。
柔らかいが、疲れていた。
にこやかだが、生活の重さを知っている顔だった。
部屋はきちんと片づいていた。広くはないが、荒れてはいない。むしろ、誰かが丁寧に守っている感じがした。
売れない作家の部屋はもっと荒れていると思っていたわけではない。
だが実際、その家には、支えている人間の気配があった。
「いつもお世話になってます」
妻はそう言った。
お世話になっているのはどちらだろう、と新田は思った。
締切を守らない。連絡も遅い。自己評価は低いくせに妙な頑固さだけはある。編集者としてはかなり面倒な部類の作家だ。その面倒くささを、家の中でも彼女は引き受けているはずだった。
なのに、その妻は新田に礼を言った。
仕事部屋で原稿の話をしているあいだ、台所から食器の小さな音が聞こえた。湯を沸かす音。茶葉の香り。新田はなぜだか、その静かな生活音に少しだけ胸が詰まった。
あの男は、この音に甘えている。
そう思って、腹が立った。
同時に、その生活音がなければあの男はもっと早く壊れていたとも思った。
妻はたぶん、彼の文章を信じている。
信じて、疲れて、怒って、それでもまだ見捨てていない。
その事実が、新田には眩しかった。
編集者は仕事として作家を支える。
だが配偶者は生活として支える。
その差は大きい。
帰り道、新田は自分が少しだけ卑怯に思えた。
自分は会社の名刺と肩書きと、“仕事だから”という免罪符を持ってあの男に厳しくできる。だがあの妻は、何の権威もなく、日々の現実だけで彼を支えている。
それを見たからこそ、新田はあのとき玄関先で妻に言ったのだ。
『この人、まだいけます。捨てないでください』
あれは半分、冗談だった。
半分、本気だった。
そして残り半分は、たぶん新田自身への願いだった。
自分もまだ、この作家を諦めたくない、と。
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