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第八話 編集者は、原稿が届いた瞬間だけ少し報われる
深夜一時二十七分。
新田のスマホが震えた。
件名。
「第一稿です」
新田はすぐには開かなかった。
わざとではない。ただ、胸の奥に妙な緊張が走った。何度も待たされ、何度も裏切られ、何度も「今度こそ」に付き合ってきた。その蓄積が、メール一通に過剰な重みを持たせる。
やがて彼は開いた。
添付ファイルを落とす。
データ名を見る。
タイトルは、以前より少しだけましになっている。
読み始める。
一ページ。
二ページ。
三ページ。
新田は途中で眼鏡を外した。
前よりいい。
ずっといい。
まだ甘い。説明も残っている。構成ももっと研げる。だが、前よりずっと、生活が生きている。妻が人間になっている。猫が、意味の象徴ではなく猫としている。何より、作者自身が少しだけ、自分の情けなさを直視している。
そこがよかった。
新田は無意識に息を吐いていた。
肩の力が抜ける。
ああ、と思う。
この瞬間のためにやっているのだ。
売れるかどうかはまだわからない。
会議を通るかも、書店がどう動くかも、読者にどう届くかも、この時点では何一つ確定していない。
それでも、昨日まで届かなかったものが、今日、たしかに届く形になった。
その瞬間だけ、編集者は報われる。
新田は短く返信を書いた。
『受領。今回は前よりずっといいです』
それ以上は書かなかった。
本当はもう少しあった。
よくやったとか、やっとここまで来たとか、ちゃんと読者に届くかもしれないとか。
でも書かない。
編集者が作家に与えすぎると、関係は壊れることがある。
与えるべきなのは感傷ではなく、次の仕事だ。
スマホを置き、机の上のコピーへ目をやる。
初めて読んだ、あのひどくて忘れられなかった原稿。
「……ちゃんと来たじゃないですか」
誰にともなく、そう呟いた。
編集部の窓の外は、まだ暗い。
明日になればまた会議があり、数字があり、容赦ない現実がある。
それでも今夜だけは少しだけ、仕事が好きだと思えた。