凪は、心の中がポカポカと温かくなるのを感じた。明日から仕事を暫く休むにしろ、また眠れない日々を自宅で過ごすことになるだろうと思っていた。
確信はないが、どうやら千紘と一緒だとちゃんと眠れるらしい。それだけでも喜ばしいことなのだ。
客にうんざりした後、誰もいない家でその先ずっと過ごすのは精神的に辛い。けれど、その後千紘とぐっすり眠れるなら、この後の仕事も乗り切れる気がしてきた。
「じゃあ……明日の夜来る」
「ほんと? じゃあ、俺仕事終わったら連絡する」
「ん……」
凪が軽く頷くと千紘は嬉しそうに凪をギュッと抱きしめた。髪を撫でられ、心地よく感じた。凪は、軽く目を閉じる。
こんなにも穏やかな時間は、今まで感じたことはなかった。付き合っていた彼女といても自分が癒されることもなかった。
女性と付き合うのとは全く違って、これが千紘と付き合うということなら悪くないかも……なんて思い始めた。
--ピンポーン
インターフォンが鳴り響き、凪と千紘は同時にバッと顔を上げた。まるで悪いことをしていたかのように、慌てて布団で体を隠す。
しかし、ただのインターフォンだと気付いた千紘は、ゆっくり体を起こして裸のままベッドから降りた。
脱いだ服は全て脱衣所だ。千紘は気怠そうにクローゼットを開けて、下着を取り出すととりあえずそれだけ履いてインターフォンを覗いた。
カメラが映し出した先にいたのは、千紘がよく知る顔。
「あ……兄ちゃん来ちゃった」
ポツリと呟く。行くから待っててと言ってからかなり時間が経った。凪と会話をしてシャワーを浴びて長いこと体を重ねていた。
いくら待ち合わせの時間を指定していないと言っても、何時間も待たされた相手の都合まで気にしていなかった。
連絡はしてきても、さすがに家まではこないだろうと思っていたのだ。凪を置いたまま出かけるか、外で待っててもらうか……色々考えたがとりあえず「ちょっと待ってて……」と言うのが精一杯だった。
凪もとりあえずバスタオルを下半身に巻いて、千紘に近付く。
「……服」
「ああ、うん。着た方がよさそうだね」
苦笑する千紘はそう言うが、凪の服は既に洗濯されてすぶ濡れだ。乾燥機の中で湿った状態で回っている。
じゃあ、俺の服を……と千紘がクローゼットを開けてガサガサと探す。美容師としてのセンスが邪魔してか、これは凪には似合わない、これはサイズ感が……と物色していて中々決まらない。
「おい、何でもいいから」
いくら兄弟とはいえ、客人を待たせるな。そう思う凪は千紘を急かす。千紘もんー……と考えながら「じゃあ、これかな」と凪に選んだパンツを手渡す。
その瞬間、別の気配を感じた。
「千紘ー? 寝てたの?」
ひょこっと顔を出した男と先に目が合ったのは凪だった。
「え……」
凪は片目をピクピクと引きつらせて、動きを止めた。けれど、相手の男はニッコリ笑って「はじめまして。千紘の兄の|千草《ちぐさ》です」と平然と言った。
「あ……えっと、大橋凪です」
つられて自己紹介してしまった凪は、数秒経ってからはっとおかしな事に気付いた。
何普通に挨拶してんだよ! 俺も千紘も裸だぞ!? こんなカオスな状況でこの男も動じないとか……こりゃ、過去にも同じようなことがあったな。
チラッと千紘を見れば、苦笑したまま肩をすくめた。
「もー、勝手に入ってこないでよ」
「暗証番号教えたの千紘じゃん」
「待っててって言ったのに」
「時間かかるなら中で待たせてもらおうと思ってさ。彼氏来てるなら言ってよ」
ははっと軽快に笑う千草に、凪は思わず「かっ……彼氏じゃっ!」と強く言いかけた。
「あれ? 違うの? セフレ?」
目を丸くさせた千草が、チラッと凪の体を見る。しっかりと情事後を連想させる姿を見て千草は首を傾げた。
「凪は俺が好きな子なのー。俺の凪なんだからあんまり見ないでよ」
千紘は凪の体を隠すように抱きしめ、面白くなさそうに頬を膨らめた。
「ちょっ」
凪は驚いて、やめろと千紘の胸板を押した。抵抗する凪を見て、千草が微笑ましそうに頬を緩めた。
「好きな子か。じゃあ、千紘の片想いだ?」
「今はね」
千紘は、片想いだと言いきられたのが面白くないのか、更に唇を尖らせた。凪は、今はという言葉を否定しようともがくが、完全に千紘にホールドされて仕方なく諦めた。
「そう。上手くいくといいね」
「ね。俺もそう思ってる」
本人がそこにいるのが見えていないのかと思えるような兄弟の会話に凪は顔をしかめた。それから、千紘の腕の間から千草の容姿を改めて見つめた。
千紘と同じくらい柔らかい雰囲気だが、イメージは全く違った。ミルクティー色でウルフカットの千紘は中性的な印象だが、千草は黒髪で凪よりも短い。さらっとセットをして前髪もセンターで分けていることから清潔感は十分あるが、千紘よりも男性っぽさがあった。
口元は千紘と似てはいるが、目の作りはかなり違うようだった。幅の狭い二重に、三白眼。笑った雰囲気は柔らかいものの、普通にしていると目力を感じた。
スタイルは千紘同様スラリと綺麗だが、筋肉がしっかりとついているのが服の上からでもわかる。
身長も千紘と同じくらいありそうで、凪は恐らく自分よりも高いだろうと思った。
控えめに言ってもかなりのイケメンだった。落ち着いた大人の雰囲気が、女性ウケしそうで凪は久しぶりにこんなに整った容姿の男に出会った気がした。
一般人でこんだけのイケメンがいたら、そりゃセラピストに求められるレベルも上がるよな……。
技術だけじゃ売上を作れないのがこの仕事の難しいところだし。
凪は、休職しようとしているにもかかわらず無意識にそんなことを考えた。
「千紘、どうするの? 今日やめとく?」
千草はギュッとくっついてる2人を見て尋ねた。
「俺、もう帰るんで……」
千紘の言葉を待つまでもなく、凪がそう答えた。