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「うー……」
千紘は名残惜しそうに凪に頬擦りをした。凪は、左手で千紘の頬を押しのけながら顔を反対に反らした。
「そういう話だった」
「うん。……明日また待ってる」
凪の予定を確認せずに兄と約束してしまったのは自分だ。家まで来てしまった兄を今更追い返すわけにもいかず、千紘は項垂れながら頷いた。
「兄ちゃん、ちょっと待ってて。着替えるから」
千紘が顔を上げると、千草はにっこり笑って「おっけー」と顔の前で親指と人差し指で丸を作ってOKポーズを見せた。
軽い感じは千紘と似ている。同じ環境で育った感じがする。凪はそう思った。
千紘は凪から距離をとって、先程同様ウォークインクローゼットの中に入った。手持ち無沙汰になってしまった凪は、何となくその光景を見ていたが、すっと千草が近寄ってきたことで目を大きく見開いた。
「千紘のこと、好きじゃないの?」
凪はコソッと耳打ちされて、気まずそうに顔を上げる。
「えっと……その、まだ……」
千紘の身内に対してなんて答えるのが正解なのかわからなかった。全く好きじゃないと言うのは失礼だし、可能性はあるかもしれないと言うのは上から目線だし、今は結構好きだと言うのもなんだか小っ恥ずかしい。
実際、千紘のいいところはたくさん見えるようになったし、これが友達だったなら仲良くなれただろうと何度か思った。
ただ、千紘に恋愛感情がある以上その関係は複雑で、単に人として好き、友達として好きだなんてたくさんの意味を持つ好きを軽はずみに口にはできなかった。
「ふーん……まだ、ね」
「いや、あの……」
何となく居心地の悪さを感じたのは、干渉してくる千紘の身内の存在が鬱陶しいわけじゃない。ザワザワと胸騒ぎがするような気がしたからだ。
その瞬間「千紘のこと、遊びだったら殺すよ?」と低い声が耳元で響いた。
凪はすっと目を大きくさせて、青冷めた表情をした。耳元で低く唸るような声が、初めて千紘に会って、脅された時にそっくりだったのだ。
一瞬忘れかけていた千紘への恐怖が蘇り、凪は唇を震わせた。
「あれ? ごめん。ちょっと驚かそうと思っただけだったんだけど」
凪の顔を見て、パチパチと目を瞬かせた千草は悪びれもなく笑って言った。そんな仕草も千紘とそっくりで、ゾクリと背筋が寒くなる。
まるで千紘が2人いるみたいで、急に怖くなったのだ。
最近の千紘は優しくて、凪を優先してくれて、安心感を与えてくれた。けれど、体は決して忘れていない。
初めて出会った時に何をされたか、今でもはっきりと覚えているのだ。快感に流されて千紘を受け入れても、ふとした瞬間に身体が震える。
「凪はこれ着てー」
2人の不穏な空気を壊すようにして、千紘が明るい声で言った。ズボンを持ったままの凪に「履かなかったの?」と続けながら、手に持ったトップスを凪の近くに掲げた。
凪はそれを無意識に取ろうと手を伸ばす。けれど、指先がとんっと千紘の手に触れてバッと勢いよく手を引っ込めた。
「っ……」
凪は、千紘に触れた自分の手を守るようにしてもう片方の手で覆った。その反応に驚いたのは千紘の方。さっきまで一緒にじゃれ合っていたのに、凪は自分のことを警戒心を孕んだ目で見つめる。
一気に距離を感じて、千紘は大きく息をのんだ。凪が離れていく気がした。ここまで努力して少しずつ、ほんの少しずつ距離を縮めた。それは物理的な意味ではなく、心の距離のことだ。
最近になってようやく凪が笑ってくれるようになったというのに、たった一瞬で怯えた目をするようになってしまった。
「凪……?」
千紘は恐る恐る凪に声をかけた。人間を怖がっている野生の動物に近付くように、優しくゆっくりと。
「あ……別に。ありがと」
凪ははっとして、止まっていた時を進めるかのように千紘から再度服を受け取って頭から被ると、袖を通した。
続けて元々持っていたズボンを履くと、手ぐしでさっと髪をとかした。
「じゃあ、俺帰るから……」
そう言った凪は、千紘と目を合わそうとはしなかった。ふいっと顔を背けて荷物を取りにリビングへ向かう。
千紘は咄嗟に凪の手を掴んだ。このまま行かせたら、もう二度と会えない気がした。
なんだか胸騒ぎが止まらない。ドクドクと激しく心臓が脈打つ。
「……送ってく」
それでもなんて声をかけたらいいのかわからなかった。せめて家まで送り届けて、帰り際に誤解を解けたら……。
誤解? ……なんの? 凪は何でこんなに怯えた顔をしてる?
千紘には現状が全く理解できなかった。ほんの数分の出来事だ。
「大丈夫。……買い物、行ってこいよ」
凪は優しく千紘の手を掴んで、自分の手から引き離した。その動作が振り払われるよりも切なくて、胸の奥がズキズキと痛んだ。
千紘が瞳を揺らして凪の背中を見つめる中、凪は荷物を持って玄関へと向かっていった。
「何あれ。愛想悪……」
千草はボソッと呟いた。その一言で、千紘は千草が何かしたんじゃないかと勘づいた。千紘はゆっくり千草の視線をとらえて「兄ちゃん、凪になんかした?」と尋ねた。
「何もしてないよ。兄ちゃんが千紘の好きな子イジめるわけないじゃん」
千草はそう飄々と言う。
「……うん」
「でも千紘も気を付けなきゃだよ? あれだけのイケメンくんなら、モテるだろうし。千紘のことを受け入れてくれても、男なら誰でもいいって思ってるかも」
「凪は違う!」
凪のことを悪く言おうとする千草に、千紘は声を荒らげた。そのすぐ後にガチャンと重たいドアが閉まる音がして、千紘ははっと眉を上げた。
凪が勝手に出ていったのだ。きっとこのまま帰らせたら、明日の夜はもう来てくれない気がした。それどころか、連絡も取れなくなって、家だって引っ越してしまうかもしれない。
ぶわっと冷や汗が吹き出して、千紘は思わず駆け出した。