テラーノベル
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誰もいない美術準備室。夕暮れが壁を赤く染め、静けさのなかに埃の匂いが満ちている。
遥は、そこにいた。
額に汗。呼吸は浅く速い。机の上には破られかけたスケッチブック。そこには、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされた人影。何枚も。何十枚も。
ひとつとして残っていない。どの線も、どの顔も、傷だらけだった。
遥の拳はわずかに震えていた。
殴ったわけでもない。誰かを叩いたわけでもない。
ただ、自分の描こうとしたものを、許せなかった。
「……なにしてんの、俺は……」
吐き捨てるような声。
怒っている。でもそれは、他人にではなかった。
日下部の顔が、一瞬浮かんで消える。
あのとき、自分が後ろに立っただけで──「命令してる」「主従関係」なんて、笑いが起きた。
それを、本気で信じてしまいそうになる自分がいた。
「おれが、触れたから……」
「おれが、守られようとしたから……」
「おれが、あいつを欲しいと思ったから……」
そう思うたびに、遥の中の“加害者”が育っていく。
そして今、確かに──誰かに壊されるより前に、自分で壊したいという衝動が、遥の中にあった。
その瞬間、扉が開いた。
日下部だった。
遥は反射的に立ち上がり、背を向ける。顔は見せなかった。
だが、日下部は一歩だけ近づき、何も言わず、そのまま立ち止まった。
沈黙。
遥が、自分を責め続ける気配を、日下部は感じていた。
どんな言葉を差し出しても、遥には届かない。
今の遥に届くのは、“言葉じゃない”──そう、知っていた。
だから日下部は、ただ一歩。
机の上のスケッチブックに、そっと自分の手を伸ばした。
破られかけた一枚をめくる。次のページも、その次も。
ぐしゃぐしゃにされて、線も残っていない。
だが──その一番奥に、まだ潰されていない一枚があった。
それは、遠くを見つめる横顔だった。光を避けるような、弱さの影をまとって、それでもどこか遠くを見ている顔。
遥が、まだ“自分を壊す前”に描いたものだろう。
日下部は、静かにそれを見つめ、そして──
そのページを、破らなかった。
遥は、それを背中越しに聞いていた。
足音はしない。ただ、一枚の紙が静かにページとして戻された音。
日下部は、何も言わず、そのまま部屋を出て行く。
──ただ、それだけだった。
でも遥には、わかった。
「……壊さなかったのか」
自分の汚れた衝動も、消したかった衝動も、
全部まとめて、日下部は“残していった”。
言葉じゃなく、“選択”で示した。
遥の「歪み」も、「怒り」も、拒絶しなかった。
その沈黙が、遥のどこか深い場所で──確かに、何かを震わせていた。
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