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美術準備室を出た日下部は、黙って廊下を歩いていた。呼吸は浅く、喉の奥が熱い。それでも泣かない。泣くことが、何かを壊す気がして。いや──遥から何かを奪う気がして。
誰にも会いたくなかった。誰の目も通したくなかった。
でも、廊下の角を曲がった瞬間、視界の端にスマートフォンを掲げる手が見えた。
──誰かが、撮っていた。
日下部と遥が準備室に入るところを。
出てくる瞬間を。
その目には、悪意などない。ただ、無表情な“他人”の目だった。
「……またか」
呟いたが、声にはならなかった。
次の日。
朝、ホームルームが始まる前。教室に教師の姿はなく、生徒だけがいた。
スクリーンに何かが映っていた。
《匿名の通報フォーム》と題されたWebページ。
そこにはこう書かれていた。
「日下部と遥が、放課後に密室で“何か”していた」
「遥は日下部の命令を待って動いている」
「教室での異常な“共依存”関係が、他の生徒の精神状態に悪影響を与えている」
「教師も何も言わないのは、おかしい」
URLの出所は不明。誰が映したのかもわからない。
だが、明らかに意図的に教室で再生されたことだけは、確かだった。
誰かが声を出した。
「これ、ほんとなの?」
「なんか……そういう関係っていうか、ちょっと病的じゃない?」
「先生に相談したほうがよくない?もう、生徒の範囲超えてるでしょ」
目線が、ちらちらと遥の席に向かう。
だが、遥はその場にいなかった。
一方で、日下部は黙ってその画面を見ていた。
誰にも何も言わない。ただ、見ている。
そう、それが──火に油を注ぐ。
「無視してるってことは、認めてる?」
「……てか、守ってる感じ? うわ、逆にこわ……」
「もしかして、ほんとに“洗脳”みたいな……?」
笑いと囁き。だが、それはもういじめではなかった。
もっと冷たい。もっと静かな、“切断”だった。
「関わらないほうがいいよね、あの二人。なんか、巻き込まれそう」
「てか、被害者こっちじゃね?」
日下部の席に置かれた教科書の端に、油性ペンで書かれた文字があった。
「共犯者」
「主従関係」
「監禁」
それは、もはや暴力ではなかった。
空気そのものが、罠だった。
その日の放課後、遥は誰もいない音楽室にいた。
椅子の上で膝を抱え、何もない床を見ていた。
自分が壊してきたもの。
守られたことで、逆に壊れたもの。
「……信じさせなければよかった」
「期待なんて、されなければよかった」
声はかすれていた。涙ではなく、熱のない絶望だった。
だがそのとき──扉が、音を立てずに開いた。
日下部が、そこにいた。
遥は、顔を上げなかった。だが気配には気づいていた。
沈黙。
日下部は、静かに遥の近くまで歩くと、何も言わず、自分の学生証を机に置いた。
そのカードには、名前。ID。個人情報。
それを、差し出した。──まるで、「預ける」ように。
遥が顔を上げた。わずかに、目が揺れる。
「……なん、だよ」
日下部は答えない。ただ立ったまま、それを見つめている。
沈黙は、拒絶ではなかった。自己開示のかたちだった。
“お前が信じなくてもいい。でも俺は、ここにいる”──
そう言っているようだった。
遥の指が、学生証に触れる。震えている。けれど、逃げなかった。