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厨房には、煮込まれる肉と野菜の芳醇な香りが渦を巻き、視界が白く霞むほどに湯気が立ち込めていた。トントンと響く小気味よい包丁の音が、戦場のような熱気の中に響き渡る。
「おいてめぇら! そんな間近でジロジロ見てんじゃねぇ、火が使えねぇだろ!」
煌が苛立ちを露わに叫ぶが、神官たちはもはや恐怖よりも食欲に支配されていた。
「申し訳ございません……。ですが、何とも言えない美味そうな匂いが……」
「この、艶やかに光る黒い液体は何です? まさか毒……いえ、甘やかな毒気さえ感じますぞ!」
「あぁ、巫女様。そのうなじの汗を、せめてこの布で……」
かつて煌を魔法陣に埋めようとしたジジイ(神官)たちが、今や子犬のような目で調理台に群がり、挙句の果てには煌の世話を焼こうと手を伸ばし始める。
「邪魔だっつってんだろ! つーか! どさくさになに触ろうとしてんだコラ!!」
「うほッ!? 巫女様のお声が凛々しゅうございますぞぉ~!」
「っ! キモイっつーの!!」
恍惚とした叫びが上がり、周囲の男たちが次々に鼻血を拭き出しながら退却していく。一方で、静遠だけは壁際で腕組みをしながら、鋭い目つきで料理を睨みつけていた。おそらく毒の有無でもチェックしているのだろう。
(ホントにどうなってんだ、こいつら……)
内心で溜息をつきつつも、煌は鍋を強火に戻し、煮汁が赤褐色の泡を立て始めるのを確認した。ここで入れるのは、“黒い液体”――醤油だ。
「いやぁ、醤油があって助かったぜ。燕花も人が悪いなぁ。あるならあるって最初から言ってくれよ」
「申し訳ありません。童殿が使いたいとおっしゃるまで、どのような使い方をすればよいのか見当もつきませんでしたから。」
「……そうだったのか? お前ら、こんな便利なモンをずっと放置してたのかよ」
煌が瓶の栓を抜くと、ふわりと香ばしい、大豆が熟成された独特の香りが立ち上った。それだけで、ただの「肉と野菜の煮物」が、一気に芯の通った家庭の味へと変貌を遂げる。
煌は琥珀色の煮汁に醤油を一気に注ぎ込んだ。じゅわっ、と弾けるような音と共に、厨房全体の空気が一変する。食欲を暴走させるような強烈な香りが鼻腔を突き抜け、壁際にいた神官たちが「おぉっ……!」と一斉に身を乗り出した。
「すごい……。この黒い液体は、まさか貴重な霊薬の類でしょうか?とても、嗅いだことのない美味しそうな香りがします」
燕花が瓶を見つめながら呟く。その瞳には好奇心と困惑が混ざっていた。本当に燕花にとってもこの「黒い液体」は未知の存在だったのだろう。だが今やその威力を目の当たりにし、得体の知れない期待感を抱いているのが伝わってくる。
「霊薬なんて大袈裟な……。こりゃ単なる普通の醤油だぜ」
「しょうゆ……。童殿の世界でははそう呼ぶのですね」
「まぁな。つか、なんで棚の奥にしまってあったんだ?」
使い方を知らなかったのなら仕方がないが、だったら何故、この国に醤油が存在しているのだろうか?
しかも長く生きているはずの燕花も使い方がわからないときた。
「この黒い液体は……。確か三年ほど前です」
「三年前?」
煌が鍋をかき混ぜる手を止め、燕花の方へ顔を向けた。
「はい。玄武様が朱雀様を訪ねてこられた際、手土産に持って来られたものだと聞いております」
「玄武が……?」
「朱雀様は玄武様を嫌っておいでですし、得体の知れない黒い液体。毒かもしれぬと警戒のため、使うことなく保管されていたのです」
「……得体の知れねぇって……。まぁ、確かにな。俺だって知らねぇ国の奴からこんなもんもらったら怪しむけどよ」
そう考えるとますます奇妙だ。どうして玄武が現代日本の調味料を持っているのだろうか?
(……玄武の野郎、何者なんだ?)
煌は、鍋の中でホクホクと煮えるジャガイモを見つめたまま、思考の迷宮に足を踏み入れていた。
この世界に馴染まない「仙煙草」、そしてこの「醤油」。どちらも、この国の文明レベルからは明らかに浮いている「異物」だ。それが全て北の守護神である玄武から流れてきている。
しかも三年前、わざわざ手土産として持参したという。使い方も教えずに置いていったのは、単なる嫌がらせか、それとも――。
(やっぱり、玄武の国に何かある……? それともあいつ自身が“日本と繋がり”があるのか?)
例えば、自分のように召喚された巫女が居たとしたら?
煌は、静かに箸を置いた。目の前に広がるのは確かに食欲をそそる和食の匂いだったが、その匂いの奥にある奇妙な因果が、喉の奥をヒリつかせる。