蝉の声。
太陽はオレンジ。
じわりと湿る汗と布。
左手首だけが異常な感触。
掴まれた。
心を今掴まれている。
触りやがった。
私の隠しているものに。
こいつは触りやがった。
家に帰らなきゃいけない時間なのに、知らない道に連れていかれた。伊藤空は無言のままひたすらに何処か前へと進んでいく。目の端でちらちらと海が写る。私は引かれるままに身を委ねた。この後のことは全部こいつのせいにしてしまえばいいか。
私は…何も悪くない。
「あ…と。ここ私のイエー。近いでしょぉ。突然こんな所まで連れてきちゃってごめんね…折角だし上がって上がって!!ね!」
伊藤空は両手をぱっと見せ、ひらひらと手を踊らす。民家が立ち並ぶ中、彼女の家は淡い緑色の屋根を持つ2階建ての一軒家。彼女の家につれて来られたのか。私は目元と口角を上げて見せる。
「いいよいいよ。私今部活帰りで汚いし。申し訳ない。」
嫌です。私に関わらないで欲しい。むず痒い気持ちを笑顔で覆い隠す。
「お菓子あるよ!…嫌、かな?…あのね…実はさ、今ここで話し合わなきゃいけないものがあると私思ったんだよ。…自分から逃げちゃだめだよ。」
何それ。
私はコンクリートを見つめ、さらに目元と口角を上げて見せる。
「やめてむかつく」
短く鋭く響いた。何を知った気でいるんだ。腹立たしい。私が今まで言葉にしたことのない台詞を口にした。頭の中がいつになく、ぐしゃぐしゃと黒くうねる。封じ込めていた負の感情が漏れ出ていく。ほらね。君のせいだ。君のせいで私は死んでしまう。あーあ。空気が重くなったのを感じたが、心に余裕がないため、相手にどう思われようが傷つかれようがどうでも良くなっていた。私はだんだん埋もれていく。お前が私に変に同情なんてするからだ。
「だって楓果ちゃん…いじめられてるでしょ?いじめられている人を見つけたら助けなきゃいけないから。」
あ…。彼女から言葉は続けられる。しかし、私には聞こえなかった。自分が崩れていく感触に邪魔をされたからだ。ここに立っている実感が持てない。今まで封じていた自分の綻びに指を突っ込まれた。私になんてことをしてくれた。
伊藤空は何を見たのかたまらず私を家の中へと連れて行く。
またも手を引かれる。2、3段階段を上り、門は開かれ、ギィと軽く軋む音。他人の家に上がり込むのはいつぶりだろう。
自分は一体何をしたいのか分からなかった。口では嫌嫌言うくせに、腕は素直に引かれるまま。
「今日は一日親居ないから泊まってってもいいよ」
変わった家庭。…この人は苦労人。そしてお節介。自分を持ってて、人気者。そんな偏見を勝手に抱く。勝手に比べて勝手に劣等感を抱く。愚かな自分に酔っている。
「…お母さんに言ったら怒られる…から早めに帰るよ。」
「わかった。じゃあお菓子と飲み物持ってくるからちょっと待っててね。」
扉は閉められ、私はいつの間にか部屋の中心でぽつりと座っていた。正面にあるのは勉強机だろうか、そこには青い空を中心とした写真がコルクボードに飾られており、友達との写真も多く見えた。
ゆるゆると視線を机の隙間に持っていく。すると私はある奇妙なものを見つけた。宝箱のようなものがある。西洋らしい細やかな銀の装飾が施された両手サイズの細い木箱。こんなにも綺麗なのに、どうして乱雑に置かれているのだろう。楓果は導かれるように手に取ってしまう。以外にも埃は被っておらず、箱以外の重みを感じた。
神代楓果はぎこちなく蓋を開け、目を細めた。
銀色のナイフがそこにあったのだ。
柄は箱にあったのと同じ形の装飾が刻まれており、光を反射してきらきらと小さな光を放つ。
刃は磨いだように鋭く、楓果の顔を写し出す。
私はその瞳に吸い込まれる。
[どうして君は私を殺したいんだと思う?]
「わっ!」
声を上げ驚いた私は箱から手を離す。零れるようにカーペットの上に落ちたナイフは鉄の鈍い音がした。
「楓果ちゃーん!大丈夫ー?!」
徐々に近づく階段を踏みしめる音。
命のカウントダウン。
「はっ…はぁっ…はぁ、はぁ!」
私は一体何をしていたんだったかな。
扉の閉められたある小さな部屋の中で神代楓果は立っていた。
私は今何を…何をしていて…。何がしたいんだったっけ。
瞳の奥を確認してみる。
私は誰だっけ。
開けてはいけない扉が開いていく。
重く重く。
少しずつ。
私は脈打つ指の隙間から確認する。
ぎしぎし脳を裂くのは悲鳴の音。
[やぁ!君は私だ!]
制服に身を包む、恍惚とした笑みを浮かべた私が顔を覗かせた。
コメント
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執筆お疲れ様です😊 現実味のある物語から一転したファンタジー要素!良いスパイスですね🧂 ナイフの反射からの繋げ方がすごく好きです! じわじわと迫り来る恐怖に、私もドキドキしながら読んじゃいました…
ファンタジー要素入れました!ふぅ…銀色のナイフは呪いのナイフです。楓果は心の隙間に付け込まれて幻覚を見せられています。