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🩰第5話「泡の舞踏会、名前のいらない夜」
泡庭園の奥に立つホールは、泡の膜に包まれていた。
天井は泡のリズムで揺れ、壁には過去の感情が降り積もるような光が映っていた。
聖名(みな)は手紙を握ったまま、律と並んで泡膜のドアの前に立った。
ふたりとも仮面をまだ持っていなかったけれど、名前ではなく感情で語る準備だけはできていた。
🎭泡の仮面と選択
ホールの入り口には、感情の泡で編まれた仮面棚が並んでいた。
仮面は、選んだ感情に応じて色や質感が変化する。
聖名(みな)は「名前にできなかった好意」の仮面を選ぶ。
内側には泡のピアノの音が微かに鳴っていた――律が鏡の国で弾いていた旋律。
律は「言葉にしなかった約束」の仮面を手に取る。
仮面に触れた指が泡になりそうだったが、律はすぐに手紙の記憶を思い出して踏み出した。
🎶泡の楽団と踊りの始まり
泡楽団は楽器を使わない。
代わりに泡の粒を指で弾き、感情の濃度で音を奏でる。
床の泡を踏むと、感情に応じたリズムが生まれる。
ふたりは仮面をつけ、泡のステップを踏み始めた。
言葉が存在しない空間で、旋律だけが気持ちをつなぐ。
その時聖名(みな)はふと感じた――
「律くん」ではもう、今の律には届かない。
夢の中で呼ばなかった彼、泡の世界で感情だけで交わしていた彼。
その距離に、あの呼び方は少しだけ遠すぎた。
🕊️名前の代わりに生まれた呼びかけ
踊りの途中、聖名(みな)は仮面を外し、律の瞳を見た。
泡の光がふたりの間を照らす。
胸の奥で、言葉になりかけていた何かが浮かんできた。
彼女は気づいた。
律の名前を呼ぶ代わりに――
もっと自分の心に近い言葉が喉に集まっていた。
そして、音の間にそっと声が漏れた。
「……あなた」
それは、聖名(みな)が初めて律を“名前の外側”で呼んだ瞬間だった。
夢でも言えなかった。現実でも避けていた。
でも、泡の夜のこの舞踏会で、感情だけが彼女の口を動かした。
律は微笑むと、仮面のまま泡音をひとつ奏でた。
それは、泡夢手紙の最後に書かれていた旋律と同じだった。
ふたりは何も言わずに踊り続けた。
名前は割れなかった。泡も、言葉も、その夜のなかに溶けていた。
🌙夜が明ける前に
泡のホールの時計が音もなく回る。
朝の光が届く前、律はそっと仮面を外した。
そして、聖名(みな)のリボンに絡んだ泡を指先でふれた。
「“あなた”って呼ばれたの、初めてだったかもしれない。
名前の代わりに心をもらったみたいだった」
聖名(みな)はその言葉に、自分の泡が静かに息づいたような感覚を覚えた。
ふたりは手をつないだまま、泡の舞踏会をあとにする。
泡の粒が、まだ空に残っていた。