数日後、自宅で俺は悩んでいた。
俺の目の前にはリビングのテーブルに広げた空色の家の設計図が広がっている。
昨日の帰り際、設計担当に渡されたものだった。もし帰りに寄れるなら荒井さんの家に渡しに行って欲しい、と。
帰り道ではないが、時間的に行けなくはなかった。改めて渡す機会を設けるよりも簡単な話だったのに。でも、行けなかった。
行けなかった理由は自分でもわかっている。遅い時間から空色の家に設計図持っていったら、旦那と二人で仲良く過ごしている時間に触れてしまう。好きな女が俺以外の別の男と一緒にいるのを見たくない――それが本音で勝手な理由だった。担当失格。
なにをしてるんや。
なんで俺、人妻なんか好きになってしまったんや。
頑張っても実らない恋は、不毛でしかない。
女なんか誰も好きになったりできないと思っていたのに。まさか空色のことを……ああ、もう止めよう。考えたら頭痛に見舞われる。
ここ最近、気が付いたら空色のことばかり考えている。どうしようもない。
早く忘れたい。でも、空色が俺を支えてくれた十年という長い歳月や、彼女から贈られた言葉が忘れられないし、捨てることなんかもっとできない。
なんとか空色の仕事終わりに会えないか、と考えた。家に行くと旦那がいるかもしれないからできれば避けたい。
空色は三宮で翻訳の仕事をしているらしい。俺は今日仕事休みだから、こっちが彼女の都合を聞いて、約束を取り付けて待ち合わせのあと設計図を渡すのはどうだろう――たったこれだけのことが名案に思えた。
もちろん打ち合わせ目的。別になにをするわけでもない。ただ俺が二人きりで空色に会いたいだけ。会って声を聞くだけでいい。それだけで今日という日が幸せになるから。
よし、と意を決して電話を取った。
ちょうど昼休み。彼女は電話に出るかな?
数コールして出なかったら切ろうと思っていたら、焦った様子で空色が電話に出た。『は、はいっ』
「お世話になります。大栄建設の新藤です。律さん、先日はありがとうございました。ご自宅の設計図面が完成したので、マンションまで図面をお持ちさせていただきますが、いかがでしょうか?」
『あっ、見たいです!』
「承知致しました。律さん、お仕事は何時頃に終わりますか?」
『六時に終わります。あ、でも、今日は主人がヘルプでライブに出演するので、見に行く約束をしています。ですから、今日は都合が――』
「ライブですか! 光貴さんは、何時からご出演になるのですか? 因みに、どのようなバンドでしょうか?」
旦那のライブも気になったけど、それより一緒に見に行けないかな。実現するならカフェで打ち合わせするよりも、ずっと密な時間を空色と過ごせる。
チャンスやと思った。旦那のライブを見に行くという建前があれば、以前から見に行く約束もしているし、彼が変に思うこともない。空色と一緒にいたとしても、彼女に迷惑はかからない。
『サファイアのヘルプでギターを弾くみたいです。何でもギターヴォーカルの……』
「やまねんさんですよね?」
サファイアはメタルのインディーズのバンドで、ギターヴォーカルの山根明夫が凄腕で有名。結構人気があるから最近デビューが決まったみたいで、その関連の記事が毎月購読している音楽雑誌に載っていた。
ただ『メタル』というジャンルは特異や。一般受けはほとんどしないから、どこまで売れるかは謎。
その山根がギターの弾きすぎで腱鞘炎になったらしい。そこで空色の旦那に白羽の矢が立ったというわけか。全てが揃った舞台やな。
旦那とサファイアの貴重なライブが見れたうえに空色と一緒に過ごせる――最高以外のなにものでもない。
一緒に行きたいと告げると、俺の仕事の心配をしてくれたから問題ないことを伝えた。
『わかりました。では、六時十五分くらいにソックズの前で待ちあわせにしませんか?』
三宮で有名な大型雑貨店のビルの前で待ち合わせが決まったので、礼を言って電話を切った。ドクドクと自分の脈が波打ち、心拍数が上がっているのがわかる。ステージに上がるより緊張したかも。
空色とライブに行けることになった。
心がざわざわした。なにを着て行こうと初めて思った。彼女の目に映る自分が、少しでもあの旦那より優れて見えたいと欲が出た。まあ無理やけど。
俺は逆立ちしてもあんな爽やかな男にはなれない。
心が浮き立つ気持ちも初めて知った。恋愛のぬるい歌詞を書く男の気持ちが今までは理解できなかった。でも今は違う。実際自分がその気分を味わうと、そのぬるいと馬鹿にしていた歌詞の通りにドキドキすることを知った。
空色とのデートが決まってから、クローゼットの奥にしまい込んである白斗時代の私物を引っ張り出した。白斗(おれ)モデルのサングラスに非売品グッズ、スタッフパスとか様々収納されてあった。
この私物を空色に全部あげたら喜んでくれるかな。どんな顔するのかな。
喜んだとき、綺麗な顔をいっぱいくしゃくしゃにして彼女は笑うのかな。
彼女の嬉しそうな顔を想像するだけで心が温かくなった。