テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
深夜3時半
一度常温に保たれた室内から踏み出せば、夜霧はアスファルトの上まで降りてきている。
黎明にはまだ遠いが、寝てしまうには惜しいほど月が綺麗に爪痕を残していた。
マシュマロのように溶けてしまいそうな朦朧とした頭を、日本は押しつぶさんばかりに感触を確かめ左右に揺さぶる。
虚脱したように微かに首を振るこの動作は、睡気がたゆたっている意識の底を破るのは言外。
それと共に胸に巣食っている漠然とした不安、影像を追い払おうとした長考の末の勇断である。
「……やはり、男性同士なら尚の事でしょうか…」
抑揚のない呟きが洞穴のような寂れた部屋に矢鱈に響き渡る。
紅色の貝殻のように色鮮やかな日本の瞳が絶えず潤む。
カメラのレンズに向かってキッと凛々しく佇む上品な顔立ち。
写真に映るフィンランドさんは、私の記憶に刻まれている彼より更に清々しく、清廉だった。
フィンランドさんと、付き合って早二年。
彼とは、左手の薬指に愛の結晶をはめるつもりは毛頭ない。
フィンランドさんには贅沢にも、日向ぼっこのような幸福に暖められていてほしいのだ。
緩やかに宙に浮く身軽な風船が、枷にしか成り得ないねずみ色の汚水と睦まじくしてはいけないように。
自分の面目にかけて口に出せない想念を思い、銀に光る朝露が零れるように、眼が泪で濡れる。
ふと軌跡を辿れば、熱感の充ちる言辞の途方もない恥ずかしさに尻込みして碌に好意を屈託なく現せていないことに気付くのはそう遅くなかった。
自責の念に駆られ、喉の入口で足踏みし、慎重に一筋一筋言葉の糸を紡ぎ出す。
「す、き」
「ぁ、…愛してます」
「…だぃすき…です」
最悪だ。
釈然としない妙な感覚から一泊置いて、熱湯のような羞恥が湧き上がる。
恥じらいで痺れた手を蜘蛛の巣のように広げる。
「…はぁ。私、何やってるんでしょう」
冷静に帰って眉間のシワをほどき、弾んだ呼吸を吐息に吐き出す。
不意に日本の心を淡く掠めて過ぎた感情。
全身を這い回った恥辱の後込み上げてきたその感情は、虚脱でも悲哀でもない、疑問符だった。
(…自分から…す、好きって言ったらどうなるのでしょうか…)
かっと熱くなった脳みそに四方八方から、邪念が意地悪く心を刺して来る。
「…どうせ、別れるなら一つでも思い出を作りますか」
だが、普通に実行しようものならフィンランドさんの女心をそそる透けた肌に憂わしげな表情が雨雲のように広がるだろう。
心配そうに顔を歪めて愁雲を漂わせるフィンランドさんの目つきは大変、体に悪い。
奥ゆかしく、それでいて高貴に愛を振り撒くには、練習するに越したことはないだろう。
黒く四角いフォルムを持ち上げてあたかも繕われた女性が恋人に電話を寄越したかのような、猫撫で声に似た甘ったるい声を更に上擦らせる。
日本は花環を料理したかのような、しなだれかかるような媚びた声で意を決し、顔から火の出る思いで言い放った。
「誰よりも、ぁ、愛してます…」
ガチャ
バタンと戸が閉まる太く、低い音が聞えた。
不用心を通り越した大胆さで開け放たれた扉はシャワーの飛沫そっくりの埃が流れ出ていく。
氷点下のように凍結した頭脳は思考の一時停止を促した。
「フィン、ランドさん…」
「…日本」
湖畔のような静けさを纏うみずみずしい青は目を瞬く度に、間断なく落ちる水滴を払うように少しずつ明るさを落としていく。
「電話の相手、誰だ?」
沈鬱極まる声音は頬を殴るように冷たい口調だった。
「ぇ、…ぁっ…」
冷ややかな有無を言わせぬ口調に口が感電したように痺れ、顎は震え、歯と歯はうまくかみ合わず言葉にならない。
草の芽の伸びる音さえ聞き取れそうな程に光彩を消したような静寂が迫る。
手応えのない縺れた掠れ声に苛立ちの堰が切れたのか、フィンランドさんはむしりとらんばかりに私の手からスマホを奪い取った。
単に機嫌が悪く、黙りこくって不機嫌さを滲ませるのなら野百合のように可愛らしいものだ。
だが今の有様はどうだ。
爽やかで端正な顔立ちに違和を感じさせる粘り気のある火が、瞳に浮かんで、日本の瞳を執拗に突き刺している。
「あっ…かっ、返して下さ…ぃ」
「生憎、承知できないな」
今までどんなに無茶な要求を強請ろうと、フィンランドさんは異論を唱えないという消極的な形で賛同していた。
その物腰穏やかな丸い神経の持ち主が、底意地冷たく、恋人から物を強奪したのだ。
ひゅっと心臓をつかまれたような衝撃が胸中を貫き、怒ることさえも忘れて、目眩がした。
「…誰とも電話、してないな」
風景が奥行きを取り戻し、真っ暗な天井や本棚の影が暗澹と意識を醒まさせる。
悪夢から目覚めたようにほっと息を洩らし不安を消化する。
身の潔白を霧が去っていくように、一点の曇りなく証明でき、日本の顔はみるみる澄んでいく。
「疑いは、晴れましたか?…」
今も尚、「私には貴方だけですよ」などの気の利いた一言が、火照る羞恥心によって阻まれていることに吐瀉物に顔を埋めたくなるような自己嫌悪に陥った。
「…履歴を、消してるかもしれないだろ」
胸の隅に食い込むような余儀ない苛立ちが焦れ、心には墨汁のような苛立ちが拡がってゆく。
「…………面倒くさ」
変に遠まわしな言い訳よりも真っ先に口をついて出たのは重い泥濘のような感情だった。
「…フィンランドさんって、こんなに束縛激しかったですっけ?」
何かを諦めたように日本はふふ、と目を伏せて力なく笑う。
「もう、終わりにしましょう。私達」
ぐわん、と木で鼻を括ったように粗暴に押し倒され、視線がぶつかった瞬間、再び世界に時間が流れ始める。
大きな体が巨大な岩のようにのしかかる。
負けじと眼の光りを自分の眼の光りで押し返して、その瞳孔の底に押し込むかのように、網膜の上の澄んだ瞳と瞳が甘く絡む。
「Miksi, Japani? Tiedäthän, että tunnen sinut paremmin kuin kukaan muu, eikö niin?」
「ぅえ、っ…?っ…と、フィンランドさん…!?」
微かな焦燥が漂うフィンランドさんを目視すれば彼が動揺の余り、霜が降りた花のような唇で、母国語を捲し立てているのだと容易に理解できた。
「Olen ainoa joka voi vastaanottaa rakkautta Japanista」
「…っあの、!!フィンランドさん…!」
「 Jos katsot ketä tahansa muuta kuin minua, jos osoitat rakkauttasi kenelle tahansa muulle kuin minulle, et voi valittaa, tapahtuipa mitä tahansa, eikö niin?」
血色のすぐれない雪解けのようなフィンランドさんの顔と自身の顔が互いに糸で引き合うように近づく。
唇と唇が溶接したようにしっかりとくっつく。
「んっ、…ふ ッ、ぁ…っ♡」
「ち、ょっ…、やぁッ…♡♡ そこ”ッ♡」
「…気持ち良いよな、ごめんな。今まで満足させてやれなくて♡」
「ちがッ、♡ぁ “ あ ” ッ⁉︎♡♡む、り “ 、ッ…‼︎♡♡」
抵抗虚しく上顎を固定され、角度を変えて幾度か繰り返すと悪戯っぽく下唇を中々へばらずに何分もついばんでくる。
生温い唾液を流し込まれ、意識がひどく弛緩して、穏やかな南風に身を委ねているように全身がふやける。
霜焼けでもしたように赤くなったフィンランドさんの耳たぶが無機質に律動を重ねる振り子に重なって、朦朧の意識が紅靄のように私を包む。
ん、と吐息を零すと逃さんとばかりに掬われて舌がちゅるりと幼児用のゼリーのように滑らかに入ってくる。
「ッ♡♡あ♡ふ 、ッ ” ♡したっ、やだ…♡」
「何で?好きだろ♡?」
お互いの唾液が混じり合って渇いた喉に引っ掛かることなく通り、沁みる。
フィンランドさんは蜂蜜をたっぷりかけた甘いお菓子を出された子供みたいな恍惚で、法税の笑みを唇に綻ばせる。
「や、めッ、…‼︎♡んぅ、ッふ “ …!、?♡♡」
歯並びの良い歯の羅列の隙間から見る、心臓の端っこが覗いてるみたいな真っ赤なフィンランドさんの舌が口内を躍起になって蹂躙する。
歯の付け根を舌先でなぞり、びりりと痺れを感じて腰が痙攣する。
フィンランドさんが顎を固定している手を敏捷に首の根本から腰にかけて塗り薬を傷に擦り込むように官能的に撫でる。
不意をつくように仰々しく添えられていた手を、ばちんと爽快な音を立てて払い除けた。
「いい加減にしろこんの唐変木ッ‼︎‼︎」
眼前に広がる地獄絵図の元凶ともなる男を、鼻ッ面を殴りつけるように怒鳴った。
フィンランドさんは瞬きすら忘れて、驚いたように表情を止めた。
「良いですか、フィンランドさん!?私は貴方のことを愛しています。今まで言葉で示せなくて申し訳ないと思っています!」
「しかし‼︎‼︎貴方は態度で示すにも程があります‼︎話し合おうという気概は……ないようですね。というか、恋人じゃなかったら殴り合ってたんですか⁉︎」
右から左へと突き抜けていく罵声の数々を、フィンランドさんは何故か毒気が抜かれたように茫然自失として石像のように黙々と立ち停っていた。
十分後
「………本当に、すまなかった」
しばらくの間、微動だにせず、頓挫する二人の唇。皮膚がひりひりと痛みそうな沈黙を終わらせたのはフィンランドさんだった。
「…いえ、謝るのはむしろ言葉で表さなかった私の方です」
「これからは、フィンランドさんに対して相応の誠実な態度を取っていくように努めます」
「…日本の、侍魂には惚れ惚れするな」
面映そうに、子供のようにあどけなく、曖昧に照れ笑いを浮かべる。
「…フィンランドさん」
「?何だ?」
「……好きです、大好きです」
「…俺もだ。一生離れない覚悟はできてるか?」
「ふふ。ご心配なく」
「…!」
考えが、天使の翼のような軽やかさで、意識をかすめて飛び去って行き、胸をうつ。
「私には、貴方だけですよ」
生温かく、くすぶっていた私達の関係は、今歓喜の産声を上げて情炎に身を焦がした。
今回の小説は、賛否両論あるのかな…いつもより情景描写が普遍的な気がしてなりません…
♡を頂ければ幸いです。
next<<♡1000
♡800…感謝です!
コメント
1件
軽々しく重いフィンランドくんも、頑張って想いを伝えようとする日本さんも可愛い🫶 自分なりに繋ぎ止めようと必死なふたりが最高でした!! やっぱり情景描写神の域ですよ!人の挙動まで重ねられるところ、本当に尊敬します