テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
side 一ノ瀬 遥(はる)
高級ホテルのレストランなんて、今まで一度も縁がなかった。
しかも高層階。思ってた以上に静かで落ち着いていて、窓から見下ろす街の灯りがまるで別世界みたいだった。
「……やば、普通に緊張してきた」
「あはは、大丈夫だよ」
ドアマンがいて、店内は静かで、照明も程よく落ちていて――
最初は完全に場違いだと思って、正直、逃げ出したかった。
「なんか落ち着かねえ……。なぁ拓実、俺、浮いてねーかな」
「ちゃんとスーツ着てるから、誰も気にしてないって」
拓実は落ち着いた口調でそう言って、俺の背中を軽く押した。
なんだろう、こういう場所に来慣れてる感じっていうか――
所作ひとつひとつが無駄にかっこよく見えるのが悔しい。
……悔しいってのも変か。
けど、あの余裕のある空気を身にまとって、自然に人を守るみたいに振る舞えるのってすげぇなって思った。
「とりあえず、食事は楽しむもんだよ」
「……あ、うん」
しかし、だ。
メニューを開いた瞬間、思わず目が泳いだ。
ワインが一杯数千円。コース料理なんて、俺の一週間の食費より高い。
「……なあ、ここ、普通に高すぎじゃね?」
「俺が出すって言ったろ」
「そうだけどさ……」
出版社で働いてるとはいえ、俺の部署は地味な編集管理部。
取材に出るわけでも、記者会見に行くわけでもない。
ずっと社内でデスクに向かって、校正やら進行管理やら、そういう作業ばっかだ。
こんな、煌びやかな店には似合わない。
……なんて思いつつ。
「わ、うま……」
「うん。美味いね」
出てくる料理は文句なしに美味くて、久しぶりに“食べる”ってことにちゃんと向き合えた気がした。
食事中も、拓実は特別なことは何も言わなかった。
ただ、料理の説明に少し反応して笑ったり、俺が緊張して水ばっか飲んでたら「ワインにしとけ」って、さりげなくフォローしてくれたり。
会話はあくまで普通。
でも、心が少しずつほぐれていく感覚があった。
食べてる間はちょっとだけ――色々、忘れられた。
けど、会計で拓実がブラックカードを出してあっさり支払うのを見て、また現実に引き戻された。
……こいつは、俺と住む世界が違いすぎる。
そして、レストランを出たその瞬間、地獄は始まった。
「あれぇ? 一ノ瀬じゃん、お前こんなとこで何してんの?」
振り返らなくても、誰の声かすぐにわかった。
俺が最も関わりたくない上司。
……主任の佐野。
やたら声がでかくて、人を見下すのが日課みたいな男。
うちの案件にもよく口を出してくるくせに、締切も仕様もろくに理解してない。
どこにでも現れる癖に、よりによってこんな場面で遭遇するとか、運が悪すぎる。
俺が配属された頃からずっと、何かと目をつけられていた。
指示が二転三転するくせに、確認すると「聞いてないのか?」「空気読めよ」が口癖。
言い返すと「生意気だな」「可愛げがない」とくる。
「お前、こんなとこで何やってんの?」
「……夕飯、です」
「へぇ、こんな高級ホテルで? お前が?」
佐野主任の目が、露骨に俺の足元から頭の先まで這うように動く。
自分より下だと思ってる人間には、好き勝手に出るタイプの男だ。
「こんなとこ、お前の給料じゃ来れないだろ。誰のおごり? あ、そっちのイケメンの彼氏? ホストか何かなの?」
「違います」
「おーおー、反応だけは早いな。お前、編集部の人間だよな? 地味な進行管理のくせに、こんなとこでねえ……」
その声は周囲の客にも普通に聞こえるレベルで、俺は一瞬、店に戻りたいくらいだった。
「何も出来ないやつがなぁ。この前も、提出した校正ミスあったよな? あれ、俺が部長にフォロー入れといたけど? 」
「……」
嘘だ。
あのときは、俺が部長に直接謝って、資料を再提出してる。
#独占欲
#ワンナイトラブ
佐野は何もしてない。なのに、こうやって外でも“恩”をちらつかせてくる。
「ってか、一ノ瀬って普段すげえ真面目ぶってるけど、こういうとこで奢ってもらってデートしてんだ? 分かりやすいよな、顔さえ良けりゃついてくるって」
「……やめてください」
佐野は笑ってる。
でも、その目は笑ってない。完全に“下に見てる目”。
「冗談だって、冗談。ていうか、そんな怖い顔しなくても。まさか、このイケメンにだけは好かれたいとか思ってんの?」
「……」
その瞬間――拓実が俺の腕を軽く引いた。後ろにそっと隠すように。
「すみません、こちら、プライベートなので」
拓実は淡々と、でも冷たく言い放った。
「なんだお前――」
「失礼します」
俺の背中をそっと押して、拓実は佐野を無視して歩き出す。
「ちょ、なに、無視かよ? お前、名前なんていうの? え、なんか名刺とか――」
「遥、行こう」
そう言って、拓実が俺の腕を引いた。
「一ノ瀬って、結局あれだろ? 守ってくれる男がいないと無理なんだよな」
佐野の声が響く。
本人は“冗談”のつもりらしい。言っていいことと悪いことの区別がつかないタイプだ。
「なんか、家とか行ったらすげー大人しくしてそう。想像つくわ」
俺の手は、さっきからずっと震えていた。
悔しくて、腹が立って、でも何も言い返せなくて。
「……遥」
俺の名前を呼んでくれた。手のひらには拓実の温度が残ってて、少しだけ……泣きそうになった。
――拓実って、なんかズルいな。
涼しい顔して、スマートに守ってくれるとか、マジでずるすぎる。
俺の惨めさが、なんか逆に浮き彫りになった。
けど、少しだけ――救われた気もした。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!