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𝕣𝕖𝕒𝕣
395
#ご本人様には関係ありません
あか
261
#からぴち
琉愛˚𓆩✞𓆪˙
191
あれから、八年の歳月が流れていた。
白色の国の宮廷において、柔太朗はもはや「気まぐれな芸術好きの王子」ではなく、外交と交易の実務を一手に担う存在として、周囲から一目置かれるようになっていた。職人たちの技術を国外に売り込み、貿易路の再編を成し遂げ、その手腕は父王からも厚く信頼されている。
だが、忙しさに紛れても、消えない記憶があった。
年に一度、赤色の国の紋様を模した反物が、東方の商人によって持ち込まれる季節がある。その柄を目にするたび、柔太朗の指先は、検分する振りをしながら、ただその赤い色を、長く見つめてしまう。「殿下、お気に召しましたか」と問われるたび、我に返って、慌てて視線を逸らす――そんなことが、幾度となくあった。
三年前のある夜には、赤色の国で内乱が激化しているという報せが届き、柔太朗は夜通し眠ることができなかった。もし、あの人がもうこの世にいなかったら。そう考えるだけで、息が詰まりそうになる。誰にも打ち明けられない恐怖を、柔太朗はただ一人で抱え続けるしかなかった。
そして満月の夜には、決まって岬の露台へ足を運ぶ習慣ができていた。八年前、幼い二人が指切りを交わした、あの場所。柔太朗はそこに座り、月を見上げながら、あの日の約束を静かに反芻する。
――本当に運命なら、大人になったとき、それを返しに来て。
自分から放った言葉のはずなのに、その約束がいつしか自分自身を支える、たった一つの拠り所になっていた。
赤色の国からは、ここ数年、芳しくない噂ばかりが届いていた。黒色の国との緊張、内部の権力争い――遠く離れたこの国にまで届く話は、どれも不穏なものばかりで、柔太朗はそのたびに、胸の奥がざわつくのを感じていた。
だが、それ以上に踏み込む術はなかった。国交はあれど、あちらから届く便りに、あの少年の名が挙がることはない。柔太朗は、ただ胸元に下げた金の意匠を、そっと服の上から確かめることしかできなかった。
その日も、柔太朗は朝から交易船の積荷に関する報告書に目を通していた。港湾の関税、職人からの陳情、隣国との条約更新――尽きることのない書類仕事を、いつものように淡々とこなしていく。
「殿下」
家臣の一人が、少し慌てた様子で執務室に入ってきた。
「東の門に、負傷した男たちが辿り着いております。……その中の一人が、自らを赤色の国の王族だと名乗っておりまして」
「――なんだって?」
柔太朗は、思わず筆を止めた。
「見苦しい身なりで、俄かには信じ難いのですが……門番の話では、何か国の紋章のようなものを、身につけていたとか」
柔太朗の胸が、大きく跳ねた。
――まさか。
「案内しろ。私が直接、話を聞く」
「殿下自らが出向くようなことでは……」
「いいから」
早足で門へと向かうと、そこには、見るも無残な姿の二人の男が、衛兵に囲まれるようにして立っていた。
一人は、まだ意識を保っているものの、長身の体躯を丸め足を引きずり、片腕を布で吊っている。もう一人は、その隣で、崩れ落ちそうな体を支えながら、周囲を警戒するように睨みつけていた。
その、支えられているの男に、柔太朗は目を奪われた。
煤と血にまみれ、頬はこけ、かつての快活さの欠片も見当たらない。それでも――その胸元から覗く、小さな銀の意匠に、柔太朗の視線は吸い寄せられた。
月を模した細工。八年前、自分の手で作ったものだった。
「……舜太?」
声が、震えた。
名を呼ばれた男が、ゆっくりと顔を上げる。焦点の合わなかった目に、少しずつ光が戻っていくのが分かった。
「……柔太朗」
掠れた声で、その名を呼んだ。
次の瞬間、舜太の膝が、がくりと崩れた。太智が慌てて支えようとするが、その体はあまりに軽く、あまりに脆かった。
「舜太!」
柔太朗は駆け寄り、その体を自ら受け止めた。白い装束が煤と血に汚れるのも厭わず、痩せた体を抱きかかえながら、柔太朗は、これまで積み重ねてきた八年という歳月の重さを、初めて実感した。
「――医師を! すぐに!」
柔太朗の叫びに、周囲の衛兵たちが弾かれたように動き出した。
治療の間、柔太朗は控えの間で待たされることになった。傍らには、同じく手当てを受けたばかりの太智が、椅子に腰掛けている。
「……ほんまに、助かりましたわ」
太智が、ぽつりと零した。
「あちこち転々として、何回死にかけたか分からへんくらいで。……いや、ほんま、もうあかんかと思いましたもん」
「大変だったんだね」
「舜太様、ずっと気ぃ張ってはって……。怪我もしましたし、俺なんかよりよっぽど限界やったと思います」
太智は、そう言って苦笑いを浮かべた。疲労の色は隠しようもなかったが、その口調には、まだどこか、飄々とした強さが残っている。柔太朗は、その様子に、少しだけ胸を撫で下ろした。この男がいたからこそ、舜太はここまで辿り着けたのだろう。
「太智、よく舜太を、ここまで守ってくれたね」
「いや、俺は、ただついていっただけですし。……格好つけたいとこですけど、実際は舜太様の方が、ずっと踏ん張ってました」
太智は、照れくさそうに頭を掻いた。
手当てを受けた舜太が、ようやく落ち着きを取り戻したのは、日が暮れてからのことだった。
柔太朗は他の者を下がらせ、寝台の傍らに一人で腰掛けていた。傷の手当てを終えた舜太は、白い布に包まれた体を横たえながら、ぼんやりと天井を見つめている。その眼には何も映っていないように見えた。
「……父上が、死んだ」
ぽつりと、舜太が呟いた。
「国も、もう、あかん。黒色の国に、全部……」
声が、次第に震え始める。
「みんな、俺の目の前で……逃げることしかできひんかった。王子のくせに、何もできなかった、何も守れんかった」
堰を切ったように、涙が溢れ出した。声を殺しながら、それでも止められない嗚咽が、部屋に響く。
柔太朗は何も言わずに、その手をそっと握った。
昔の舜太なら、こんな風に泣くことはなかっただろう。誰に対しても物怖じせず、太陽のように笑っていた、あの少年の面影は、今はもう、どこにも見当たらない。
それでも、柔太朗はその手を離さなかった。
「よく、ここまで来たね」
「……え?」
「これを、ずっと持っていてくれたんだろう」
柔太朗は、舜太の胸元に下がる、月の意匠にそっと触れた。
舜太は、それを見て、ようやく少しだけ、表情を緩めた。
「……忘れるわけ、ないやろ。約束したんやから」
「うん」
「返しに来いって……言われたのに。こんな、ボロボロの姿で逃げてきて……」
「そんなこと、気にしなくていい」
柔太朗は、努めて穏やかな声で言った。
「ちゃんと、帰ってきてくれた。それだけで、十分だから」
舜太の目から、また新たな涙が零れ落ちた。今度は悲しみだけではない、何か別のものが混じっているように見えた。
部屋の隅に控えていた太智が、静かに口を開いた。
「……このご恩、一生忘れませんわ」
「よく舜太を守ってくれた。……ありがとう」
「いやいや、俺なんかより、殿下が受け入れてくれへんかったら、それこそどうしようもなかったですし。……なんていうか、ほんま、感謝してもしきれませんて」
太智は、深く頭を下げた。この八年、ずっと舜太のそばで、彼を支え続けてきたのだろう。その献身が言葉にせずとも伝わってきた。
その夜、二人が眠りについたのを確かめてから、柔太朗は静かに部屋を出た。
夜空を見上げると、満ちていく月が静かに輝いていた。
八年前、自分は運命など信じないと言った。それでも今、目の前で起きたことを、ただの偶然だと片付ける気にはどうしてもなれなかった。
(――すべてを奪い、すべてを与える運命の人)
幼い日に聞かされた、あの巫女の言葉が、不意に柔太朗の脳裏をよぎった。
あの頃は、ただの脅し文句のようにしか聞こえなかった予言。だが今、部屋の奥で眠る舜太を思い浮かべながら、柔太朗は、その言葉の意味をようやく実感していた。
舜太からは、本当にすべてが奪われてしまった。国も、父も、あの頃の少年らしい屈託のなさも。
ならば、与える方の役目を担うのは、自分なのかもしれない。
そう思うと、不思議と怖くはなかった。むしろ、こんなにもボロボロになった舜太が、他の誰でもなく、自分のもとを頼って来てくれたことが、柔太朗の胸を、静かに満たしていた。
誰かに、こんなにも必要とされる。それがどれほど幸福なことか、柔太朗はこの夜、初めて知った。
運命だったのか、それとも、あの日の約束が、二人をここまで引き寄せたのか。
どちらでもいい、と柔太朗は思った。
大切なのは、舜太が、こうして自分のもとへ帰ってきたという事実だけだ。
だが同時に、柔太朗の胸には拭いきれない不安も過った。黒色の国は、赤色の国を飲み込んだという。その手が、舜太を追ってこの国にまで伸びてくることは、想像に難くなかった。
(この人を、どんな形であれ守り抜く)
柔太朗は、月を見上げながら静かにそう心に誓った。
八年越しの約束は、思いもよらない形で果たされた。だがそれは、新たな困難の始まりに過ぎないことを、柔太朗はまだ知らなかった。
コメント
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ああっ、もう、冒頭から涙腺が緩みっぱなしでした……。8年もの間、柔太朗がずっとあの約束を胸に生きてきて、毎年赤い反物を見つめては舜太を想うその切なさ。で、再会シーンの、あの「ちゃんと、帰ってきてくれた。それだけで、十分だから」という言葉がもう、優しすぎて。奪われたものばかりの舜太にとって、柔太朗のこの受け止め方が、どれほど救いになったかと思うと……。運命とか約束とかを超えた、二人の絆の重みを感じるお話でした。続きがすごく気になります。