山本屋長五郎
「ええっ!両替できなかったって!」
沼津を過ぎ原宿の松並木に差し掛かった頃、お紺が素っ頓狂な声を上げた。
「手続きに不備があったみたい・・・ごめんお紺さん」
「しょうがないわね、でも今日の宿どうしよう?」
「少しなら手持ちがあるけど・・・」
「いくらあんの?」
「え〜と・・・」志麻が財布の中身を覗き込む。「一分銀が一枚(約ニ万五千円)・・・かな」
「よ〜し、お紺姐さんに任せな!」
「どうすんの?」
「賭場とばで増やすのさ」
「賭場って・・・え、博打ばくち!」
「そ、こう見えても商売柄その手の事には詳しいのさ」
「やったことあるの?」
「一度だけね。日本橋の顔役に誘われて博徒の親分の供養花会くようはなかいに行った」
「供養花会って?」
「大物の博徒が死んだ時、通夜の後に開かれる賭場のこと。そりゃもう盛大だったわ」
「でも、この辺りでやってるの?」
「ま、一応御法度だからお役人の力の及ばない場所を探せば何処かにある。この辺りなら、そうね・・・貧乏そうな寺とか」
「お寺ぁ!」
「江戸じゃ御旗本のお屋敷でもやってるわ。それで所場代を貰ってる、みんな台所は苦しいのさ」
「知らなかった・・・」
「でも、いきなり行っても入れちゃくんないから、案内人を探さなくちゃ」
「どうやって?」
「まぁ、任せときな・・・」
*******
チンチロリン・・・
馬蝿の飛び交う厩うまやの床に筵むしろを敷いて、馬喰ばくろうが三人茶碗を囲んでいる。
「やったシゴロ、俺の勝ちだ!」
「ちくしょう!次は俺が親だ、負け分一気に取り返させてもらうぜ!」
「ふん、そうはいかねぇ。ここで負けたら今日の稼ぎがパーになっちまうからな!」
馬の尿いばりと糞の匂いの充満する厩の中で、馬喰の一人が気合を入れた。
「おや、みなさんお楽しみだねぇ」お紺が気楽に声を掛ける。
馬喰達は昼間に幽霊でも見たような顔でお紺を見上げた。
「姐さん仕事の依頼かい?悪ぃが今日は取り込み中なんだ。明日でよけりゃどこまでも乗っけてってやるけどよ」
「そうじゃないよ、あっちもその勝負に混ぜてくんないかと思ってね」
「なんだって?冗談は良しなよ」
「本気だよ」
「本気だとすりゃ酔狂が過ぎるってもんだ。悪いこた言わねぇ、明日出直して来な」
「なんだい、そんなに女に負けるのが怖いのかい?」
「お、言ってくれるじゃねぇか。そんなにやりてぇんなら身包みぐるみ剥はがされても文句はねぇんだな?」
「望む所だよ・・・でも、あっちが勝ったらお願いがあるんだけど」
「なんでぇ?」
「常盆じょうぼんの立ってる賭場に連れてっておくれでないかい?」
「姐さん博打やんのか?」
「ああ、こう見えても江戸じゃちったぁ名の知れた女博徒さ」
「そりゃお見それした。分かった、あんたが勝ったら俺の知ってる賭場に連れてってやるよ」
「ありがと、それじゃ早速始めようか・・・コマはいくらだい?」
お紺の顔が不敵に歪んだ。
*******
お紺に丸裸にされた馬喰の一人が、お紺と志麻を案内して千本松の中に足を踏み入れたのは、陽の落ちた黄昏時だった。
「しかし参ったね、そっちの嬢ちゃんも一緒だなんて」
「この娘はあっちの妹分だよ、後学のために連れて来た」
「まったく、姐さんには敵わねぇなぁ」
「ところで、こんな所に賭場があるのかい?」
「ああ、この奥に松林寺しょうりんじって破れ寺があるんだが、そこの和尚が業突張ごうつくばりでよ、所場代たんまりせしめてやがる」
「どこも事情は変わらないねぇ」
「まぁ、胴元が赤駒の鉄造ってぇ太っ腹の親分だから安心して遊べるぜ」
「そりゃありがたいね」
「一つ言っとくが、寺に着いても口を開くんじゃねぇぜ。俺が上手いこと言って中に連れて入ってやるからよ」
「あいよ、任せた!」
さらに深く松原の奥まで入っていくと、遠くに一つ小さな提灯の灯りが見えた。
「あそこだ」馬喰が指差した。
側まで来ると傾いた山門の前に、見張が二人立っていた。
「止まれ!」
一人が声を掛けて三人を制止した。
「宿場人足の三次でござんす、今晩遊ばせてもらいてぇんですが?」
提灯を持った見張が三次の顔を照らす。
「おお三次か、そっちの二人は誰でぇ?」
提灯がお紺と志麻に向いた。
「あっしのお客なんですがね、明日次の宿場まで乗せる事になってまして。へぇ、酒代たんまり弾んでくれるってんですよ。それでね、今夜は原宿泊まりだから、旅の土産話になるような面白ぇとこ知らねぇかってんでここへ連れて来たってわけです」
「あんたらカタギだろ、賭場の作法は知ってるのか?」
「あっしがついてますんで、不作法なことはさせません」
三次がそう言って懐紙に包んだ銭を見張の手に持たせる。見張はそれを素早く袖の中に入れた。
「そうか、まぁお前ぇの客ならしょうがねぇ・・・よし、通っていいぞ」
「へぇ、ありがとうごぜぇます」
お紺と志麻は一言も発せず、三次について山門を潜った。
「うまくいった、あいつら三下だからちょっと鼻薬効かせりゃちょろいもんだ」
「ありがと、助かったよ」
三人は本堂の前を通り、境内を横切って庫裡くりの中に入った。
賭場の開かれている座敷の前の廊下で、中の様子を窺う。
「やってるやってる」
三次が襖を開けて入ると、志麻とお紺もそれに倣った。
蝋燭ろうそくが二本立てられただけの部屋は暗く、目が慣れるまでは部屋の様子はよく分からない。
ようやく目が慣れて来た。
中はそこそこに広く、二畳分の畳に晒さらしをピンと張り付けた盆茣蓙ぼんござの周りには、十人ほどの客が座っている。
三次はお紺から預かった金を木のコマ札に換えて来た。
「さて、ここからは姐さんのお手並み拝見と行きましょうか」
「あいよ」お紺はコマ札を受け取った。
「いいかい、場に入る時は丁の目が出てから入るんだ、半の目の時に入るのは御法度だからな」
「分かった」
お紺は場の様子を窺った。
「グニ(五・二)の半!」中盆(進行役)が言った。
「まだだ・・・」
溜息ためいきや歓声と共に暫くコマ札をやり取りする音が響いて、次の勝負が始まった。
「入ります!」
「・・・ピンゾロ(一・一)の丁!」
再び溜息と歓声が交差する。
「今だ・・・」
お紺は客の隙間に身を入れる。
「お仲間に入れてもらいますよ」
客の好奇な目がお紺に注がれる。
「姐さん、初めてかい?」中盆(進行係)がお紺に声を掛けた。
「なにぶん素人なもので、宜しゅう御頼み致します」
「楽しんで行きなせぇ」中盆がニヤリと笑う。
中盆の許しが出たので、客達も勝負に戻ってツボ振りの手元に神経を集中した。
*******
お紺は額に大汗をかいていた。
あれから順調に勝ちを重ね、次の勝負に勝てば賭け金は一挙に倍になって戻って来る。
どんなに安く見積もっても十両は下るまい。
「ハイ、ツボ!」中盆がツボ振りに声を掛けた。
ツボ振りの左胸には竜の頭、右胸には竜の尻尾、きっと背中には胴体がトグロを巻いて彫ってある事だろう。
「ハイ、ツボかぶります!」ツボ振りが左手の指の間にサイコロを挟んで前に出す。
サッとツボにサイを入れて盆茣蓙ぼんござの上に伏せたかと思うと、左手の指の股をグッと開いて客に見せた。イカサマの無い事を示しているのだろう。
客のコマは半方はんかたに集まってコマが揃わない。
「丁方ちょうかたナイカ、丁方ナイカ・・・ナイカ丁方!」
中盆はコマを揃えようと必死に声を掛ける。
「丁!」お紺は持ちゴマ全部を丁に賭けた。
「丁半コマ揃いました!」
ツボ振りは右手をツボに置いたまま、左手の掌が客に見えるようにツボの横に伏せた。
「勝負!」
中盆の声でツボ振りがツボを開く。その場の全員が固唾を呑んでそれを見ている。
「丁!」
中盆の声が場に響き渡る。
「やったぁ!」
お紺は拳を突き上げて飛び上がった。
「待った!」
銀鼠ぎんねずの縞しまの紬つむぎを粋に着こなした、若い男が場を止めた。
「そのサイを改めさせてもらおう」
「なんだテメェは!」
中盆が腰を浮かせて片膝を立てる。
「イカサマでなけりゃサイを見せたって良いんじゃないのかい?」
なんとも落ち着いた態度である、ただのカタギの町人とは思えない。
「ちょっとあんた何言ってんのさ、せっかくあっちが勝ったのに!」お紺が男に食ってかかる。
「姐さん、残念だが今日の勝ちは諦めてくんな、その代わり今夜の酒は俺が奢るぜ」お紺を振り向いてなんとも爽やかな笑顔を向けて来た。
「まぁ、ちょいと良い男・・・」途端にお紺の目が輝く。
「ちょっと待て!」中盆が割って入る。「赤駒一家の賭場にアヤつけようってんなら、それなりの覚悟があるんだろうな!」
「ふん、覚悟なんかいるか。こんなイカサマ博打で儲けるような奴らは、博徒の風上にもおけねぇ。この山本屋長五郎がぶっ潰してやる!」
「山本屋長五郎だと、知らねぇな?」
「なら、覚えときな。今売り出し中の俺の名前をよ!」
そう言って長五郎は目にも止まらぬ速さでツボ振りからサイコロを奪い取った。
「な、何しやがる!」
ツボ振りが飛び掛かるのを蹴倒しておいて、サイコロを口の中に放り込む。
ガリッ!と嫌な音がした。
「ペッ、これは何だ?」
長五郎が口から取り出して見せたサイコロの欠片かけらから、小さな鉛の塊が出て来た。
「これで出目を操ってやがったのか?」
「しゃ、しゃらくせぇ、やっちめぇ!」
赤駒一家の子分達が一斉に匕首あいくちを引き抜いた。
「待て!」
奥の襖が開いて、痘痕面あばたずらの太った男がのっそりと入って来る。
「親分!」子分が緊張した顔で男を見た。
「山本屋長五郎って青二才はテメェか?」
「俺の名前を知っているとは光栄だな」
「ふん、近頃あちこちで暴れているらしいな。噂は聞いている」
「だったら話は早ぇ、イカサマがバレたんだ、どう落とし前をつけるつもりでぇ?」
「テメェがこの世からいなくなれば良いだけの話よ」
「出来るかな?」長五郎が右の口角を上げる。
「おい、お前ぇら、やっちまえ!」
客が我先に逃げ出した。障子や襖が倒れる中、長五郎は懐から匕首を取り出して縦横無尽に暴れ回る。あっという間に子分達が血の海を転げ回っていた。
「親分、これじゃ旗色が悪い!」
だが、赤駒の鉄造は動じない。
「先生!」奥に向かって呼びかける。
ヌッと大きな人影が出てきた。月代さかやきの伸びた頭に無精髭ぶしょうひげ、絵に描いたような用心棒の姿形なりだ。
「こいつを斬れば良いのか?」
「先生、頼みます。礼は弾みますぜ」
「心得た・・・」
用心棒は長五郎の前に進み出た。
「山形兵衛やまがたひょうえ・・・参る」
キン!
気配も無く、鍔鳴りの音だけが聞こえた。電光石火の居合斬りだ。
長五郎の二の腕から血飛沫ちしぶきが上がっ。匕首あいくちを落として膝をつく。
「次は首を落とす・・・」
「くっ・・・」
山形の親指が鍔に掛かって腰が落ちた。
その時、初めて志麻が動いた。
「待ちなさい!」
志麻は咄嗟に山形の前に立ち塞がった。
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